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想いの行方

神崎は廊下を歩きながら、紗希の言葉の意味を考えていた。


「大好きです!」


先程の紗希の言葉が頭から離れず、足元がおぼつかない。執務室に戻ると、深呼吸をして自分を落ち着かせようと努めるが上手くいかない。


(私は……一体……どうしてしまったんだろう……)


紗希の事を思うと、胸の奥が熱くなる。

神崎は自分の心境の変化に戸惑っていた。

確かに以前から紗希の事は何かと気にかけ、成長を嬉しく思っていた。しかし今ではそれだけではない感情が芽生えていたのだ。


(……私は……紗希さんの事が……)


その気持ちに気づいた時、神崎は愕然とした。


(馬鹿な……ありえない……)


貴族に仕える執事でありながら、部下であるメイドに恋心を抱くなんて許されることではない。

それに彼女はまだ若く未熟で将来性のある娘だ。自分のような年上の、しかも執事と恋仲になるなど絶対にあってはならない。


(彼女はまだ16才だ…あの言葉も深い意味は無いかもしれない…そうだ……これは一時の気の迷いだろう……)


神崎は自分の感情を否定しようとしたが、それは叶わなかった。


「……ああっ!もう!」

神崎は自らの頭を抱えながら机に突っ伏した。今の自分はどうしようもない位に情緒が不安定になってしまっている。

こんな事は生まれて初めての経験で対処法が全く思いつかない。

何より自分は仕事に関しては一切妥協せず、完璧であろうとしてきた人間なのだ。その自分がどうしてこうなってしまったのかわからない。


(このままではいけない……)


何とか気持ちを切り替えようと必死に考えを巡らせたが効果はなかった。



その夜のことである。就寝時間になっても神崎はなかなか寝付くことができなかった。


(こんなこと初めてだ……)


彼の思考は完全に紗希へと向いていた。


彼女の笑顔や涙ぐんだ顔を思い出す度に胸が締め付けられるような痛みを感じる。それと同時に今まで感じたことのないような幸福感に包まれることもあった。だが同時に恐怖にも駆られていた。


紗希への気持ちが抑えきれなくなってしまうのではないか?という不安と恐れを持ちながら夜を過ごしたのだ。


そしてついには眠れぬまま朝を迎えた。



それでも神崎は、何事も無かったように日々の仕事を全力でこなすように努めた。

業務上の指示で紗希と会話を交わす事はあったが、特に変わった様子は見られない。むしろ何かを吹っ切れたかのように、前よりも明るく前向きに感じられる。


屋敷の中ではやはり二人きりになる機会は無く、そのまま3ヶ月が過ぎていった。



やがて春が訪れ、屋敷では健康診断の時期になり、美奈子は紗希に手伝いを頼み、医務室で二人で作業をしていた。


「紗希ちゃん、随分と手際が良くなってきたわね」

美奈子がカルテを整理する紗希を見て微笑んだ。春の陽光が差し込む医務室には新緑の香りが漂っている。


「ありがとうございます!美奈子先生の教え方が上手だからですよ」


照れくさそうに笑う紗希の横顔を美奈子は見つめた。


(あれからもう3ヶ月か……)


神崎との件があってから、紗希はどこか吹っ切れたように活き活きとしている。でも肝心な進展は──


「ねぇ、紗希ちゃん」


「はい?」


「……神崎さんとはその後どうなの?」


紗希の手が一瞬止まった。頬がほんのり桜色に染まる。

「どうって……別に何もないですよ」


「えー?本当にー?」


わざとらしく首を傾げる美奈子に紗希は慌てる。


「本当です!だって……神崎さんは忙しいし……それに私なんて全然子供だし……」


言葉が途切れ途切れになる。


紗希は窓の外を見つめた。庭の桜が散り始める季節がもう来ている。


「それにしても、女の子から『大好きです』って言われて何も反応しないなんて…」


「……それは、仕方ないです…」


ぽつりと零れた言葉に美奈子はハッとした。

「どうして?」


「だって……神崎さんは立派な大人で……私はまだ子供で……釣り合うわけないし…」


紗希は努めて明るく振る舞った。

「それに、あの時はつい本音が出ちゃったけど、ちゃんと告白したわけじゃないし……今のまま、部下として側に居られるだけで充分なんです」


(そんな……)


美奈子は言葉を探す。どうしたらこの健気な少女の想いが報われるように導けるだろうか。

美奈子は今度、神崎にちゃんと話を聞いてみようと決意した。



使用人達の健康診断が終わり、程なく診断結果が返って来た。美奈子は毎年この診断結果を元に、全員と個人面談を行っていた。身体の健康と共に、心の状態を把握するためである。


美奈子は数日かけて全員の面談を終え、最後に神崎の面談に臨んだ。

医務室のデスクで神崎と向き合い、美奈子は診断結果を手渡した。


「神崎君、今年も何の異常なし。いつも規則正しい生活をしている成果ね」


「ありがとうございます」


「ただ……」美奈子は言葉を選ぶように少し間を置いた。


「最近、よく眠れている?目の下に少し隈があるようだけど」


神崎はわずかに動揺を見せたが、すぐに平静を取り戻した。

「……少しだけ寝つきが悪い時もあります。気候の変化かもしれません」


「そう……」

嘘だ。美奈子は確信した。


(やはり何か隠している……紗希ちゃんとのことで……)


「他に悩み事は?」

思い切って核心に迫る質問を投げかけた。


「……特には」

即答したものの、神崎の視線が僅かに泳いだ。


美奈子は静かに息を吸い込んだ。確信を持って切り込む。

「神崎君……率直に聞かせて」


彼の指がわずかに動く。


「紗希ちゃんのこと……どう思っているの?」


一瞬の沈黙。医務室の空気が凍りつく。


神崎は拳を握りしめた。

「……ただの部下です」


「嘘よ」

美奈子は即座に遮った。


「あなたの目が紗希ちゃんを追っていることに気づいていないとでも?」


長い沈黙の後、彼は深く息を吐いた。


「……仲野先生には何でもお見通しなんですね…確かに私はあの子に特別な感情を抱いています。……あの子に笑顔を向けられると幸福感に包まれ、泣き顔を見ると胸が締め付けられる…」


「それはつまり……」


「……執事としてあるまじき感情だということは自覚しています」


「感情そのものは罪ではないわ」


「しかし!」

神崎の声が鋭くなった。自己嫌悪に顔を歪める。


「私は九条家に仕える身。立場をわきまえなければ」


「紗希ちゃんが望んでいるとしても?」


彼の瞳孔が微かに広がった。唇が震える。


「……彼女はまだ十六です。まだ未成年で、中学を出たばかりの、ほんの子供です!…十五も年下です…」


「愛に年齢は関係ないわ。実際に十六、七で結婚する子は大勢いるわ」


美奈子は優しく諭した。

「彼女があなたを選んだ理由を考えて」


神崎は机を見つめ、長い沈黙の末に呟いた。


「それでも……貴族に仕える執事は、独身を貫くのが慣例です。先の無い関係で彼女の未来を奪う権利など…」


「独身を貫く!?貴方は一生その慣例に縛られるつもりなの?それは旦那様の命令なの?」


驚愕する美奈子の問いに、神崎は静かに強い決意を告げた。


「命令ではありません。執事が自らに課す忠誠の証です」


「…そんなのって…あんまりだわ…私が知っている旦那様なら、貴方の幸せを願わないはずがないわ」


「…この事は、執事になると決めた時に納得した事です。だから、紗希さんとは……」


神崎が紗希への気持ちがあるはずなのに動かないのには、年齢差だけではなく、そういう理由があったのだ。美奈子は複雑な思いでかけるべき言葉を探した。


「神崎君、貴方の事情も知らずに無神経に立ち入って悪かったわ」


「いえ、そんな…心配して下さっているのは理解しています」


「それでも……」


美奈子の手が神崎の肩に触れた。

「答えを急がないで。何か方法はあるはずよ。どうか自分に正直になって…」


「…そう…ですね…仲野先生…今日は気持ちを吐き出したら、少し楽になった気がします。ありがとうございました。」


そう言って神崎は医務室を後にした。


神崎と紗希のもどかしい関係は、何も進展することはなく、二人はそれぞれ想いを募らせていた。それでもいつも通りの日々は続く。



その日、紗希は休日を利用してボランティアとして孤児院へ向かい、神崎は九条孝一郎とのチェスに臨んでいた。

昼下がりの孝一郎の書斎で、神崎と孝一郎はチェス盤を挟んで相対していた。


「久しぶりに、やっと君と対戦できて嬉しいよ!」


約3ヶ月ぶりの機会に、孝一郎は喜びを隠しきれずに、明らかにうきうきしている。昔から変わらない孝一郎の笑顔に、神崎は胸が暖かくなり、つられて笑みがこぼれる。


「私も楽しみにしていました」


「君は忙し過ぎるから、貴重な機会だよ。さっそく始めようか」


「はい、よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


チェスクラブの時からの習慣で挨拶を交わし、対局を開始した。


順調に駒を進めながら、神崎は複雑な思いにとらわれていた。


(私の居場所は孝一郎様の側でしかあり得ない。生涯お仕えする気持ちに偽りは無い。それなのに…)


紗希への想いを打ち消す事もできない。


彼女の好意に応えたい、自分の想いを伝えたい……しかし、孝一郎への忠誠心も嘘偽り無い本心である。神崎は身を割かれるような感覚にとらわれていた。



「え?神崎君…本当にそこで良いのかい?」


その問いかけに、神崎はハッと我に返った。慌てて盤面を見直す。


「申し訳ありません……え?」


彼のキングはすでに詰められていた。まるで初心者のように致命的な隙を見せてしまっていた。


「これは……」


「……勝負ありだね」


孝一郎は微笑んだが、すぐに表情を曇らせる。

「君がこんな序盤で隙を作るなんて珍しい。何か……あったのかい?」


「……いえ……集中を欠いておりました」

神崎は深く頭を下げる。顔には冷や汗が滲んでいる。


孝一郎はじっと親友を見つめた。

「僕が記憶している限り、君にこういった形で勝つのは……二度目だね」


「……」


神崎の脳裏に十年前の光景が蘇った。あの日神崎は孤児院の事で思い悩み、今日と同じように負けてしまったのだ。


「あの時は……君は僕に心配をかけまいと打ち明けてくれなかったけど…」


孝一郎の声には懐かしさと共に、深い心配が混じっていた。


「もしかして……また大変な事が起こって悩まされているのかい?」


「いえ、そのようなことは……」


「誤魔化さなくてもいいよ」


孝一郎は静かに駒を並べ直し始めた。盤面を初期状態に戻しながら、彼は優しく続けた。


「僕らは幼馴染で親友だろ?少なくとも僕はそう思っている。 少しは頼って欲しいな」


神崎は俯いたまま拳を固く握りしめた。忠誠心と恋心の狭間で揺れ動きながらも、やがて小さく頷く。


「ありがとうございます……実は……」


彼は慎重に言葉を選び始めた。


「……私の中で整理しきれていない事があるのです」

神崎の声は低く抑えられていた。


「仕事の悩みかい?」

孝一郎が尋ねると、神崎はわずかに首を振った。


「それは……恋の悩みかな?」


その瞬間、神崎は全身で反応した。彼の肩がピクリと動き、喉仏が上下する。


(どうして……この人はいつも……)


かつて孤児院の事でも見抜かれてしまっていた。孝一郎の洞察力に脱帽すると共に、己の不甲斐なさを恥じた。


孝一郎はクスリと笑いながら再び駒を並べ始めた。

「ごめんね。僕が勝手に深読みしただけさ。ただ……」


彼は白のナイトを手に取ると神崎に向き直った。

「誰かに想いを寄せることは素晴らしいことだと思うよ。何も気にすることはない」


神崎の瞳孔が微かに開く。


「僕らはお互い大人になった。昔のように感情を制御する必要はないんだ」


「しかし……」


「君が今苦しんでいるのはなぜだい?」


神崎は唇を噛みしめた。紗希への想いと孝一郎への忠誠心—その板挟みで苦しんでいる。だがそれを言葉にすることは裏切りに等しく感じる。


「言わなくていいよ」


孝一郎は立ち上がり、神崎の肩に手を置いた。温もりが伝わる。


「ただ……僕が君の幸せを心から願っていることだけは知っておいてほしい」


神崎は盤面を見つめたまま、静かに涙を堪えた。忠誠と恋情—相反する二つの感情が、今初めて折り重なり始めた。


「孝一郎様……」


神崎はついに重い口を開いた。盤面を見据えたまま言葉を続ける。


「私が……気に掛けている女性がおります……」


孝一郎は微かに息を飲んだ。予想していたとはいえ、神崎の口から直接告げられる衝撃は大きかった。


「彼女は……私より15も年下で……このお屋敷の使用人で……」

声が震える。忠誠と恋情の間で引き裂かれるように。


「立場上許されざる想いだと承知しております。まして執事は独身を貫くのが慣例と……」


「バカだな」


孝一郎の声は意外なほど軽やかだった。


「慣例ってなんだい?そんなもの過去の遺物だよ」


神崎は顔を上げた。孝一郎の目には純粋な憤慨の色が宿っている。


「僕らは新しい時代を生きているんだ。古い考えに囚われて大事なものを逃してしまうのは愚かすぎる」


孝一郎は椅子に座り直すと真剣な眼差しで神崎を見つめた。


「君がこの仕事を、僕の事を大事に思ってくれている事は十分過ぎるくらいわかってるよ。でもね…」


孝一郎は優しい眼差しで告げる。


「大事なものは一つじゃなくて良いと思うんだ。君は有能な執事である前に、人間の男でもあるんだから」


「……」


「それに…僕達貴族は、好きな相手とは結婚できない。子供は可愛いしそれなりに幸せではあるけど、埋められない何かを抱えているんだ。だからせめて君には本当に好きな人と一緒に幸せになって欲しいんだ」


「…し、しかし…」


「年齢や立場が気になるなら……まずは二人でしっかり向き合えばいいじゃないか」


神崎は息を呑んだ。


「彼女の気持ちも聞かずに一人で決めつけていないかい?」


「え?」


「君が本当に望んでいるのは何だ?」


神崎の胸に熱いものが込み上げた。孝一郎はすべてを見透かしている。


「彼女と一緒にいること……でしょうか……」


「だったら」孝一郎は微笑んだ。「まずは彼女と正直に話すべきだよ」


「しかし……」


「後の事は心配するな」


孝一郎は立ち上がり、神崎の肩に手を置いた。


「僕が全力でサポートする。執事の慣例なんて些細なことさ」


神崎の目に涙が滲んだ。長年の悩みが解けるような安堵感が押し寄せる。


「孝一郎様……」


「約束しよう」孝一郎の声は優しく響いた。


「君たち二人の幸せを邪魔する障害は全部排除してみせる」


神崎は深く頭を垂れた。十年前に誓った忠誠心と同じほど強い新たな決意が生まれていた。


「ありがとうございます……」


「それで、君の好きな子はどんな子なんだい?十五歳年下というと、もしかしてあの時君が身を挺してかばった…」


「…はい…雨宮紗希さんです」


「そうか…!それは納得だな。彼女は今どこに?仕事中かい?」


「いえ、今日は休みで…」


神崎は、紗希が休日に孤児院でのボランティアを続けている事を説明した。


「それなら今すぐ会いに行って、話すべきだよ」


「え?しかし……」


「何故躊躇うんだ?もたもたしているうちにチャンスを逃すよ?」


「今は勤務中ですし…急にその様な事は……」


「ああもう、じれったいな!ちょっと待って」


孝一郎は机の引き出しから便箋を取り出し、何かを書きつけ封筒に入れ封をして神崎に手渡した。


「これを今すぐ院長先生に届けなさい。これは九条家からの正式な書簡だから、間違いの無いように」


「承知致しました……今すぐ……行って参ります」


「うん、健闘を祈っているよ!」

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