17 Venus
7月初旬。
「これから披露する曲は、独りの晴れた夜に僕がよく聴く曲だ。静けさを楽しむために、美しい音楽に頼る。なんて」
「贅沢な時間だろう」
シドの知ったる合いの手を静かに意識の底へ染み込ませ呼吸を薄く深くしたリアムは、黒い霧で辺り一帯を包み込む。
「……俺たちにこの曲を聴かせた理由は」
「ホルスト作、曲名は金星」
「そうか……」
ジョシュとチェルニーとシド。月明かりが眩い夜の庭にてリアムたちの演奏を聴いた3人は、多くを語らずに星空をしばし静かに眺めた。
星の輝きが瞬く時間、ジョシュとチェルニーには素晴らしい贈り物になっただろう。
しかしリアムの演奏方法をみたシドにとってはそう単純な理解に終わらない。
心臓の音が血管を打つ音の感じられることの虚しい心境を呼吸に混じってじわじわと胸から追い出していく。
チェレスタの金音が星を散りばめた夜の明くる日、楽霖祭の予備予選がはじまる。
「予備予選を始めます」
王立学院の音楽講堂にて、予備予選が行われる。
予備予選の速やかな選考のために見学は原則なし、審査員の前で5分の制限時間内に演奏を行う。
調べた感じ、一次予選で舞台に立てる80枠を選ぶので、参加人数114人から逆算して予備予選で落ちる割合は3割。
学院学徒会の各学年部の代表、来賓、王族から数名、年によっては代理で選ばれた貴族が予備予選審査員席に座る。
予選に進むと全出席を余儀なくされるバルト王をはじめ王族が3次まで持ち回りで参列し、また、本選では王族が軒並み審査員席に座るというのだから、この国は平和なものだ。
……第一関門は一次予選。ここで24名まで、7割が落とされる。
「114番 リアム」
だがしかし、参加枠のほとんどを占めるのが声楽による参加なのだとか。
団体器楽での参加は15枠越えれば多い方らしい。
そんな中で3次予選の合格12枠の過半数を器楽参加が占めるのだというから、楽勝かもしれない。
中には掛け持ちも許されていて、他の参加者を手伝ったり、ソロとグループで登録できたりと結構な穴があるので貴族の名誉が云々、子供の将来性をアピールしたい貴族のガス抜きも兼ねたルール作りになっている。
……手は抜かない。
「準備が出来次第、演奏をはじめてください」
審査員席にはソフィアがいた。それから第二妃ジャネット、第三妃シータ、カリナの姿もある。
「ティ」
「はい」
最後の応募者の隣にドミナティオスが控え、舞台上に楽器と椅子を出現させる。
阿頼耶識、薫行──リアムの体から噴き出した黒い霧が舞台を這って位置につくと、楽器を手にする肉の質感を持った40余りの人影が呼吸をはじめる。
「……あなたは、どなた」
「リアム」
突然現れた奏者たちのあまりにも非現実的な着席に我慢ができなかったソフィアの問いかけに舞台上の演奏者たちはそれぞれの肉声をそろえて応えた。
あまりの統率の取れた意思疎通ぶりに、審査員席に座る人間はすべからく固唾を飲み込んだ。
見慣れた姿のリアムが、指揮台に立つ。
演奏曲は『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲。
直訳すると田舎の騎士道、3分と少しの時間に詰め込まれた理不尽・愛惜・後悔の混淆たもう、争いに纏はる感情に満ちた歌劇の間奏曲。
そのサビは誰もが耳にしたことのある美しい旋律の曲。
曲が終わると指揮者のリアムが礼をして6秒の間を置いて、審査員の一人が「美しい……」と呟いた。
「それではあなたの審査は終わりです」
退場を促されても、リアムは微動だにしない。
「どうされましたか」
「僕が最後の応募者で、審査も終わりました。しばしここに残って、舞台をお借りできるよう頼んでいたのですが」
「……そうでした。では、我々は退出いたします」
リアムは事前に応募用紙に特殊な魔法を使って演奏に臨むこと、それからバルトを通じて審査後に講堂を貸してもらえるように伝えていた。
バルトからその旨を伝えられていたことを思い出したソフィアは、今一度、なぜリアムが審査の最後に捩じ込まれたのかを理解するとともに、目の前で見せられ、そして聞かされた演奏の衝撃を反芻しながらホールの扉を閉めた。
「……ソフィアさん?」
「失礼します、お義母様方。私もしばし、ここに残りたく思います」
廊下を少し歩いたところで、ソフィアは振り返る。
自身の内から滲み出してくる衝動を我慢できず、再びホールの扉を開く。
「どうかされましたか?」
「ご迷惑でなければ!……しばし、わたしにも時間をくださいませ」
見学を申し出たソフィアに、どうしたものかとリアムはドミナティオスと相談する。
「……曲を変えたい」
「一次予選のあなたのリハーサルも兼ねていたのでは?」
「ぶっつけ本番も悪くない」
「わかりました」
再び霧を噴き出すと既に着席していた演奏者たちを入れ替えて、予備予選の時とまったく違う顔ぶれを列席させる。
「10分。ですが一次予選のために準備していた曲とは別の曲の演奏です。これから起こることは他言無用です。でも、感想は聞かせてくださいね」
リアムはソフィアにひとこと断りを入れると、バイオリンを手に演奏者側に加わる。
「どうして、ドミナティオス様が……っ?」
ドミナティオスが指揮台に上がって、改めて、黒い霧に身を包みなおしたリアムを加えて演奏がはじまる。
──演奏が終わり、舞台上から観客席のソフィアへリアムは語りかけた。
「弦楽のためのアダージョです。どうでしたか、忘れ物は見つかりましたか?」
「……今のは、幻覚ですか」
「一次で披露予定のサプライズですから内緒にしてくださいね。それでは、感想をいただけますか?」
「かなしい曲でした。感情のうねるような、重さと微細さで私の中に染み込んできて何か大事なことを忘れている……いえ、忘れてはいけないと耳からずっと休むことなく語りかけてくる」
「間はゆったりとあるのに気持ちは終始休まらない、すすり泣くような旋律。この曲はミネルヴァのファンタジーでは葬式の定番曲として登場します。しかし、この曲の作曲者バーバーは葬式のために作った曲ではないと不満に思っていたそうです」
「あなたは、わたしに葬式のための曲を選んで演奏したのですか」
「いいえ。作曲者がそうでないというのなら、そうなのでしょう。名作は死なない。僕にとってこれは葬式のための曲ではなく、むしろそれを否定する気持ちを込めて舞台に立ち、この場にふさわしい演奏をしました。弦楽のためのアダージョを」
そうしてバーバーのアダージョに付いた曰くの強い否定をもってして、追求をやめたソフィアはリアムからのメッセージを理解したのだろう。
「それだけ多彩な蒼生の技能を結ばれて、しかし霖雨にあらず、あなたはいったい何者だというのでしょう」
自分より幼い子供が、歳上のように叱りつけてくる。ソフィアに限らず、リアムと接した人間が抱える同様の疑問はさも妥当だ。
「一条 直人──」
予期せぬ返答に、ソフィアはキョトンとしていた。
その様子を笑うかのようにリアムは舞台上の霧を身に収め、ドミナティオスに後片付けを任せると時を同じくして無邪気に舞台から降下したかと思えば、ホールにはソフィアだけがひとりで取り残されていた。
「あなたはそんなにも嬉しそうなのに」
ソフィアは舞台の上から自らに向けられたリアムの楽しそうな表情が忘れられずに、強烈に思い起こすことで、霧雨の如く降下して去っていったリアムと過ごした時間が夢ではなかったのだと再認識する。
「霧雨のように薄い肉声が伝わったように感じる」
……わたしがあんなふうな顔をするときは、どんなときだったろう。




