36 Mater Dolorosa
こうなると、予選で一条 直人のすがたを見せたのはミスだったかもしれないと思う。
「いきましょうか、ナオトさん」
城の門の前で騎士たちに囲まれたアリアに差し出された手を、ソッと受け取る。
「あちらでは、お盆というのでしょう?」
「そうですね。暦も似ていますしね」
「英語ではカレンダーでしたね。変な名前よね、それを娘の名前にするなんてマリーはほんとうにセンスがないわ。あっ、ソフィアの名前はね、わたしがつけたんですよ」
「名前通りに、すばらしい方になられてるじゃないですか」
「わたしが教育しましたから。あの子は素直でしたから、吸収も早くてね。じぶんの名前の由来をおしえてあげたらとてもうれしそうにがんばるんです」
これは無意識なのだろうか。
それとも牽制の精神攻撃か。
「人のことをジロジロと、いやだわ。他のことなんて無視して足をとめないで」
「たしかに不快な視線です。ここはサッサと通り過ぎましょう」
「感性の響きも似ているのね。あなたがもっと早くに生まれていてくれたら……よかったのにね」
転移門のプリズマがあるミネルヴァの神殿の前には、遠目から見守る父さんと母さん、それからビルたちハワード家、そしてカレンダーを連れたリアナの姿もあった。
……なんでこの人は、舞台で大手を振って舞ってみせたのに、緊張しているように、すこしだけ震えているのだろう。
ミネルヴァへと入り、ぼくはアリアと哲学の道を歩いて、洞窟の試練へと向かう。
そこでは今日の見届け人であるソフィアとシルヴィア、そしてバルトが待っていた。
そして試練を前に、アリアがとんでもないことを抜かした。
「せっかくですから、あなたの成長をみせてください。ソフィア」
この人はどれだけ無自覚に家族を傷つければ気が済むんだろう。「……はい」と、唇をかむような返事をしたソフィア。その隣で打ちひしがれそうにゆがんだ瞼を開いたシルヴィアの心情は計り知れない。
2人の肩を持つバルトの手も、震えている。
まずは洞窟の試練。
これは難なくこなしたソフィアだった。
問題は次の聖母の試練だ。
プレインチャント・グレゴリオのアヴェマリア。
「ソフィア王女。ここは──」
「わたしはなんどもマリーに会いに来ていますから……だいじょうぶです」
ソフィアは完璧に歌い上げて聖母の試練を突破した。
「よく歌い上げました。ヌースの書はわたしが獲らないといけません。……バルト、鏡をもっていて」
「わかった」
意外だった。その役目もぼくに任せるかと思えば、バルトに頼るなんて。でも、そのあとに採ったアリアの行動は最悪だった。
石像のマリーの前にヌースの書を抱えて立ち、こう言ってのけたのだ。
「どう?あなたが欲しくてしょうがなかった書はいまわたしの手の中にある。あなたの手垢がついてることもこのさい目をつぶるわ。だってわたしのものになるんです。わたしはあなたのような卑怯者ではなく、役目にずっと努めてきた。これがあなたとわたしの差よ。でもよかったじゃない。娘はまだ死んでいないんだから、それで我慢することね」
そうして言い放ったあとに、最初にアリアが視界に収めたのは、シルヴィアだった。
「これがわたしの人生の価値よ。シルヴィア。あなたの本とはぜんぜん重みが違う。あなたはあの人形とたのしくやってなさい」
ぼくはその一言で、ハッとさせられた。
「見届けなさいな。一人の王妃の独壇の歌ではなく、ようやく奏でられる重唱のフィナーレです」
アリアは、自分の物語の終幕の感想を悟っているんだ。
彼女はいまでは、語り口でない本物の一条 直人の中身に触れて知ってしまっている。
ヌースの書を真に自分のものとしたときに、そこにあるのはすきすさぶ空気のように軽い夢から覚めたような達成感だということを。
理解のしようがない空っぽのアダムの中身に、幼い少女は恐怖を押し込めたのではないだろうか。
VOXに弄ばれなければ、アリアは、ほんとうは……これは、感傷に痛む音義通りの独唱だ。
「朝は朝星、夜は夜星。夕星の苦しみは、あなただけのもの。そして、わたしだけのもの。グレートヒェンのような愛に過失を求めることなどわたしはしませんし、あなたが愛したベルだってそうだったでしょう。死によって罪が贖われることなどありえないし、絶え間ない努力ではもうどうにもならないんですよ。だから、もうベルはいないのだと割りきって、逃げないで。ベルさえいなければ、これからあなたはわたしだけのものになる。……ね、ナオトさん」
ミリアと隣り合った時にはなかった、そっと耳打ちされた、これからあなたはわたしだけのものになるという宣告。
営為の音が強くなる。
階段を登るとそこは、晴れた青の光に象られた神殿のある丘の上だ。
突然現れた階段の入り口を伺うように、そして、そこから出てきたナオトとアリア、そしてバルトたちに周りの人間たちは騒ついていた。
地上に出ると、正面には祭壇があった。
祭壇の前に立つぼくとアリアを囲むように、観衆は花輪となった。
東のプニュクスという石壇広場のオリーブの止まりの古木から飛んできたクロポが目の前の祭壇に降り立った。
「ヌースを宿し者よ」
分別を弁えし者よ。
「水時計の試験を受ける資格を得し者。死を被るアテナの右手に消閑の叡智の代わりとなる揺籃を収めよ」
「内容は?」
「答えのある質問を一つ出す。答えろ。私が正解かどうかを判別する。難易度は0級、1級よりも簡単だ」
「対価は?」
「ミネルヴァの真理だ。もし失敗したら、年に一度鳴る鈴が十二の多年を報せる時まで、お前には石となり女神の慰めとなってもらう」
「わかりました」
ちゃんと、クロポも学習してるんだな。偉いじゃん。
「そのまえに、いま石像になっている者について聞きたい。ぼくはこうして挑戦者の隣で会話を聴いていることが許されているけれど、まずそれはいいのだろうか」
「階級のない試験にひとりで挑めという決まりはない。ミネルヴァは知識の代わりに知恵を欲する。多ければ多いほどいいこともあれば、まとめきれなければ徒ら者に空費を払うことになる」
「安心した。それでだ。いまアテナの神域で女神の慰めとなっている人は同じ水時計の試験を受けたはずだが、試験の内容が出回っていないことが不思議なんだ」
「彼女は盗人だ。そもそも水時計の試験を失敗すれば再び時計の水は満たされる。それに、知の書に書き込まれていないミネルヴァの知識は持ち出せない。基本だっ!」
ふっふーんと胸を張るクロポのどやっ顔は、いっときの安らぎをぼくにくれる。
わたしたちがついてるからと、言われてるみたいだ。
「ぼくの準備は万端だ」
「わかりました。では、参ります」
「では、試験開始!」
アリアの意思表明を受けて、クロポが羽を巻き散らかして、ひとつの大きな水時計を祭壇の上に出現させた。
水時計の水が流れはじめる。
──問いが、くる。
「太陽と時間は水を盗む。水は月を盗む。光は女神の栄華。では、女神ミネルヴァからおまえは何を盗む?クテシビオスの水時計は水泥棒。其方はクテシビオスの弟子を志す者なのか。水の正体を探る者。おまえは何者か」
うん、構造を使って複雑にみせているけれど、問われているのは後半に集約されている。
クテシビオスは女神から水で光を盗んで見せる。
水時計クレプシドラは、盗・水と水泥棒の音義だ。
おまえはクレプシドラを発明したクテシビオスの弟子を志すものなんだな。
女神の栄華の正体を探る者。
おまえの名前はなんだ。
整理するとこんなところだ。
さて、古代ギリシャで活躍した発明家クテシビオスの弟子として、ぼくの知識にあるのは2人だ。
ひとりはアレクサンドリアのヘロン。
しかし、アレクサンドリアのヘロンは紀元前2世紀から紀元後の3世紀までと生没年の推定がひどくはげしく、紀元前3世紀ごろに活躍していたクテシビオスの直接の弟子でなかった。
そしてもうひとりが、ビザンチウムのフィロン。彼だ。クテシビオスと同じ時期に活動していたとされる発明家で、研究によって誤差はあるが、ぼくの知識の中では、彼がいちばんクテシビオスに近い人間だった。
……なぜ、鈴華がクテシビオスから出題したのかは、なんとなく見当がついている。
クテシビオスの発明した水オルガンは、世界最初の鍵盤楽器だからだ。
もしかしたら、水時計の試験で水オルガンの方の問題が来るいじわるもあるかと思っていたが、杞憂だった。
アリアにこたえを教える。そしてアリアは、声を高らかに応答する。
「ビザンチウムのフィロン」
「正解だ」
あっけない。こんなものか、下手な戦いもなければ平和なもので、ミネルヴァの試験は答えられさえすれば、どのダンジョンよりもやさしい設計をしたところだ。
文明が武力に勝った、そんなすがすがしさもあるな。
こんなことを言えるのも、苦労していない、ぼく、くらいだろう。
でもさ、ミネルヴァはナオトとしての19年間の集大の所収が詰まったところなんだ。
うれしいよ……。
「おめでとう!ヌースを宿し者よ!そなたは試験を突破した!これで水時計の水もすべて流れ、メデューサの消閑の涙も溜まることなく、夜明けとともに直にアテナの時も動き始めるだろう」
やった。このセリフは──石像になったマリーが残った試験時間の終わりと同時に目覚める。
「ソフィア、女神の間へ迎えだ。マリーが直に目覚める」
「シルヴィア、おまえもソフィアについていってやってくれ」
「はい、お父様。ソフィア」
「ようやく……いってきます」
開いたままの階段から、シルヴィアとソフィアはマリーを迎えに向かった。
「カレンダー。だいじょうぶ。きっとソフィアがおかあさんをつれてきてくれる」
「はい、リアナさん」
ミネルヴァの外で待っているカレンダーとリアナにも、いい報せが待っている。
「ソフィア……大きくなったわね。あなたが、解いてくれたの?」
「ああ、マリー!わたしじゃないんです、わたしは迎えに来ました」
「そう……ありがとう」
「あなたを7年も独りにさせてごめんなさい、ごめんなさい!!!もっと早く解けていたら!」
「……いいのよ。12年は覚悟していたから」
アテナの目覚めとともに、ミネルヴァにも血が通う。
「もっと喜んどけよ。ぼくがみじめだろ」
「書はこんなに軽いのに、知識はこんなに広大。しかし等身大のあなたは、なんて現実的な方なんでしょうね。ずっとわたしの探していたすべてが、いまここにある」
そういうと、アリアはバルトの方へとても軽いステップで向き直って、朗らかに笑ってみせた。
「バルト──」
……もうこれいじょうないってくらいに。
「ありがとう……」
アリアの心臓を貫くにはほかにない、絶好の場面だった。
「リアムさん!おとうさま!マリーが目覚め──」
階段から登ってきたソフィアが目にしたのは、大罪を犯した母の背中から胸を貫く、一条 直人の血塗れの手だった。
「繋縛だ。これでおまえは生きも死にもせずに、眠り続ける。おやすみ──アリア」
ゆっくりと、アリアの胸から腕を引き抜いて、横に寝かせる。
ぼくは、肩が引っかかるこれと似た感触を知っている。
最期くらいは、誰かを苦しめずに終わりたかったように、アリアはなんの抵抗もすることなく、逝った。
即死だった。




