清い交際
それからあっという間に3ヶ月が過ぎた。神崎は、月に2回ほどの紗希のボランティアの日はできるだけ孤児院を訪れ、短時間でも共に過ごした。
その日も神崎は仕事の合間に2時間だけ休みを取り、紗希に会いに来ていた。往復の時間を考えると、会えるのは1時間ほどしかない。裏庭のベンチに並んで座り、いろいろな話をした。
子供達は最近では気をきかせて、自然と二人きりにしてくれていた。
そんな中、神崎は切り出した。
「紗希さん、来月はあなたの17才の誕生日ですね」
「誕生日……あっ、そうでしたね」
紗希は少し顔を赤らめながら微笑んだ。
「覚えていてくださってありがとうございます。嬉しいです」
神崎は頷きながら少し緊張した面持ちで続けた。
「プレゼントは何が欲しいですか?事前に準備したいのですが……」
紗希は膝の上で指を絡ませながらしばらく考え込んでいた。
「欲しい物……ですか……」
視線を地面に落としたまま呟くように言う。
「……なんて言ったらいいか……お金で買える物じゃなくて……その……」
言い淀む紗希に神崎は優しく促した。
「何でも構いませんよ。遠慮なく言ってください」
紗希は意を決したように顔を上げた。
「……もう少し一緒にいられる時間が欲しい…です…」
「え?」
「あの……お仕事で忙しいのは分かってます。でも……神崎さんとお話したり同じ空間にいたりするのが嬉しくて……」
神崎の胸がキュッと締め付けられるような感覚に襲われた。控えめながらも率直な願いが愛おしくてたまらない。
「そんなことでいいんですか?」
紗希はコクンと頷く。
「それが一番のプレゼントです……ダメですか?」
潤んだ瞳で見つめられ、神崎は言葉を失った。彼女の純粋な願いに心から感動していた。
「……紗希さん」
「はい?」
「その願い……必ず叶えます」
神崎の瞳に決意の光が宿る。
「来月のあなたの誕生日には一日休みを取ります。朝から夜まで……二人で出かけましょう」
「えっ!?」
紗希の目がぱあっと輝いた。
「いいんですか!?」
「もちろんです。ずっと考えていたんです。あなたのために使える時間を作りたいと」
「本当に……嬉しいです……!」
紗希の頬がみるみる紅潮していく。
「どこか行きたいところありますか?例えば水族館とか……」
「あっ、それは神崎さんにお任せします!わくわくして眠れなくなっちゃうかも……!」
照れくさそうにはしゃぐ紗希を見て神崎は微笑んだ。
「約束します。素敵な一日にしましょう」
「はい!」
二人は夕暮れの中で小指を絡ませ指切りをした。たった1時間ほどの逢瀬の中で約束した未来の一歩が、彼らにとってどれほど大きな意味を持つのか。心を通わせ始めた二人の間には確かな温もりが灯っていた。
そしてついに、紗希の誕生日当日を向かえた。神崎はこの日の為に仕事をやり繰りし、不在中の指示を出し、準備万端で紗希との待ち合わせ場所へ車を走らせた。
その頃、屋敷からほど近い公園で、紗希は緊張した面持ちで神崎を待っていた。一張羅のワンピースに身を包み、精一杯のおしゃれをしたつもりだ。
(変じゃないかな…やっぱり子供っぽいかも……あ、神崎さん)
見慣れた黒塗りの車が、公園の駐車場に滑り込んで来た。紗希が駆け寄ると、神崎が車から降りてきて笑顔を向けた。
「紗希さん、おはようございます。お待たせしました」
「おはようございます、神崎さん。私も今来たところです」
紗希は嬉しくてたまらない様子で、笑顔で神崎を見上げた。
「紗希さん、17才のお誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今日はずっと一緒にいられます。行きましょう。さあ、どうぞ」
そう言うと神崎は慣れた様子で助手席のドアを開け、紗希を車へといざなった。
「はい…ありがとうございます」
紗希は緊張しながら、助手席へと乗り込んだ。
車は1時間以上のドライブの後、湖畔公園へと到着した。そこは自然豊かで風光明媚な景勝地で、多くのカップルや観光客で賑わっていた。
「うわあ…綺麗な湖……!」
コバルトブルーの水面がキラキラと輝き、紗希は余りの美しさに歓声を上げた。
「こんな綺麗な色の湖、始めて見ました!」
「喜んでもらえて良かったです。貴女にこの景色を見せたかったんです」
「感激です!ありがとうございます!」
広大な湖の湖畔には遊歩道が整備され、ボート乗り場や飲食店、花畑や小さな牧場等が点在している。
美しい景色に釘付けになっている紗希に、神崎が声をかけた。
「その先の観光牧場で、ヤギの子供が生まれたそうです。見に行きませんか?」
「ヤギの赤ちゃん!?絶対見たいです!」
「では、行きましょうか。そちらの遊歩道を10分程で着きそうです」
湖畔の遊歩道を二人で並んで歩き出すと、数多くのカップルとすれ違う。ここは有数のデートスポットで、そのほとんどが手を繋いだり腕を組んだりして仲睦まじく楽しそうにしている。
(…いいなあ…私もあんなふうに…)
紗希は周りのカップル達を見て、羨ましい気持ちになっていたが、18才まで何もしないとの約束がある。
(まだあと1年もある…)
神崎を見ると、何か考え込んでいるようにも見える。
「…紗希さん…」
神崎が思い詰めたように紗希に呼びかけた。
「あの……手を…繋ぎませんか?」
紗希の目が大きく見開かれた。予想外の提案に胸が高鳴り、期待と恥じらいが入り混じる。
「え……いいんですか?」
か細い声で尋ねると、神崎はまっすぐに紗希を見つめ、わずかに頬を染めながらも毅然とした調子で続けた。
「はい。その……以前、握手をしたことはありましたよね? だから……手をつなぐのも……問題ないと……判断しました」
彼の理論的な言い回しに、思わず笑みがこぼれそうになった。けれどその奥にある真剣さを感じ取った紗希は、こくりと大きくうなずいた。
「……はい! ぜひ……お願いします!」
紗希の答えを聞いて安堵したのか、神崎の口元がほんの少しほころんだ。
差し出された神崎の大きな手に、紗希はおそるおそる自分の右手を重ねる。触れた瞬間、温かいと同時に固くてしっかりした感触に包まれる。神崎がしっかりと紗希の手を握った。
(わ……大きい……)
「行きましょうか」
「は……はい」
手をつないだまま、二人は再び歩き始めた。
他愛のない会話を交わしながらも、紗希は握られた手の感覚に夢中だった。硬質な掌から伝わる体温が心臓の鼓動と共鳴している。
嬉しくて思わず頬が緩んでしまう。
神崎はというと、自身の判断を反芻しながらも新たな局面に挑んでいる緊張を抱えていた。
(握手した事があるからと……かなり強引な理屈だが……)
しかし目の前で嬉しそうにする紗希を見ていると、後悔など一切湧かなかった。むしろ自分の心の中にも確かな喜びが広がっていくのを感じる。
「見て下さい。白鳥ですよ!」
「本当だ。綺麗ですね」
他愛のない会話の中でも、手から伝わってくる紗希のぬくもりがすべてを鮮明に彩っている。握る力加減ひとつでさえ慎重になってしまうほど、神崎は自分の中に芽生えた新しい感情に戸惑いながらも愛おしさを感じていた。
遊歩道を行く二人の周りには相変わらず多くのカップルが歩いていた。皆それぞれに恋人同士の甘いひとときを過ごしている。手をつないだという行為だけで紗希にとっては刺激的な光景だったが、神崎との時間がそれを特別なものに変えてくれていた。
ヤギの子供を見に牧場に辿り着くまでに十分ほどを要した。その間中、二人はずっと穏やかな幸福に包まれていた。
「すごい人ですね……」
「子ヤギちゃんたちはこっちみたいです。あそこに赤ちゃん動物コーナーがあるみたいです」
そこには既にたくさんの家族連れや若いカップルが群がっていた。柵越しに小さな子ヤギたちが無邪気に跳ね回る姿に誰もが魅了されている。
「わあ……可愛い~!」
紗希が思わず声を上げた。その横顔に神崎も微笑みかける。
「本当に可愛いですね」
(小ヤギを愛でる紗希さんが可愛い……)
そんな神崎の内心を、紗希は知る由もない。
「あ、餌やり体験の野菜を配ってます!私、貰ってきますね」
紗希は神崎の手を放して駆け出すと、小松菜の葉を2枚貰って来て1枚を神崎に手渡した。
「これはあっちの大人のヤギさんにあげるそうです。行きましょう!」
紗希はそう言うと、ごく自然に神崎の手を取り、大人のヤギの柵の方へ進みだした。
「あ…」
虚をつかれた神崎の一瞬の戸惑う様子に、紗希はハッと我に返った。
(わ、私…神崎さんの手を…)
「ご、ごめんなさい…勝手に…」
顔を赤らめて放そうとすると、神崎はその手をしっかりと握り返した。
「いいえ…嬉しいです。行きましょうか」
「はい!」
大人のヤギの柵に到着すると、エサに気付いた大きなヤギが近付いてきた。
「はい、どうぞ」
二人が小松菜を差し出すと、ヤギは神崎の手から強引にむしり取って食べてしまった。
「あはは…一瞬でしたね…」
神崎が苦笑していると、今度は紗希の持つ小松菜を狙って顔を近付けてきた。
「はい、ゆっくり食べてね」
紗希の言葉が通じているのか、ヤギは紗希の手から少しずつ食べ始めた。
「いい子だね。可愛いね」
紗希はヤギの首すじを優しく撫でた。ヤギは心地良さそうに目を細めながら食べている。そして間もなく食べ終えると、もっと欲しいのか、柵から身を乗り出してきた。
「もう終わりだよ。ごめんね」
紗希が両手を開いて見せると、ヤギは納得したのか、紗希の頬に鼻先を押し当て、去って行った。
突然のヤギの行為に神崎は驚愕した。
(ヤ、ヤギが紗希さんにキスを…!?いやいや何を考えているんだ私は…)
「ヤギさん、可愛かったですね。え?どうしたんですか?」
神崎の何とも言えない表情に、紗希は何事かと驚いた。
「い、いえ…何でもないんです…」
神崎は自分の異常な考えに苦笑しながら小さな声でつぶやいた。
「…ヤギに嫉妬してしまいました…」
「え…なんて…?」
「いえ、いいんです。気にしないで下さい。それより、そろそろお昼ですね。お腹が空きませんか」
神崎が時計を確認すると、既に11時半を過ぎている。
「あ、はい。そうですね」
「近くのレストランを予約してあります。行きましょうか」
「はい!」
レストランは湖畔に面した小さなオーベルジュだった。木造りの温かみのある建物は趣があり、窓からは湖の美しい眺望が楽しめる。昼前だというのに店内はすでに多くの客で賑わっていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
神崎が名乗ると、ウェイターが深々と頭を下げた。
「本日は大切な記念日とのこと、おめでとうございます。当店自慢の湖岸テラス席をご用意しております」
案内されたのは、湖を見下ろせるプライベート感のあるテーブル席だった。柔らかな陽光がテーブルを照らし、微かに聞こえる波音が心地よい。
「素敵なお店ですね……」
紗希が感嘆の声を漏らすと、神崎は少し照れたように微笑んだ。
「気に入ってもらえて良かったです」
メニューを広げる神崎の所作は実に洗練されていた。
「好きなものを選んでください。季節のコース料理もいいですし、アラカルトもありますよ」
彼の声は低く落ち着いており、不思議と紗希の耳にしっかりと届く。
「わ……迷ってしまいますね」
紗希が目移りしていると、神崎はメニューを優雅に操りながら説明を始めた。
「この前菜プレートはシェフのお勧めだそうです。メインは魚と肉どちらがいいですか?」
「どちらも美味しそうで決められません……」
神崎は少し考えるそぶりを見せた後、穏やかに微笑んだ。
「では、シェフにお任せしてみてはいかがでしょう。旬の食材を使ったおまかせコースもあります」
「はい!ぜひお願いします!」
迷わず答える紗希に、神崎はウェイターを呼び止めると慣れた様子で注文を済ませた。その間もウェイターとの対応は敬意に満ちており、背筋の伸びた姿勢や言葉遣いからは品性が滲み出ている。
(神崎さんってすごい素敵…やっぱり大人なんだ…)
紗希は神崎への憧れを改めて感じ入った。
(私も神崎さんに釣り合うように、ちゃんとしなきゃ…)
紗希の身体に力が入る。
「緊張してるんですか?」神崎が紗希の様子に気づいて優しく尋ねた。
「はい……こういうお店に入ったことなくて……マナーとかわからないし……」紗希は正直に答えた。
「変な事して恥をかきたくないです……」
神崎は優しく微笑んだ。
「最初は誰でもそうですよ。私も初めての時、ナイフとフォークを逆に持って慌ててしまいました」
「え……神崎さんでもそんなことが……?」
「ええ。でも結局は楽しむのが一番です。今日の主役は紗希さんなのですから」
その言葉に紗希の肩の力がふっと抜けた。
「ありがとうございます。そう思います。でも何だか不思議な感じがします」
「え?不思議…?」
「いつもは毎日のように給仕をしてるのに、今日は逆だから何だかくすぐったい気がします…」
「確かに…私もそんな気がしてきました」神崎も少し照れたように微笑んだ。
ちょうど前菜の皿が運ばれてきた。繊細な盛り付けの三種類のタパスが並び、色彩豊かなソースが芸術的に飾られている。
「わぁ……すごい……」
「さあ、冷めないうちに召し上がってください」
神崎はナプキンを膝に広げながら自然に言った。
「いただきます」
紗希はおそるおそるフォークを持ち上げた。神崎の食べ方も参考にしながら一口運ぶと、口いっぱいに広がる新鮮な味わいに目を見開いた。
「美味しい……!こんな味初めて……!」
紗希の素直な感動に神崎は心から嬉しそうに笑った。
「よかった。シェフのお勧めを選んで正解でした」
「はい。本当に美味しくて素敵なお店ですね」
「気に入って貰えて良かったです。ここは昔、旦那様に初めて連れて来ていただいた思い出のお店なんです」
「え…旦那様と…そんな大切な場所に……」
驚く紗希に神崎は優しく、しかし力強く言った。
「はい。だから紗希さんと来たかったんです」
(紗希さんは孝一郎様と同じくらい大切な存在です)
「ありがとうございます…すごく嬉しいです…」
最後に運ばれてきたデザートは濃厚なチョコレートムースと季節のフルーツ添えだった。紗希は最後の一匙まで夢中になって味わった。
「ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
「こちらこそ、喜んでもらえて良かったです」神崎は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうそう、忘れるところでした」
神崎は上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「紗希さん、17歳のお誕生日おめでとうございます」
「え……?」
予期せぬサプライズに紗希は呆然とした。一緒にいられる時間が最大のプレゼントだと伝えていたのに……
「プレゼント……いただけません。だって……私は……一緒に……」
紗希の混乱した様子を見て神崎はそっと箱を開けた。中に収められていたのは銀色に輝くシンプルな女性用腕時計だった。
「これには理由があります」神崎は真摯な眼差しで語りかけた。
「あなたと過ごせる時間は限られています。いつでもあなたと一緒にいたいという私の気持ちを形にしたものです」
紗希は恐る恐る時計を手に取った。薄型の文字盤には控えめなローマ数字が刻まれ、裏蓋には今日の日付と共にR to Sの文字が刻印されている。
「こんな素敵なものを……」
「ただのモノではなくて……私の気持ちそのものとして受け取ってもらえませんか?」
神崎の言葉に紗希の瞳が潤んだ。確かに時計は物質的な贈り物だが、その中に込められた彼の想いこそが何よりも尊いものに感じられた。
「ありがとうございます……」
震える手で時計を左手に着ける。サイズはピッタリだった。
「似合いますか?」
「とても素敵です」
神崎は心から安堵した様子で微笑んだ。
「大切にします……毎日必ず着けます」
その言葉を聞いた神崎の胸には温かいものが広がった。
(一緒の時間が欲しいという紗希さんの想いも理解していた。だからこそ時間を共有する象徴として時計を選んだ。私の勝手なエゴかもしれないが……)
「本当に嬉しくて……言葉が見つかりません」
紗希の率直な喜びに神崎は胸が熱くなった。
(良かった。喜んでもらえて……)
「……気に入ってくれて本当に良かったです」
「最高の誕生日プレゼントです。ありがとうございます」
二人はしばし見つめ合い、静かな幸福感に包まれていた。窓の外では午後の陽光が湖面に反射し、きらきらと輝いていた。
レストランを後にした二人は、レンタルボート乗り場へと足を運んだ。風も無く、澄み切った青空と鏡のような湖面は手漕ぎボートに最適のコンディションだった。
その後も二人は園内の散策道を歩いたり、湖畔の写真撮影スポットを巡ったりしながら充実した時間を過ごした。空が茜色に染まり始めた頃、神崎が言った。
「そろそろ帰りましょう。明日も早いですよね?」
「はい……でも帰りたくない……」
紗希が名残惜しそうにつぶやく。
「また来年も……再来年も……必ず連れて来ます」
「本当に…?」
「約束します」
固く誓い合ってから駐車場へ向かう途中、視線を交わした二人の間に静かな幸福感が満ち溢れていた。
二人の初めての遠出から、早くも1ヶ月が過ぎ去った。相変わらず会えるのは月2回ほど、孤児院でのほんのわずかな時間だったが、紗希は神崎からの腕時計を心の支えに毎日の仕事に励んでいた。
そんなある日の夜、仕事終わりの談話室はメイド達が恋の話で盛り上がっていた。
この屋敷の使用人は十代から二十代の若者がほとんどで、職場恋愛が自然と盛んになっていた。
紗希や同室の詩織達、年少のメイドグループは、誰が気になるか、人気があるかを熱心に話し込んでいる。
「私はフットマンの安達さんが…」
「わかる!私もこの前荷物運んでくれて、優しいよね!」
「庭師見習いの松田さんもかっこいいよね!逞しくて素敵…」
「厨房の宮本さんも……」
みんなそれぞれの推しを楽しそうに挙げている。
(いろんな人が人気あるのね)
紗希は人ごとのように呑気に話を聞いていた。
「ねえねえ!紗希ちゃんはどう思う?」
「えっ!私…?私は…特に…」
いきなり話を振られ、紗希は戸惑いながら口ごもる。
「紗希ちゃんはやっぱり神崎さんだよね~」
以前神崎が紗希を庇って怪我をした事は周知の事実で、紗希が憧れるのは当然という認識が定着していた。
「まあでも、神崎さんは年が上過ぎるし完璧過ぎて、雲の上の人って感じよね」
「確かに!隙が無いっていうか恋愛とか想像出来ないよね」
みんな、まさか紗希が神崎と付き合っているとは微塵も思っていないようである。
紗希は誇らしいような、くすぐったいような、複雑な気持ちになっていた。
そんな中、隣のテーブルの年長のメイドグループの会話が聞こえてきた。
「…私、この前、伊藤君とついに…」
「ええっ!まさか最後まで…!?」
隣のテーブルから漏れ聞こえてきた衝撃的な告白に、年少組の輪が凍りついた。
彼女たちは思わず声の方向に振り向き、年長メイドたちの秘密めいた囁き合いに釘付けになる。
「嘘でしょ……?まだ二週間じゃなかった?」
「もうそんなに親密になってたなんて……」
年長組のリーダー格・楓がクスリと笑う。
「私からいったわけじゃないのよ。むしろ向こうの方が積極的だったくらい。屋根裏部屋の物置でね……」
「きゃあ!そこって普段鍵かかってるじゃない!」
「だからよ。あんな場所誰も来ないけど……まさかあんな展開になるなんて」
楓が妖艶なため息をつくと、周りの同僚たちも追体験するように身を捩る。
「で、その時の伊藤君って……」「すごかった……ずっと囁いてきて……」「やだ~詳細は聞かせられないよ!」
扇情的なヒソヒソ話に耐え切れなくなった年少組の一人が真っ赤な顔で俯いた。
「ちょっと……そんな話……」
「そうそう!刺激強すぎだって!」
詩織が腰を上げかけるが、別の同僚が彼女の袖を引っ張る。
「でもさ……どんな感じだったのか気にならない?」
紗希もその場に居合わせながら動揺を隠せない。清掃時に通りかかる屋根裏部屋の暗さや埃っぽい匂いが脳裏に浮かぶと同時に、血の気が引くような感覚が走る。
(そんな場所で……?)
隣の楓が突然こちらをちらりと見た。
「……もしかして聞こえちゃった?悪いことしたね」
大人びた口調に年少組の全員がビクリとする。
「そろそろ部屋に戻らないと。若い子たちには刺激が強すぎるもんね」
悪戯っぽい笑みを残して年長組が席を離れると、室内に気まずい沈黙が降りる。
「……なんか凄かったね」
「うん……まさかそこまで……」
やがて一人がぽつりと漏らす。
「でも…やっぱりちょっと憧れるかも…」
「私達も、早く彼氏ができるといいね」
(1、2才年上なだけなのに、進んでる…大人なんだ…私もいつか神崎さんと…)
神崎から贈られた腕時計に触れながら、紗希は決意を新たにした。




