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孤児院へ1

年の瀬も迫り、使用人達の間は、ソワソワとした期待に満ちた空気に包まれていた。九条伯爵一家は毎年の年末年始、家族で2週間ほど海外旅行に出かけるのが恒例である。

主が不在となる間、使用人達も皆休暇をもらい、帰省する事ができるのだ。


皆が帰省の予定を立てる中、紗希の心は焦りに支配されていた。どんなに頑張っていても小さな失敗をしてしまい、先週も昨日も終礼で神崎から鞭で打たれていた。


(このままでは、いつまでも見習いのまま…本採用になれずに解雇されてしまうかも…)


そんな焦燥感が紗希を包み、帰省をしないで特訓をする決断をした。


30日の午後、最後に帰省する仲間を見送り、ほとんどの使用人で残るのは紗希はだけになった。来月は、『家事使用人検定試験』がある。

これは、貴族の館で3ヶ月以上の勤務経験で受験資格が発生し、合格すれば晴れて本採用となる。この休みの間に徹底的に実技試験の練習と勉強をしなければ…

まずは基本的な紅茶の給仕を練習しようと、食堂で一人準備を始めた。


夕方、食堂で一人練習している紗希に近づく靴音が響いた。


「紗希さん」


振り返ると神崎が立っていた。紗希は慌てて立ち上がり、背筋を伸ばした。


「こ、こんにちは!神崎さん!」


「こんにちは。もう他の子たちは皆帰りましたよ。あなたは帰らないのですか?」


紗希の表情が僅かに曇った。

「はい……その……」


彼女は一瞬言葉を探した後、意を決したように顔を上げた。


「本採用になるまで帰らないと決めているんです」


「え?本採用までですか?」


「はい…」

紗希はは静かに頷いた。


「私…いつまで経っても失敗ばかりで…このままでは、見習いのまま終わってしまう気がして…」


「そうですか…そこまで思い詰めていたのですね…」


神崎の深刻そうな表情に、紗希は努めて明るく弁解した。

「今帰ってしまうと里心がついてしまうと思って……なのでこの休みの間は練習と試験勉強に専念しようと思います」


「わかりました」

神崎は紗希の必死な様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「私も休み中はここで過ごします。一緒に練習しましょう」


紗希の顔に驚きが広がった。

「えっ!神崎さんも?」


「はい。明日は少し外出しますが、それ以外は予定がありませんから」


「ありがとうございます!」

紗希の表情が明るくなった。


「でも……お休み中なのに、こんなに迷惑をかけてばかりで……」


「迷惑ではありません」

神崎は優しく訂正した。


「大切なのはあなたの成長です」


「精一杯頑張ります!」


「では紅茶の給仕から始めましょうか」

神崎はテーブルに目を向けた。

「ではまず、最初からひと通りやってみて下さい」


「はい!」


夕日に染まる食堂で、神崎の特訓が始まった。紗希の手は小さく震えていたが、その目に宿る決意は本物だった。


神崎の指導の元、紗希は紅茶の給仕を完璧に習得し、翌日の午前中にはテーブルセッティングもマスターしていた。



今日は午後から神崎は外出すると言っていた。


「今日は午後から外出しますが……」

神崎は少し迷うような表情を見せた。


「実は買い物に行く予定があるのです。よかったら一緒に行きませんか?」


「え?」


紗希は驚いたように目を丸くした。

「で、でも私……」


神崎は優しく微笑んだ。

「実は、実家のような所へ行くので、弟達へのお土産を買おうと思っているのですが…」


神崎は困ったような表情で話を続ける。

「私が選ぶ物はどうも何か微妙なようなのです。紗希さんにも弟さんがいらっしゃると聞いて、若い人の感覚で一緒に選んでもらえたら助かるのですが…」


「私でお役に立てるなら……」

紗希は俯き加減に答えた。

「お邪魔でなければ……ぜひ……」


その耳元がほんのり赤くなっていることに神崎は気づかない。


「では昼食後に職員玄関でお待ちしています。それまでに少し休憩をとるといいでしょう」


「ありがとうございます!すぐ片付けます!」

紗希は急いでテーブルを整え始めた。


彼女の頬はまだ薄紅色に染まったままだ。午後から一人で練習することを考えると胸が締め付けられるような感覚があったのに、まさか一緒に出掛けられるなんて!神崎が自分を気にかけてくれている事実が嬉しかった。


昼食後、支度を整えて玄関へ向かうと神崎が既に待っていた。普段より少しだけラフな格好だが、その立ち姿にはいつもと同じ品がある。


「お待たせしました!」


「いいえ、私も今来たところです」


紗希の声に振り返る神崎の姿に、紗希は思わず息を飲んだ。


そこには紗希が初めて見る"執事ではない神崎"が立っていた。シンプルなハーフコートを羽織り、普段はきちんと後ろに流している前髪が額にかかるように下ろされている。そのせいか、いつもの厳格な印象は消え、驚くほど穏やかで若々しく見える。


(神崎さん……なんだか…すごく…素敵…)


言葉が出ない紗希に、神崎は少し気恥ずかしそうに笑った。


「勤務中の姿とは違いすぎますよね。休日はつい気を抜いてしまって……」


「いつもと違って…すごく新鮮です」


「それは…ありがとうございます」


神崎が照れたように頭を掻く仕草が妙に親しみを感じさせた。


「では行きましょうか。外に車を廻してありますので」


屋敷を出る前から紗希の鼓動は早鐘のように鳴っていた。この非日常的な時間が、どうか長く続いてほしいと願いながら、紗希は神崎の背中を追って外に出た。


玄関の前には、少し古びた感じの黒塗りの車が止まっていた。


「どうぞ」

神崎は自然な動作で助手席側へ回り込み、丁寧にドアを開けた。そのスマートな所作に紗希は思わず一歩後ずさった。


「えっ?そんな……」


紗希の顔がみるみる赤くなっていく。男性にドアを開けてもらって助手席に乗るなど、初めての経験だった。しかも相手は上司である神崎だ。


「遠慮なさらずに」

神崎の眼差しは優しくも有無を言わせぬものがあった。


「は、はい…ありがとうございます」


紗希はおずおずと車に乗り込むと、神崎は静かにドアを閉め運転席に移動した。


「少し窮屈かもしれませんが」


紗希は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。至近距離にある神崎の横顔。車内に漂う微かな香水の香り。全てが彼女にとって未知の体験だった。


神崎は微笑みながらハンドルを握った。

「では出発しますね」


常駐の警備員に留守を任せ、車は滑るように屋敷の外へと走り出した。


「郊外のショッピングモールへ行こうと思います。あそこなら何でも揃うので」


「はい」


紗希の心臓は早鐘のように打ち続けていた。膝の上で握りしめた両手が震える。シートベルトが胸を圧迫する感覚さえ意識してしまう。


(落ち着いて……落ち着かなきゃ……)


いつもと雰囲気の違う、運転席の神崎の横顔をこっそり見ようとしても視線が泳ぐ。全てが普段と違い過ぎて、紗希は胸がいっぱいになっていたが、ある疑問が頭をよぎった。


(神崎さんって何歳くらいなのかな?)


執事姿の時は三十半ばと思っていたが、私服姿で前髪を下ろしたら二十代後半にも思える。


「あの……」


挙動不審な紗希の様子に、神崎がふと口を開いた。

「何か気になることがありますか?」


「いっ!いえっ!」

紗希は飛び上がりそうになった。明らかに声が裏返っている。


「今は休暇中です。仕事に関係無い事でも、気になる事があれば聞いて下さいね」


「はい…あの……」

紗希はためらいながらも意を決して口を開いた。


「神崎さんって、その…何歳なんですか?」


「私の年齢ですか?」


「ごめんなさい!失礼な事聞いてしまって…」


神崎は優しく笑みを浮かべた。

「いいえ、全然大丈夫ですよ。私は31歳です」


「そうなんですね。いつもと雰囲気が違うので、驚いてしまって…」


「ああ、なるほど。それは無理もありません」


神崎の年齢が意外と若かった事に、紗希は少し驚いた。


「ところで紗希さん」

神崎の声のトーンが変わった。緊張が和らいだのを感じ取ったかのようだ。


「年齢といえば、弟さんとは歳が離れていると聞きましたが、何歳差でしょうか?」


「七歳差です。今は9歳で3年生です」


「9歳ですか!それは可愛い盛りですね」


「はい……もう中学年なのに甘えん坊で……」

紗希は思わず姉の表情に戻っていた。弟の話になると自然と言葉が出てくる。


神崎は楽しそうに相槌を打ちながら質問を続けた。徐々に会話が弾み始めると、紗希の肩から力が抜けていった。


「そういえば、神崎さんの弟さんはおいくつなんですか?」

紗希は、お土産を選ぶ参考にするために聞いてみた。


「ええと…今は…確か3歳から15歳までの20人です」


「え?20人…?」


「ああ、すみません。驚かせてしまいました。私は孤児院で育ちまして、弟達とは、今そこに入所している子達の事なんです」


「孤児院……ですか?」


紗希は信じられない思いで神崎の横顔を見た。彼の穏やかで物腰の柔らかい雰囲気からは想像もつかなかった。これまでの厳しい訓練指導や完璧な執事ぶりも含め、すべてが貴族社会で生まれ育った人間のものだと勝手に思い込んでいた。


「はい。ですから今日この後行くのは実家というか、私が育った孤児院なのです」


神崎は特に悲壮感もなく淡々と話した。その様子はむしろ誇らしげでもあった。


「私は3歳の時に施設に入り、15歳まで育ちました。高校と大学は九条家の援助を受けて通う事ができて……そのままお屋敷で働き続けたのです」


「そう……だったんですね……」

紗希は何と言葉を返していいか分からなかった。重い沈黙が車内に流れた。


「いや、しかしですね」

神崎が突然明るい声を出した。話題を変えようとしているのが伝わってきた。


「私が選ぶプレゼントは不評なんですよ。前々回は『児童文学全集』全巻を贈ったら大不評でした」


「え?」


「一部の子からはは好評だったんですが、ほとんどの子達からは『せめて漫画にして欲しかった』とか言われてしまって……」


神崎の言葉に紗希は思わず吹き出してしまった。

「あ……すみません……笑ってしまって……」


「いいえ、いいんですよ」

神崎は気にしていない様子で続けた。


「それで前回は子供用の百科事典セットを送ったのですが…」


「百科事典?」

紗希は怪訝な表情をした。


「『そんな物持ってて何に使うの?』って……まったく……」

神崎は苦笑しながら頭をかいた。その表情はどこか子供っぽく見えた。


「どちらも自分が子供の頃、手元にあったらいいなと思っていた物なのですが…今の子達の好みはよくわかりません」


ため息をつきながら落ち込む様子の神崎に、紗希は今までとは違う穏やかな親近感を感じていた。


「そうなんですね……」

紗希は少し考えてから口を開いた。


「うちの弟は今流行りの『モンスターズ・クロニクル』という漫画やアニメが大好きで、周りの男の子達もみんなハマっているみたいです」


「漫画とアニメですか……なるほど」

神崎は真剣に相槌を打った。


「あと、中学生くらいになると携帯型のゲーム機を持つ子も増えてきて……」


紗希は少し言い淀んだが続けた。

「うちの中学では『バトルヒーローズ』っていう対戦型のゲームがすごく流行ってました」


「対戦型?携帯型ゲーム機でですか」

神崎は興味深そうに聞き返した。


「はい。ゲーム機同士をケーブルで繋いで、戦ったり、モンスターを交換したりできるんです」


「それはすごいですね。技術の進歩は想像以上だ……」

神崎は感嘆の声を漏らした。


「漫画やゲーム関係ならきっと喜ばれると思いますよ!」

紗希が力強く言うと、神崎は少し考え込んだ後、頷いた。


「分かりました。今回はその方向で検討してみましょう」


「でも、ゲーム機は今大人気で品薄かもしれません……」


「大丈夫です。何せ20人もいるのでさすがにゲーム機は……お小遣い程度のプレゼントにするつもりです」


神崎は優しく微笑んだ。

「それにしても、よく知ってますね。紗希さんは流行に敏感なのですね」


「え?そ、そんな事ないです!」

紗希は顔を赤らめた。


「ただ……弟や友達の話をよく聞いてるだけで……」


「素晴らしいことです」

神崎は褒めるように言った。


「相手の気持ちを考えて提案する。使用人としてもとても大切な資質です」


車内の空気はいつの間にか和やかになっていた。



車はやがてショッピングモールへと到着し、二人は広大な店内へ歩き出した。紗希はあまりの広さと店や人の多さに目を見張った。


「わぁ、こんなに大きなお店、初めて見ました!東京はすごい所ですね」


「そうですか。ここは最近新しくできて評判の場所で、近隣の街からもたくさん人が来ているようですね。ではまず、書店を目指しましょうか」


「はい」


紗希は、神崎からはぐれないように必死でいると、それに気付いたのか神崎は歩を緩めた。


「急ぎすぎましたね。少しゆっくり歩きましょうか」


「すみません…大丈夫です」


紗希の目には、人波の中で長身の神崎はひときわ洗練された佇まいに見えてしまう。

ショッピングモールの中を歩きながら、紗希はふと目の前のショーウィンドウに映る自分達の姿に目を留めた。


隣を歩く神崎は長身でスーツ姿ではないものの、シャツとコート姿が驚くほどスタイリッシュだ。まるでファッション誌から抜け出してきたような洗練された雰囲気。一方の自分は……。


白いダッフルコートに赤のタータンチェックのマフラー、少し大きめのショルダーバッグを斜めがけにした自分の姿が鏡の中にあった。身長も小柄で童顔の自分は、どう見ても神崎の隣では明らかに子供っぽく見える。この二人の組み合わせは一体どう映っているのだろう?


(先生と生徒……?それとも遠縁の親戚のお兄さんと姪……?)


紗希の胸に微かな痛みが走った。こんな時でさえ二人の間にある埋めようのない年齢差を実感させられる。もっと大人っぽく装えば、少しでも釣り合えるだろうか?


答えが見つかるはずも無く書店に到着し、流行りの漫画を2種類と小さな子のための絵本を選んだ。それと大人気のカードゲームを人数分購入した。


弟達へのお土産を買い終え、神崎はほっとしたように微笑んだ。

「紗希さんのおかげで助かりました。やはり若い人の意見は貴重ですね」


「いいえ。私も選んでてすごく楽しかったです。みんな喜んでくれると嬉しいです」


(今のこの年齢のおかげで、ここに神崎さんと一緒に来られたんだから…子供っぼくても良かった事にしよう)


「そういえば、紗希さん」

モール内を歩きながら神崎が思い出したように切り出した。


「一つ大事な物を忘れていました。院長先生の分です」


「院長先生ですか?」


「はい。高齢のご婦人の方なのです」


「そうなんですか……おいくつ位の方ですか?」


「おそらく70代だと思います。今でも一人で孤児院を切り盛りしていて、大変お世話になった方なのです」


紗希は、穏やかな表情で話す神崎を見て、とても大切な人なのだろうと感じた。


「……だったら……お花はいかがですか?」

紗希は少し考え込んでから提案した。


「お花?」


「はい。うちのお婆ちゃん…祖母が一番喜ぶのはいつも綺麗なお花なんです。お花は誰からもらっても嬉しいって言ってました」


「なるほど……それはいいアイデアですね」

神崎は感心したように頷いた。


「それから……お菓子も付けたらどうでしょう?甘いものが好きな方であれば……」


「素晴らしい。是非そうしましょう」


二人は近くのフラワーショップに向かった。店内には様々な色とりどりの花が所狭しと並んでいる。


「どれがいいでしょうね……」

神崎が困ったように呟いた。


「この時期ならシクラメンの鉢植えはどうでしょう。部屋に飾られるなら華やかな色合いがいいと思います」


「そうですね。ではそれを頼みましょう」


その後、二人は隣接する洋菓子店で美味しそうなロールケーキを数本購入した。


「紗希さんのセンスのおかげで今年は最高のプレゼントになりました」

荷物を持った神崎が心から感謝するように言った。

紗希は嬉しさで胸がいっぱいになった。


買い物を終え、車は神崎の孤児院へと向かった。


「あの……神崎さん」

モールの駐車場を歩きながら、紗希が躊躇いがちに切り出した。


「私みたいな部外者が行ってもいいのでしょうか?その……ご迷惑じゃありませんか?」

買ったばかりのプレゼントの袋を両腕に抱えた紗希は不安そうに神崎の表情を窺った。


神崎は穏やかに笑いながら答えた。

「もちろん大歓迎ですよ。他にも私と同様に卒業生が定期的にお邪魔していて、みんな家族や友達を連れて来る事がよくあります」


神崎が楽しそうにくすりと笑った。

「この孤児院は男子のみで、女子が全くいない環境です。紗希さんが来てくれたら子供たちは大喜びですよ」


「そ、そんな……私なんかで喜ぶかな……」

紗希は照れくさそうに俯いた。


「それに……」

神崎は少し真面目な口調で続けた。


「今回のプレゼント選びでとても助かりました。実際に彼らと同じ年代の人間の視点は非常に価値があります」


「そんな大げさな……」


「大げさではありません」


神崎は紗希の目をまっすぐ見つめた。

「使用人にとっても主人の気持ちを察して適切な行動ができるかどうかが重要です。紗希さんの提案のおかげで確信を得ました」


紗希はその言葉に胸が熱くなった。神崎にとってこの孤児院での経験と九条家での仕事は同じくらい大切なのだと感じられた。


「では行きましょうか。もうすぐ、おやつの時間です」


車は小高い丘の中腹にある古い洋館風の建物の前で停まった。モミの木が何本も立ち並ぶ敷地内はまるで映画のワンシーンのよう。壁は古びてひび割れもありながら、温かみのあるクリーム色をしていた。


「ここが……『モミの木の家』……」

紗希が息を飲む。その名前の由来は周囲に立つモミの木達だろう。


「ええ。私が3歳から15歳まで育った場所です」

神崎が車のエンジンを止めながら答えた。その横顔には懐かしさと誇りのようなものが混じっている。


庭で遊んでいた男の子たちが次々と駆け寄ってくる。10人以上はいるだろうか。彼らの服は色褪せていたが、それぞれよく手入れされていた。


「怜司さん!久しぶり!」

「怜司さんだ!」

「おかえりなさい!」


少年たちの声が重なり合う。


神崎は車を降りながら明るく応じた。

「みんな元気そうだね!去年よりも大きくなった子も多いな!」


彼の表情が一層柔らかくなる。屋敷での厳格な執事の姿は影を潜め、そこに立つのは少年たちの兄のような温かい雰囲気の人だった。


「怜司さん!また本を持ってきてくれた?」

一人の小柄な男の子が期待に目を輝かせながら尋ねる。


「もちろんだよ。それに今日のプレゼントはきっとみんな喜んでくれると思うよ!」


「ほんとに!?」

「やったー!」


子供達から歓声があがった。


「あれ…そのお姉さんは…?」

一人の子が紗希に気付いた。


「あの……みなさん……初めまして……」


車の陰から出てきた紗希は緊張で声が震えていた。突然の大勢の視線に戸惑っている。


「みんなに紹介するよ。こちらは紗希さん。今日は一緒にプレゼントを選んでくれたんだ」


神崎が穏やかに促した。その時、少年たちは一斉に紗希を見つめた。


「女の子だ!」「誰?」「どこから来たの?」「きれいな人だね!」


次々と興奮した声が上がる。中でも小学5年生くらいの少年が前に出てきて紗希を見上げた。


「ねえねえ、お姉さん。怜司さんとはどういう関係なの?恋人?」


唐突な質問に紗希の顔が瞬時に真っ赤に染まった。


「こら!何を言ってるんだ!」

神崎の顔も珍しく赤くなった。


「紗希さんは私の職場の部下だよ。冗談でもそういうのは良くないな」


「え~っ!上司と部下なんだ!」

「怜司さんと一緒に働いてるの!?すげー!」

子供たちは面白そうに話し合っている。


「紗希さん、すみません…失礼な事ばかり…」


「いいえ…そんな事は…」


「寒いでしょう。もう中に入りましょう」



「怜司兄ちゃん!」

室内に入ると、リビングで中学生くらいの子供達と雑誌を読んでいた青年が立ち上がった。二十代半ばくらいだろうか。少し日に焼けた肌に長めの髪がよく似合う少し軽い感じの青年だ。


和輝かずきじゃないか!」神崎が笑顔で応じる。


「久しぶり!怜司兄ちゃんと会うのは1年ぶりだね?」

青年──和輝は神崎に駆け寄ると、肩を叩きながら親しげに話しかけた。


「そうだな。和輝も元気そうで何よりだ」

神崎が目を細めて言う様子は、屋敷での執事の表情とは別人のようだ。


驚きを隠せない紗希に、神崎は和輝を紹介した。

「ああ、こちらは和輝。私の後輩で、ここで一緒に暮らしていた時期があって……」


「俺にとっては兄ちゃんみたいな存在さ!」

和輝が割って入って答える。


「怜司兄ちゃんは厳しくて頭が良くて頼りになる人なんだぜ」


紗希は神崎を見上げた。屋敷での厳しい訓練指導もまた、彼の一面なのだと思い知らされる。


「こちらは紗希さん。お屋敷で働いてくれている…」


「はじめまして。九条邸でメイドをしている紗希と申します」


紗希が丁寧にお辞儀をすると、和輝の目が大きく見開かれた。


「ええっ!メイドさん?それ本当かよ怜司兄ちゃん!」

和輝の驚きは予想以上だった。


「嘘だろ……怜司兄ちゃんがこんな可愛いメイドさんに囲まれて生活してるなんて……」


和輝が天井を見上げてため息をつく。


「それに九条家って、あの九条伯爵のとこだろ?金持ちの貴族のメイドさんかぁ……本物のメイドさん、初めて見たよ…」


「和輝……」神崎が呆れたように頭をかく。


「何も特別なことはない。単なる仕事の上司と部下だ」


「いやいやいや!羨ましいなぁ!メイドさんと毎日一緒に働けてるなんて!」


「お前な……」神崎が額に手を当てる。


一方紗希は、自分の立場を再認識しながらも複雑な思いが渦巻いていた。九条邸での生活は確かに特殊だが、決して華やかなものではない。メイドの粗相にはお仕置きがあり、厳しい訓練と規律で成り立っている現実を思うと、なんとも言えない気持ちになった。


しかし、紗希の最初の志望動機は"メイド服が可愛いから"だし、一般のイメージはそんな感じなのかもしれないと思い直した。



「あらあら、賑やかねえ。誰か来てるの?」


キッチンに繋がる食堂から、柔和な雰囲気の、初老の女性が顔をのぞかせた。


「院長先生、ご無沙汰してます」

神崎は嬉しそうに、彼女に歩み寄った。


「まあ!怜司君じゃない!元気そうね。よく来てくれたわね」


「院長先生もお元気そうで…」

神崎の柔らかな表情から、本当に大切な存在である事がよくわかる。


「ところでこの方は?」院長先生が紗希を見て首を傾げた。


「こちらは紗希さんです。お屋敷で働いてくれている使用人です」


神崎が紹介すると、院長先生は目を輝かせて歩み寄った。

「まぁ!怜司君が女の子を連れてくるなんて初めてだわ!」


紗希が慌てて挨拶をする隙もなく、院長先生は嬉しそうに続けた。


「しかもこんなに可愛らしい…あの怜司君がねぇ……」


「ちょ、ちょっと!勘違いしないで下さいよ!」

神崎が顔を赤らめて抗議した。


「ただの職場の部下です!今日のプレゼント選びを手伝ってもらっただけですよ!」


「まあ、そうなの?」


「は、はじめまして、雨宮紗希といいます。神崎さんにはいつもお世話になっていて…あの…いきなりお邪魔してしまってすみません…」


「いえいえ、お客様は大歓迎ですよ。来てくれて嬉しいわ。ゆっくりしていってね」


「ありがとうございます」


「あの、これ…院長先生に…」

神崎は少し恥ずかしそうに、シクラメンの鉢植えを院長先生に手渡した。


「まあ!なんて可愛らしいお花!私、シクラメン大好きなのよ。ありがとう、怜司君。紗希ちゃんも」


「いえ…喜んでくれて良かったです」


「お花はいくつになっても嬉しいものよ。気持ちが明るくなるわ」


「さて、おやつの時間にしましょうか」院長先生が切り出すと、子どもたちが歓声を上げた。


「ロールケーキだ!」「お菓子だ!」


「みんな手伝ってちょうだい」院長先生の指示に子どもたちが動き出した。


「紗希さんもどうぞ」神崎が紗希を椅子に導いた。


「あの……私、紅茶淹れますね!」


紗希が申し出ると、神崎は驚いたように彼女を見た。


「それは助かります。お願いできますか?」


「はい!」


紗希は慣れた手つきで急須を取り出し、お湯を沸かし始めた。その手際の良さに院長先生が感心する。


「まぁ上手ね。本格的だわ」


「紗希さんは紅茶の扱いがとても上手なんですよ」

神崎が誇らしげに補足した。


「そんな…神崎さんが教えてくれたから…」

紗希は顔を赤らめながら、昨日神崎に教わった通りに紅茶を淹れた。



「おいしい!全然苦くないよ」

「こんな美味しい紅茶初めて!」


子どもたちの素直な称賛に紗希は思わず微笑んだ。


「紗希さん、完璧な仕上がりです」

紅茶を一口飲んだ神崎の言葉に、紗希は胸がいっぱいになる。


「本当ですか?ありがとうございます!」

苦労してきた甲斐があったと実感する瞬間だった。



ケーキを食べ終えると、神崎が手提げ袋を持ち上げた。

「今日はみんなにお土産を持ってきたよ」


「わーい!」「何だろう?」


紗希と相談して選んだ漫画本とカードゲームを順番に渡していく。


「すごーい!『モンスターズ・クロニクル』だ!」「最新巻が出てたのか!」


「これは対戦できるカードゲームだって!」

「どうやって遊ぶの?教えて!」

「レアモンスターが出た!」


予想以上の盛り上がりに紗希と神崎は顔を見合わせて笑った。子どもたちのキラキラした瞳が何よりの報酬だった。



おやつを終え、紗希は台所で洗い物を手伝った。


「ごめんなさいね、紗希ちゃん。お客様なのに働かせてしまって…」

院長先生が申し訳無さそうに表情を曇らせる。


「とんでもないです!洗い物は得意なんです」


「怜司君は子供の頃から本当に優秀で…みんなに勉強を…お手伝いも…」


「そうなんですね…いつも…で…」


大量の食器を一緒に洗いながら、おしゃべりに花が咲く。


「ねえ、紗希ちゃん。怜司君はお屋敷ではどんな感じなのかしら?怜司君、かなり若くに執事に抜擢されたから、使用人の方達とうまくやれているのか心配で…あまり仕事の話はしてくれないから…」


院長先生からの意外な質問に、紗希は迷わず答えた。


「神崎さんは、使用人みんなから信頼されてて、何でもできて頼りにされていて…厳しい時もあるけどすごく優しくて…」


紗希は確信を込めて力強く言った。


「私は…私達使用人はみんな神崎さんの事、大好き…すごく尊敬してるんです!」


(この子は怜司君の事、本当に大好きなのね)


「今日だって、帰省しないで一人で落ち込んでいる私を元気付けようとして、連れてきてくれたんです」


「そうだったのね。私も子供達も、紗希ちゃんが来てくれて嬉しかったわ。怜司君のお屋敷での様子も聞けたし、本当に良かったわ」



その後、子供達と遊んだり、おしゃべりしたりしていると、あっという間に時間が過ぎ去った。


「もうこんな時間ですね。帰らないと…院長先生、僕らはそろそろ…」

神崎は時計を見て立ち上がった。


「紗希お姉ちゃん、帰っちゃうの?」

玄関に向かう二人を最年少の文哉ふみやが小さな手で紗希のスカートを掴みながら引き留めた。


「もう絵本読んでくれないの?」

うるんだ瞳で見上げる姿に紗希の胸が痛んだ。


「あらあら文哉くんは紗希ちゃんに随分懐いたわね」

院長先生が笑いながら覗き込む。文哉は紗希に絵本を読んでもらっているうちにすっかり彼女の膝が定位置になっていたのだ。


「紗希お姉ちゃん……」


子どもの純粋な哀願に紗希は言葉につまった。

「あのね……私たちはお家に帰らないといけないの……」


「いやだよぉ!もっといっしょにいたい!」


「文哉君」

神崎の静かな声が響いた。厳しさはないが決断を促す響きだ。


「紗希お姉ちゃんはお仕事があるんだよ。ずっとここにはいられないんだよ」


「…そうなんだ…お兄ちゃんは?また来てくれる?」

文哉が神崎を見上げる。


「ええ。必ずまた来ます。約束です」

神崎は優しく頷いた。


「よかったわね、文哉君」


「うん……」

文哉はやっと紗希のスカートから手を離した。


「文哉君、元気でね」

紗希は文哉を抱きしめた。温かな体温が伝わる。


「帰りましょう」

神崎が紗希に声をかけると、彼女は最後に文哉の頭を撫でて、外へと向かった。



「紗希ちゃんが来てくれて本当に助かったわ」

院長先生が門まで見送りに出てきた。

「二人ともまた一緒に遊びに来てね」


「それは……」神崎が口ごもる。


「今日みたいに怜司君と一緒に来てくれると、皆すごく喜ぶわ」


「院長先生、実は……」

神崎は言いにくそうに言葉を濁した。


「今日は特別なんです。今は九条様ご一家がご不在で、使用人も休暇中で屋敷は無人なので……」


「え?」院長先生が驚いた表情になる。


「通常勤務に戻れば…もう二人で来る事は難しいんです」


「そうだったのね…」


大勢の使用人がいる中で、彼女一人だけ特別扱いはできない。やましい事は無くても、二人の立場を考えれば、当然の事に思えた。


「…わかったわ。それなら……紗希ちゃんにボランティアスタッフとして一人で来てもらうのはどうかしら?」


「ボランティア!?私なんかでいいんですか?」


「もちろんよ!子供達も、特に文哉君が喜ぶわ。ボランティアスタッフはいつも募集しているし、問題無いわよね、怜司君」


「神崎さん、私、またこちらにお邪魔してもいいですか?」


神崎は院長先生と紗希の意外な言葉に驚いた。


「…それは…休みの日のプライベートな活動はたとえ上司でも制限するものではありませんし…」


「ありがとうございます!院長先生、私、必ずまた来ます」


「まあ、嬉しいわ!子供達と楽しみに待っていますよ」


心底嬉しそうな二人の様子に、神崎の胸に暖かいものが広がった。


「でも紗希さんは、来月大事な試験がありますから、それが終わってからですよ」


「はい!もちろんです」



子供達に見送られて、車はモミの木の家を後にした。紗希は、院長先生から手渡されたボランティアスタッフ募集のチラシを、大事そうに鞄に入れた。


「紗希さん、今日はありがとうございました。子供達も院長先生も、あんなに喜んでくれて…」


ハンドルを握る神崎からの感謝の言葉に、紗希は恐縮しながらも嬉しい気持ちでいっぱいになった。


「いいえ、私の方こそ、連れて来てくれて、ありがとうございました。本当に楽しくて、落ち込んでいたのが嘘みたいに、すっかり元気になりました」


「それは良かったです。ただ今日の事は……」


口ごもる神崎に、紗希はその意味を察した。


「はい。今日の事は誰にも言いません」


神崎は、自分の意を汲む紗希からの意外な言葉に驚いた。


「今日は特別だって事、よくわかってます。明日からはまた、来月の試験に向けて頑張ります」


「…そうですね。それが良いと思います。あ、そうだ、これ…」


その時車が信号で止まり、神崎はコートのポケットから小さな包みを取り出し、紗希に手渡した。


「カードゲームです。弟さんに…」


「え!?でも…」


「今日、買い物に付き合ってくれたお礼です。試験に合格して本採用になったら、今度こそ帰省するのでしょう?」


「は、はい!ありがとうございます」


「本採用になったら、3日間の帰省休暇と手当が支給されます。必ず帰って、ご両親を安心させて下さいね」


「はい。頑張ります」


信号が青に変わり、車は九条邸へと走り出した。明日にはもう戻って来る使用人もいて、非日常はもうすぐ終わりを迎える。今日の思い出を胸に刻み、紗希は本採用に向けて気持ちを新たにした。

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