20 ノンブレス
2日目。
一次予選、中盤。ウィルとアイナが1日ぶりに会場に戻ってきた頃のこと、空席の審査員席から貴賓席へ移ったブラームスは3枠後に控えるボルテージオーケストラの出番まで固唾を飲んで待つ。
当初、正光教のドリアはリアムに喧嘩を売り、声楽部と合流して参加しようとした。
だが声楽部はこれを拒否、理由は声のバランスやら云々、あるいはドリアを有象無象と一緒に歌わせることはできない云々、有体に言えば厄介払いされたのである。
アウストラリア側としては、一国を成す宗教の一種の象徴を軽んずることもできず、白羽の矢はミリアへ向かった。
『ドリア様がミリアたちと合流するのは、第一次予選と本選。ボルテージオーケストラは本初、器楽のみの参加予定だったがその2選考に登録していた曲目は伝統的な歌詞や美しい旋律があった』
ウィリアムとアイナと同伴した開会前のわたしの心配に、ミリアはいかに国のために尽力したのかを表に出すことなく笑顔で語った。あえて、ドリアの参加を誘ったという。自分達が本選まで残るという絶対的な自信のなせる選択か、あるいは、観衆の期待する不純な音の楽しみ方を推したのか。
ミリアはこの舞台を作り上げるために、さまざまな調整を負担した。
ドリアが参加する声量分、減らされた奏者たちへのフォローのための全プログラム編成の再調整。
『ミリア……ノーフォークの威信がかかっているこの機会にあえて絶大な信頼を得る正光教の聖女を招いての失敗はできないぞ。本選まで進めないのもNGだ。だが如何せん、忖度などできない。リアムの怒りを買うような真似を兄上がするとは思えない』
演奏がはじまるまで、ブラームスの心はギクシャクとしていた。
だが、ボルテージオーケストラとドリアの演奏にて、ブラームスの憶測は見事に払われた。
「70番」
会場の雰囲気がガラリと変わるのを感じる。
観客が熱に浮かされそうになるのを理性で抑え込む短気な息遣いを感じとる。
そうして、楽器を手にした器楽組が舞台の椅子に腰掛ける。その中には、エリシア、アルフレッド、フラジールの姿はなかった。
3人は二次予選から参加し、本選へ参加するために一次予選は降り番。
可能性は低いが、それでも何か取り返しのないミスでもあれば観客の前で一度も演奏することもなく終わるというのに、彼らはミリアとこれまで共に練習してきたメンバーたちを信頼して一次予選を任せたのである。
準備も整った舞台中央にドリアが立つ。
そして、悲しきかな……このときにあって会場にリアムの姿はない。
曲目は、詩の蜜酒。ロマンスや妖精族の里の方で楽しまれる宴と舞踏のための伝統的な歌が楽譜化された曲だ。
正光教会では、聖歌のための合唱隊にも所属していたドリアの実力は折り紙付きだった。
だが、聖歌と民族音楽とでは曲調も違う。
荘厳な聖歌と対比されるような明るくて飛び跳ねたくなるような音楽だ。
それでもドリアの歌声は見事に適応していた。
不覚にも、ブラームスもドリアの歌声に魅せられる。
緊張感の底にあった重い空気を払拭する明るい旋律。長い1次予選の終盤に演奏することがわかっていたミリアが選曲した。
メンバーはミネルヴァ楽団にも指導を受ける器楽部所属の者ばかりという確かな実力と疲弊しかけている観客の気力を生き返らせる意外性が見事に重なった。
「すばらしい!!!」
観客が総立ちで賞賛に応えて最後に退場したドリアがひっこむいっぱいまで拍手を送り続ける。
今日、あるいはこれまでの演奏で1番の成功を収めた。
「やった!……やった!!!」
ボルテージオーケストラのメンバーたちは捌ける端から舞台裏で喜びを分かち合う。
そうして束の間の興奮と喜びを共有し、各々が会場の予約席へと散らばっていく。
レベルの高い演奏は、このあとにこそ続く。ミリアとドリアも胸に込み上げて止まらない興奮をなんとか調伏しながらライバルたちの演奏を安堵のまにまに楽しむ。
一位通過はボルテージオーケストラに違いないと、一般客たちは思っているだろう。
万雷の拍手の中にあってもバルトやブラームスは一先ず予選を通過できそうなことに安堵するに留まった。
このあとには、ベルが恋したほどの異世界の怪物が控えている。
「80番」
登録名はフィルハーモニー。
リアムによって、”調和を愛する”とだけ名付けられた楽団である。
舞台上の椅子が独りでに動いて勝手に整理され、そして、どこからともなく楽器たちが舞台に出現する。
空席に楽器が座り寄り添う異様な舞台だ。
リアムは、自分の番を控室で静かに待った。
だんだんとミリアたちの出番が近づくも、席に腰掛けたまま、静かに自分の出番まで目を閉じて緊張感を保ち続ける。
そんな面持ちなど感じさせない自信に溢れたリアムは、整理された舞台へ足取り軽く入場して、クロ艶やかなピアノの縁に手を触れながら審査員席へ一礼する。
『阿頼耶識、薫行──会葬』
一般客席に座る両親にニコりと微笑むと、舞台の上は黒い霧に覆われる。
観客は騒然とするも、霧が晴れると楽器を手にした演奏者たちが席に座っていたので、なんだ演出かと……だが、観客たちは改めて疑問を呈する──”なんだ、これは”と。
オーボエの音を基準に各々と音合わせをはじめた演奏家たちの年齢層があまりにも幅広すぎた。パッと見て10代の若者から白髪よぼよぼの爺さんまで多様な人間で構成された楽団だった。
それでも審査員長のバルトは沈黙している。
ウィルとアイナは互いの手を強く握る。舞台が黒い霧に覆われるという状況に直面するも、冷静に状況を見ていた二人だったが、霧が晴れたあとのことだ。
懸命に、何度も見直しては探したが舞台上にはリアムの姿はどこにもなかった。
代わりに、さっきまでリアムが立っていたピアノの側には、黒髪黒目の若い青年が立っていた。
奇抜で癖のある演出にドギマギしていた観客たちの視線を浴びながら、黒髪黒目、あらため19歳の一条 直人はピアノの椅子に腰をかけると、しばしの呼吸を置いて鍵盤に手を置いた。
指揮者はなく、弾き振りの様相。
その所作をもってして、もう観客は、黙るしかなくなった。
ホールに、密度の詰まったピアノの重厚な和音が鳴り響く。
そうして適切な時間の間に和音が繰り返されることのタメを経て、協奏曲は、はじまる。
ラフマニノフピアノ協奏曲第二番第一楽章。
転じて、伴奏へと移ったピアノの迫力ある演奏にジワジワとのしかかるように、弦の旋律と音が質量となって観客に襲い掛かる。
『……』
この曲。この演奏。この完成度。
目の前の光景と音だけしか思考が読み取らない状況で、客席のミリアの感想を代弁する言葉は失われていく。
『いちはやく立って賞賛の気持ちを表現したかったが、腰が抜けて立てなかったぞ。一条 直人』
してやったり顔の直人の顔を恨めしく思いながら、してやられた観客たちは一同を介して、楽器を手にして舞台袖に消えていく楽団が退場するまで沈黙することしかできなかった。
最初から最後までが一息のように感じられる完成された演奏。
恐ろしいほどの満足感と満たされない思考の不充足。
真っ白になる。




