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孤児院へ2

その夜、紗希と別れ、自室で一人になった神崎はなんとも言えない不思議な感覚に戸惑っていた。紗希がボランティアスタッフとしてまたモミの木の家を訪れる事に、驚きと共に嬉しさを感じている。


(そもそも、何故あの子をあの場所に連れて行こうと思ったのだろう)


お土産選びは口実に過ぎない。年末に屋敷に一人きりなのを不憫に思ったのは確かだが、メイドを個人的な場所に同行させるなど初めての事である。


(あそこに他人を連れて行ったのは、孝一郎様だけだったのに…)


神崎は、昔、孝一郎と共にモミの木の家を訪れた時の事を思い出した。


大学生になり、孝一郎の従者となった神崎は、忙しいながらも充実した毎日を送っていた。孝一郎は神崎を、あらゆる場所に連れ出し、青春時代を共に過ごした。


そんなある日、神崎は1日休暇を願い出る。

その日神崎は、自分の出身孤児院の子供達に勉強を教える約束をしていたのだ。


「孤児院で勉強を?それは素晴らしいね」

孝一郎が興味を示した。


「はい。卒業生として弟達の手助けをしたいと思い……」


「そうか…是非僕も一緒に行きたい…君が良ければだけど…」


孝一郎の予想外の申し出に、神崎は驚いて顔を上げた。


「え?ですが……お忙しいのではないですか?」


「そうでもないよ。それに、君が育った場所が気になるんだ」


神崎はしばらく悩んだ末に頷いた。

「わかりました。ではご一緒しましょう」


「よし!決まりだな!」

孝一郎は嬉しそうに拳を握った。


「では慰問という形で正式に予定を組みましょうか」


神崎が言うと、孝一郎は首を振った。

「いや、公式訪問は子供達も緊張するだろう。僕は九条家の人間としてではなく、一般人としてお忍びで行きたいんだ。例えば…チェスクラブの先輩とかどうかな?」


「チェスクラブ?」

神崎は首を傾げた。


「ほら、君が入学してきた時によく誘ったじゃないか。それに、あながち嘘じゃないしね」


「小学生の頃の事ですが…先輩と後輩の関係にすれば、怪しまれなくて済むということでしょうか……?」


神崎は少し困惑しながら尋ねた。九条家の長男ともあろう人物がお忍びで孤児院に行くなど前例がない。


「ああ。君は優秀な後輩役を演じてくれ。僕は普通の先輩らしく振る舞うから」


「それは……」神崎は眉を寄せた。「不敬に当たります」


「構わないよ。君と僕の仲じゃないか。頼むよ!」


孝一郎の屈託のない笑顔に神崎は折れた。

「……わかりました。それでは当日は二人とも普段着に致します」


「やった!楽しみだな!」


「ただし、院長先生には先輩を連れて行くと一報を入れておきます。全くの突然では驚かせてしまいますから」


「もちろん!任せるよ」


当日。


孝一郎は落ち着いたネイビーのセーターにチノパン姿。普段の洗練された服装とは打って変わってカジュアルだ。神崎も同様に地味なシャツとジーンズ姿だ。


「こんな格好は久々だよ」

孝一郎は少し照れくさそうに襟を正した。


「よくお似合いです」


「君こそ自然体だね。これなら普通の大学生にしか見えないよね。服装は君に任せて正解だったよ」


「……ありがとうございます」

神崎は少し赤くなりながら小さく頭を下げた。


孤児院に到着すると、院長先生が出迎えた。

「まあ、怜司君。いらっしゃい!今日も勉強会を手伝ってくれるのね?そしてそちらの方が……」


「院長先生、こちらは電話でお話したチェスクラブの孝一先輩です」


神崎が紹介すると、孝一郎が如才なく挨拶する。

「初めまして。佐々木孝一です。今日は一日よろしくお願いします」


「初めまして、孝一君。今日は来てくださって嬉しいわ。ゆっくりしていってね」

院長先生は、全く疑う事無く、二人を快く迎え入れた。


その後、神崎と一緒に孝一郎も子供達に勉強を教えたり遊んだり楽しく過ごした。そして夕食も共にする事となり、皆は食堂に集まった。


部屋は簡素だったが清潔で、窓からは夕暮れの光が差し込んでいた。食堂のテーブルには院長先生と二人の若者が加わり、ほかほかと湯気を立てた夕食が並んでいる。


「いただきます」

全員で手を合わせて夕食が始まった。メニューは肉団子のシチューとサラダだ。肉団子は手作りでしっかりとした旨味が染み込んでおり、添えられた野菜も彩り豊かだ。


「こんな美味しいシチューは初めてです!」


孝一郎が感嘆の声を上げると、院長先生は嬉しそうに頬を緩ませた。


「あらまあ、嬉しいわ!今日はいろいろ手伝ってくれて本当に助かったわ。沢山食べていってね」


院長先生は神崎に目を向けた。

「怜司君もよく手伝ってくれて助かるわ。勉強も教えてくれて……子供たちの為になる事はなんでもしてくれて……」


「いえ……僕が好きでやっているだけですから…」

神崎は謙虚に応じた。


夕食後、モミの木の家を後にした二人は、遠くに停めてあった車に乗り、帰宅の途についた。


「今日は本当に楽しかったよ」


孝一郎が満足そうに言うと、神崎も穏やかな表情で頷いた。

「僕もです。孝一郎様が来てくれて、子供たちも喜んでいました。…ところで孝一郎様はなぜ今日ここに来ようと思われたのですか?何か理由があったのでしょう?」


「それはね……」孝一郎は少し笑みを浮かべた。


「怜司君のことをもっと知りたかったからさ。君は常に完璧で冷静沈着だからね。その背景にある物を少しでも理解したかったんだ」


「なるほど……そういうことでしたか」


「君があの場所を心から大切に思っている事が、よくわかったよ。」


「僕にとっては、唯一の実家のような所なので…」

神崎は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「そんな大切な場所に、僕を連れて来てくれてありがとう。暖かいあの場所が、僕も大好きになったよ」


(孝一郎様をあそこへお連れするのには、何の疑問も持たなかった)


あの頃の孝一郎は、神崎にとって公私にわたり最も信頼する大きな存在になっていた。そんな彼が、自分の事をもっと知りたいと行ってくれて、あの場所を好きになってくれて、心底嬉しかったのを覚えている。


しかし紗希は、たくさんいる部下の一人に過ぎず、特別な存在では無いはず。自分の行動の根拠がわからず、神崎は混乱していた。


(よくわからない…)


しかし結果的に、落ち込んでいた紗希は元気になり、みんなが喜んでくれて、神崎自身も嬉しかった。


(考えても仕方ないか…)


神崎はこの疑問は保留にする事にした。



そして数ヶ月が過ぎた。紗希は無事に試験に合格して、念願の本採用になっていた。見習いの紙の名札から、名前がちゃんと刻印されたネームプレートに変わり、紗希は誇らしさを胸に仕事に励んだ。


帰省も果たし、神崎からのカードゲームは弟に非常に喜ばれた。


モミの木の家には、休みの日に月2回程の間隔で通うようになっていた。

最近では失敗をしてお仕置きされる事も無くなり、全てが順調に流れていた。


そんなある日の夜、常駐の警備員から神崎に連絡が入った。職員玄関に隣接する警備員室では、使用人の出入館を管理している。


「もうすぐ門限の時間ですが、雨宮紗希さんがまだ戻っていません」


警備員の言葉に、神崎の胸には不安がよぎった。この辺りは人家も少なく、夜は暗く物騒な事件も起こっているので、特にメイドには門限遵守を義務付けているのだ。


外出理由はボランティア活動となっていると聞き、神崎はモミの木の家に電話をかけてみる事にした。

神崎は書斎で受話器を耳に当てた。電話はすぐに院長先生につながった。


「もしもし……ああ、神崎です。紗希さんは今日伺っていると思いますが……」


「ええ。来ているわ。ただ……」

院長先生の声に不安が滲む。


「どうしました?」


「実は文哉君が今朝から熱を出してね。39度を超えていて……」


神崎の心臓が一拍飛んだ。

「それで紗希さんは?」


「看病してくれているのよ。薬を飲ませたんだけど熱が下がらなくて……せめて文哉君が眠るまで側にいたいって…」


「そう…だったんですか…しかし、屋敷には門限があります。これを破ると厳しく罰しなければならない…どうか彼女を今すぐ帰して下さい!」


「…何度も帰るように言っているのだけど、紗希ちゃんの決心は固いの。どうしても文哉君についていてあげたいって…」


「そんな……!」


院長先生は、文哉が眠ったらすぐに紗希をタクシーで帰すと約束して電話を切った。


一方、モミの木の家では……


二階の小さな部屋で紗希は汗ばんだ文哉の額に冷たいタオルを置いていた。小さな身体が熱で火照っている。医師の診断では単なる風邪だと言っていたが、高熱が続くと心配だ。


「……おねえちゃん……」


うわ言のように呼ぶ声に、紗希はそっと文哉の手を握り返した。

「大丈夫だよ。側にいるから」


文哉は三歳という幼さながらにして、深い悲しみを背負っていた。半年前、車に乗っている時に事故に遭い、両親と当時八歳だった姉を同時に亡くしたのだ。この孤児院に来てからも時折、悪夢を見るのか夜中に泣き出すことがあった。


「おねえちゃん……いかないで……」


涙を浮かべた目で紗希を見上げる文哉に、彼女は優しく微笑んだ。

「うん、文哉君が眠るまで、ずっと側にいるよ」


「…おねえ…ちゃん……」


文哉は薬が効いてきたのか、やっと深い眠りに落ちていった。


紗希は急いでタクシーで屋敷へと戻ったが、既に門限を2時間近く過ぎていた。



夜の執務室に緊張感が漂っていた。扉を閉めた紗希は深々と頭を下げたまま動かない。


「門限を大幅に遅れてしまいました。申し訳ありませんでした」


神崎のデスクには一枚の紙が置かれている。紗希の外出届だ。目的欄には「ボランティア活動」の文字。院長先生の電話から全てを理解していた神崎は黙ってペンを置いた。


「顔を上げなさい」


鋭い声に紗希が顔を上げると、神崎はいつもより厳しい眼差しで彼女を見つめていた。


「遅延理由については把握しています。文哉君のために残ったとのことですね」


「はい……先生にも何度も帰るよう言われましたが、どうしても……」


「理解はします」神崎は一度息を整えて言った。


「ですが規則は規則です。どんな理由があろうと、無断で門限を破るのは許されません」


「…はい…」


お仕置きは覚悟していた。わかっていたはずの結果だった。


「罰は決定しています。規定通り、門限違反2時間の罰として、平手で30回の後、鞭で2発です」


神崎が立ち上がる音に紗希の肩が揺れた。


「こちらへ」


示されたのは革張りのソファ。神崎はそこに腰掛け、右膝を指し示した。


「ここへ来なさい」


「…はい」


覚悟を決めていた紗希は、速やかに神崎の側に歩み寄り、震える指でメイド服のスカートに手をかけた。徐々に布地が捲り上げられ白い太腿が露わになる。


神崎と二人きりになるのはあの年末の日以来である。やっと本採用になり、今後の働きに期待してくれていたのにこんな状況になってしまうなんて…お仕置きは覚悟していたのに、憧れの神崎に素肌をさらす事に紗希は激しく動揺した。


(…は…恥ずかしい……!神崎さんにこんな姿を…)


途中で動きが止まり神崎の眉が寄った。


「ためらう余裕はありませんよ」


言葉は厳しくても声には微かな揺らぎがあった。紗希は目を閉じ最後の抵抗を捨てた。下着が膝まで下ろされる感触に全身が熱くなる。


神崎は冷静さを装いつつも心の中で激しく葛藤していた。高熱の文哉の側についていてくれた紗希に対して感謝の思いすらするのに、自ら罰を与えなければならないなんて…


(何故……こんな規定を守らなければならないのか…)


お仕置きの規定は、神崎自身が作ったものである。その時の気分などにより、回数に違いが出る事の無いように、公正を期すために明文化したのに、今はそれが足かせになっている。


しかしここで感情を露わにすることは執事として許されない。


「膝の上にうつ伏せになりなさい」


紗希は意を決して、言われるまま神崎の膝の上にうつ伏せた。神崎の膝の温かさが身体に伝わり、心地良さと恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。

膝の上に腹這いになった紗希の腰を神崎が固定した。剥き出しの白いお尻に動揺を抑えきれず瞳が僅かに揺れる。


「それでは、始めます」


神崎の右手がさっと上がる。


パァン!


乾いた音が静寂を裂いた瞬間、紗希の小さな叫びが漏れた。いつもの下着の上から打たれるのとは比べ物にならない痛みと羞恥が同時に襲ってくる。二発目の衝撃で紗希の頭が弾けたように跳ね上がった。


(…痛い…!恥ずかしい……)


前回は受け入れられていた罰が今日は耐え難い。意識してしまうからだ―膝に乗る自分の体重も、躊躇う間もなく振り下ろされる掌も。打ちつけられる度に脳裏に浮かぶのは神崎の横顔だった。


五発目で頬に涙が伝った。六発目では嗚咽が漏れた。それでも神崎の手は容赦なく振り下ろされる。


「まだ十回です。我慢しなさい」


慈悲など不要だと自分に言い聞かせながらも、彼女の柔らかな肌に残る朱色の跡を目にするたび胸が締め付けられる。十四発目でついに紗希の体勢が崩れかけた。


(もう……限界)


その時初めて神崎の手が止まった。息を荒げる紗希を確認するように覗き込み―


「続けます」


告げる声は鋼のように硬く、残り十六発を短い間隔で執行し終えると静かに告げた。


「平手は終わりです。立ちなさい」


紗希が泣きながら震える足で立ち上がると、神崎はデスクを指差し非情に告げた。


「そこの机に両手を付いて、スカートを上げなさい」


「…はい…」


紗希は素直に従い、スカートをまくり上げ、机に両手を付き、既に真っ赤に染まったお尻を差し出した。


神崎は鞭を手に、紗希の背後に回り、鞭を自身の掌にピシリと当てた。


「では最後に、鞭で2発打ちます」


神崎は鞭を持つ右手を振り上げる。ヒュンッという鞭が風を切る音がした次の瞬間


ビシッ!


赤く腫れ上がったお尻に、鞭の跡がくっきりと刻まれた。


「くっ!!」


始めて素肌に受ける鞭の肌を切るような痛みに、紗希は思わず声をあげた。


ビシッ!


紗希のお尻には、平行した2本の鞭の跡が刻まれた。あまりの痛みに肩で息をする紗希に、神崎は静かに告げた。


「本日のお仕置きはこれで終わりです。服装を整えたら、退出しなさい」


紗希が体を起こす際ふらついた腕を無意識に掴みかけた神崎だったが寸前で抑えた。神崎は席に戻り書類に視線を落とし、下着を上げようとする紗希から目をそらした。


「ありがとうございました……」


掠れた声で一礼し去って行く背中を見届けた瞬間―机に拳を打ち付けた。


「くそっ……!」


窓ガラスに映った自分が歪んで見える。


(優しい言葉一つかけられなかった…せめて感謝の思いくらい伝えるべきだったのに…)


紗希の涙声が鼓膜に貼り付き消えないまま更けゆく夜の中一人佇む執務室には春の気配すら届かなかった。


神崎は溜まっている書類仕事を片付けようとするが、紗希の泣き顔が脳裏に焼き付き、手がつかない。自己嫌悪にさいなまれ、苦悩する事しかできない。


その時、ノックの音が静かに響いた。


ドアを開けたのは白衣姿の女性だった。九条家専属医師の仲野美奈子。三十代半ばだが凛とした佇まいと理知的な眼差しが印象的な人物だ。


「神崎君、少しお話しても良いかしら?」


室内の空気が一変した。神崎が無言で招き入れると美奈子は静かにソファに腰掛ける。彼女は白衣の裾を直しながら憔悴した様子の神崎をじっと見つめた。よく見ると、神崎の目は少し充血している。


(神崎君…もしかして泣いて……)


「紗希ちゃんを医務室に連れて行きました。お仕置きの後のケアが必要だと判断して対応しました」


紗希が門限を大幅に破り、執務室でお仕置きされる事が美奈子の耳にも入り、すぐに対応したのだ。


「……そうですか。ありがとうございます」


神崎の声は重い。美奈子はため息をついた。


「相当ひどく泣いていたわ。お尻だけでなく心まで傷ついているようです」


「……仕方がありません」


「仕方ない?」

仲野の口調が鋭くなった。


「規律上仕方がない事だと理解しています。ですが医師として言わせてもらえれば、あの子の精神状態は明らかに…」


「……」


「彼女は治療中ずっと無言でした。事情を聞いても首を振るだけで何も語らず……まるで自分を責め続けているようでした」


神崎は奥歯を噛み締めた。まさにそうだった。罰は必要だった。だがその過程で紗希の心まで壊してしまったのではないか――。


「何を聞いても紗希ちゃんは『私が悪いんです、神崎さんを失望させてしまいました』それしか言わなかったわ」


「…失望されたのは私の方です…」


「それは…どういう事…?」

自嘲気味にうつむく神崎に、美奈子は戸惑いながら尋ねた。


「…それは……」

神崎は言葉を濁し、逡巡している。


「神崎君…もし良かったら話してみて。医者には守秘義務があるし、何より貴方の精神状態が……話す事で気持ちが楽になる事もあるわ」


「………!」


事情を説明するには、孤児院の事を話す事になる。限られた者にしか明かしていないプライベートな事だが、医師の美奈子になら、自分の生い立ちを含め全て話しても良いかもしれない。紗希をはじめ、メイド達との良好な関係に手を貸してくれていたのだから。


「…実は……」

神崎は重い口を開き、孤児院の事や紗希のボランティア活動の事を美奈子に説明した。そして、今回紗希が門限を破る事になった理由も。


「…そう…だったのね…」


「…私は今日ほどこの仕事が…自分が嫌になった事はありません…高熱で苦しむ弟の側にいてくれて、感謝の気持ちしか無いのに…お礼を述べるどころか、規則だからと厳しくお仕置きを…」


「事情を考慮して、お仕置きを免除する事は…?」


「規則上認められません。無断遅延は処罰対象です」


「……貴方はそれが正しいと信じているのね?」


神崎は答えずに俯いた。確かにそうだった。だが感情論で規律を曲げるわけにはいかない。執事としての信念が彼を縛っている。


「…私はあの子に、何の言葉もかけてやれませんでした。お礼はおろか、労いや励ましの言葉すら…」


お仕置き後の言葉かけは、実際のお仕置きと同じくらい大切な事である。ただ痛めつけるだけでは何の意味も無い事くらい分かりきっているのに、今回に限りそれができなかった。罪悪感と自己嫌悪が強すぎて、言葉にならなかった…


「だから紗希ちゃんは、あなたに失望されたと思い込んでいるのね。そして、あなた自身も」


「私は最低な上司なんですよ…」


「そんな事は…」

苦悩する神崎に、美奈子はかけるべき言葉を探した。


「…紗希ちゃんはたぶん、お仕置き自体は覚悟の上で納得しているはずよ。後は神崎君、貴方が自分の気持ちを伝えれば、紗希ちゃんは元気になるんじゃないかしら」


「私の気持ち…?」


「そう。さっき言っていた、感謝や労いや励まし、とか。あなた達は、前にも似たような事があったけど、お互いがちゃんと話す事で解決したわ」


「…そう…なのでしょうか…しかし、今さら私などが話すとかえって傷つける事になるかも…」


「神崎君!」


煮えきらない神崎に美奈子は思わず声を荒らげた。


「そんなわけ無いでしょう?あの子がどれだけ貴方を信頼していると思っているの?何を聞いても口を閉ざしているのだって、貴方を想っての事だわ!」


仲野の言葉が刃のように突き刺さる。執事と使用人の関係以上に複雑な感情が絡み合っているのは明らかだった。


「……紗希さんと話します…」


「わかってくれたのね!」


「はい…ただ…この場所に呼び出すのは問題が…」


執務室にメイドを呼び出すのは、お仕置きの時に限られている。二日連続では不自然である。屋敷の中では常に人目があり、二人きりで話すのは難しい。そのせいで年末のあの日以来、二人は仕事以外の会話をかわせずにいたのだ。


「それなら、医務室を使うといいわ。紗希ちゃんには経過観察と手伝いを口実に来てもらうから」


「仲野先生…何から何まで、本当にありがとうございます」


その後、美奈子は翌日の紗希のシフトが午後からなのを確かめ、朝礼後に医務室に呼ぶ事を約束した。そして、神崎に必ず来るように念を押し執務室を後にした。



翌日朝礼を終えた神崎は、少し時間を置いた後、意を決して医務室を訪れた。


「失礼します…」


ノックの後、恐る恐る医務室のドアを開けると、美奈子が暖かく迎え入れた。美奈子に頼まれキャビネットの整理をしていた紗希は、突然の神崎の来訪に驚いて振り返った。


「…神崎さん…!」


気まずそうに立ち尽くす二人に、美奈子はとりあえず座るように促した。


「でも美奈子先生、私はキャビネットの整理が…」


「あ、あれはもう大丈夫よ。それより紗希ちゃん、神崎さんからあなたにお話があるみたいなの」


「…え…!私に…?」


思わず神崎を見上げると、神崎は深刻そうな表情で無言で頷いた。


「私はちょっと出て来るわ。休診中の札を出して鍵もかけておくから、二人でゆっくり話してね。それじゃ!」


美奈子は素早くその場を後にした。



(お話って…もしかしてボランティアはもう禁止とか…そんな…)


「紗希さん、とりあえず座って下さい」


「…はい…」


勧められた椅子に腰掛け、神崎と向かい合わせになる。これから何を言われるのか、悪い想像しかできずに紗希は不安で押しつぶされそうになる。


「紗希さん、昨日の事ですが…」

少しの沈黙の後、神崎は重い口を開いた。


「昨日は私の言葉が足りないせいで、あなたを不安にさせてしまったようです」


「…え…?それは……」


神崎からの意外な言葉に、紗希は動揺を隠しきれない。


「紗希さん、昨日は文哉君の…私の弟の側についていてくれて、ありがとうございました」


「い、いえ……私が文哉君の側に居たかだけですし……」


「それでもあなたがついてくださって、家族を亡くしたばかりの文哉君はどれほど心強かったことか…本当にありがとうございます」


深々と頭を下げた神崎に、紗希は動揺を隠せず声をあげた。


「そんな……!やめてください!私なんかに頭を下げるなんて……!」


「……ですが、私はあなたにお礼を言えていませんでした」


「え……?」


(お礼……?)


戸惑う紗希に、神崎は続けた。

「門限を破ればどうなるかわかっていながら、あの子の為にあの場に留まってくれて、心から感謝しているんです」


「いえ……私はそんな……」

紗希は口ごもる。まさか神崎から感謝の言葉を言われるとは思いもしなかったのだ。


「しかし、無断で門限を破る事には問題があります」


「……はい」


「もう二度としないと約束して下さい。そして次からは、どうしてもやむを得ない時には事前に連絡を入れて下さい。そうすればお仕置きは避けられるかもしれません。」


(あ……次から…)


(良かった……!私……これからもボランティアに行っていいんだ……!)


「はい…約束します…」


安堵と喜びが涙となって溢れ出す。


「…私…規則を破って…神崎さんから失望されたと思って……もうボランティアも禁止されるのかと…」


紗希は感情を抑えきれず、思いを吐露するが、涙で言葉が続かない。


(…紗希さん……)

神崎は、肩を震わせ泣きじゃくる紗希を抱き寄せて慰めたい衝動にかられた。腕を伸ばし、紗希の肩に触れかけたその瞬間、(上司として、それは許されない)と我に返り現実に引き戻された。


確かにお仕置きでは膝に乗せ、むき出しのお尻を平手で直接叩いている。しかし、それは仕事であり、貴族に仕える執事に課せられた義務なのだ。部下であるメイドへの、お仕置き以外での身体的接触は、倫理上許されない。


葛藤の末、神崎はポケットから取り出したハンカチを差し出した。


「あ……」


「どうぞ、使って下さい」


「ありがとうございます……!」


涙を止められない紗希に、神崎は優しく告げた。

「…失望などするはずがありません。その逆です。それに、あなたがボランティアとしてあの場所に行ってくれている事を、私は嬉しく思っています。禁止などするつもりはありません」


「良かった…本当に良かったです…」


心底安心したのか、紗希は程なく泣き止み笑顔を見せた。


「神崎さん…私、お話したい事がたくさん溜まっているんです」


紗希は、孤児院での出来事や子供達の様子、帰省した時の弟の反応など、様々な事を神崎に話した。神崎は時折質問を交えながら、彼女の話に聞き入った。そして、嬉しそうに話す紗希の様子に、自分の心が暖かくなるのを確かに感じていた。


程なくして、席を外していた美奈子の合図であるノックの音が4回響いた。


「美奈子先生、おかえりなさい」


紗希は、先程までの深刻さとは間逆の満面の笑顔で美奈子を迎え入れた。神崎の表情からも苦悩の色が消え、穏やかな笑みが浮かんでいる。


二人の間に流れる暖かく柔らかい雰囲気に、美奈子は安堵した。


「二人とも、すっかり元気になったみたいね」


「はい!元気いっぱいです」


「お陰様で…」

神崎も少し照れたように微笑んでいる。


「紗希ちゃん、神崎さんとたくさんお話できた?」


「はい!もうずっとお話ししたかった事が有りすぎて…今日は本当に嬉しかったです」


「そう、良かったわね。それにしても、こんなに笑顔いっぱいで…紗希ちゃんは本当に神崎さんが好きなのね」


「はい!大好きです!…あっ…」


思わず勢いで本音が出てしまった事に気付き、紗希は顔を真っ赤にして取り乱した。


「…あっ、あの…これは、そういうんじゃなくて…いえ…なくもなくて…」


もう頭が真っ白になり、自分でも何を言っているかわからない。恥ずかし過ぎて、神崎の方を見る事すらできない。


「もう、取り乱しちゃって。照れなくていいのよ」


「わ、私…もう失礼します!今日はありがとうございました」

紗希は一礼すると、慌ただしく医務室から駆け出して行った。


医務室に残された神崎は呆然としているように見える。

美奈子が神崎を盗み見ると、彼は微動だにせず、じっと紗希の消えた方を見ている。そしてよく見ると、微かに耳が赤くなっているのがわかる。


(神崎君、貴方も紗希ちゃんの事が好きなのね。まったく困った二人だわ)

美奈子は密かに微笑んだ。


神崎は我に返り、改めて美奈子に向き直り深々と頭を下げた。

「仲野先生……今回は色々とありがとうございました。紗希さんと話すきっかけを作って頂き本当に感謝しています」


「どういたしまして。私も神崎君の力になれて嬉しいわ」


「それと……」神崎が少し顔を赤らめながら付け加えた。


「何?」


「先程の紗希さんの言葉ですが……あれは……」


美奈子はクスッと笑って言った。

「そのまま受け取っていいんじゃないかしら?さあ、もうすぐ次の患者さんが来るから、貴方も早くお仕事に戻りなさい」


「はい。ではまた失礼いたします」


神崎が医務室から退室した後も美奈子はしばらく考え込んでいた。(それにしても……神崎君のあの狼狽ぶり……もしかして……無自覚なのかしら?)


神崎の生い立ちや性格を考えれば無理もない事だが、それでも自分の紗希に対する気持ちに気付いていないのは驚きだった。

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