08 クロポ
開いた女神の扉の先は階段になっていた。しばらく登ると光が差す。
そして、営為の音が強くなる。
階段を登るとそこは、神殿のある丘の上だった。
アクロポリスに出た。
突然現れた階段の入り口を伺うように、そして、そこから出てきたリアムとミリアに周りの人間たちは騒ついていた。
地上に出ると、正面には祭壇があった。
出口が開いたこの位置。確か、アテナの古い神殿があった場所のはず。
リアムは一旦、自分達の位置を把握すると後ろへ振り返りアゴラからも見えた巨像を確認する。
そこには、アテナ・プロマコス像の代わりに左手に弓矢を、右手に矢をつがえるレテのミネルヴァ石像があった。そして、彼女の左手の薬指にはアテナの右手のと同じ造形の石指輪が彫り嵌められていた。
「クロポだ。どうしてここに」
アクロポリスのクロポは、普段はここより東のプニュクスという石壇広場のオリーブの古木を止まり木としている。
そのクロポが神殿のある丘に現れ、あわや目の前の祭壇に降り立った。
「ヌースを宿し者よ」
分別を弁えし者よ。
「水時計の試験を受ける資格を得し者。死を被るアテナの右手に消閑の叡智の代わりとなる揺籃を収めよ」
動かないアテナの右手になにかを置く、あるいは……なんだろう。
「内容は?」
「答えのある質問を一つ出す。答えろ。私が正解かどうかを判別する。難易度は0級、1級よりも簡単だ」
「対価は?」
「真理」
「冗談じゃない。お前なんかに真理を語られてたまるか」
「では言い直そう。ミネルヴァの真理だ。これならどうだ」
「すなわち、ここに溢れる知へ自由に触れる権利か」
「そうだ」
「いらない」
「……え?」
ここにある真理ってすなわち、直人の知識だろ。
「ノエシス」
リアムはノエシスを唱えヌースの書をクロポへ掲示する。
「夜の0時、緑の光が最も強くなる時間にミネルヴァの書の全ては本棚へと戻る」
「汚し、燃やし、跡形もなく塵にしても」
「然り。しかしヌースを得ればミネルヴァの知をインクへと宿し、我が羽と同じく書に写すことができよう」
日をまたぐと、ヌースの書はどうやら元あった場所に戻るらしい。
「ところで、お前はこのミネルヴァの司書なんだろう。アリスの司書に試験を課して閲覧許可を出す存在であるお前はミネルヴァの知の全てを読み込んだ。この叡智を語る本ヌース、すなわちミネルヴァの知を宿すのだろう」
「ミネルヴァの司書という表現は物議。しかし、そうだ」
「ならば善の神と悪の神の名前を答えてみろ」
「……答えられない」
「ほらみろ。お前は全知ではない。それなのに叡智を名乗る本もそれを授けると偉そうに上から目線のお前も烏滸がましいし、だからいらない」
「むぬ……その堂々と私に挑む姿、見事なり。なればこそ、お前のいうところのミネルヴァの司書になる権利を手にせよ。水時計の試験に挑むか?」
「だから受けない。それに、こちらが訊ねたのは対価だ。お前は成功したときの対価は示したが、失敗したときの対価を明示していない」
「そちらを明示する前にお前が食いかかってきたのではないか。もし失敗したら、年に一度鳴る鈴が十二の多年を報せる時まで、お前には石となり女神の慰めとなってもらう。さぁ、水時計の試験を」
「そもそもこのミネルヴァの存在が気に入らない!!!人の知を餌にしていることは百歩譲って黙認するとして、叡智の書を語りながら名前が知というより能に近いヌースだし、メルクリウスのイナコスとか、アテナ登場とか、クロポとアリスを日本語でアナグラムしてるとかそーいうとこ都合良すぎだし」
「ミネルヴァとアテナは鏡のような関係にあってだな」
「とんでもない鬼畜仕様の癖に荘厳な神殿のある丘でこんなすかしてふざけたフクロウと喋ることが大詰めとかつまんない筋書きにも程がある!!!」
「ちょっと容赦ないんじゃないですかナオトさん!!!?」
……は?
「お前を締めたら真のラストボスが出てくるかな」
「はて?ラストボス?そんな仰々しい名前の試験などない。あろうことかヌースを宿し者が急に暴力に訴えるなんて、野蛮な」
「知の対価に死を要求してくるやつに言われたくない」
「……泣いていい?」
善の神と悪の神と聞いたところで都合のいい世界だから、それはどの系の神について訊ねているのかとか、そのための試験を受けろと当然のように返してこなかったあたり底が知れるし、大体、これだけ知性バリバリで喋ってるから中身が別にあることの想像はつくが、そっちの名前を呼んだらダメでしょう。
「面白い話を思いついた。演劇には黙役ってのがあってだね。必死に反論するもクチバシをへし折られ弁舌を抜かれ、怒れる野蛮な権力者にはねられた首を祭壇に捧げられる可哀想な贄の役なんてどうだろう」
「わかりました!涙は拭いません!水時計の試験は受けなくていいです!」
ノクチュア新聞『リアム、試験を蹴りミネルヴァのクロポを脅す(注意喚起を含む)』。
「では、私は止まり木へ戻る」
「戻る前にこちらからも一つ用がある」
「なんだ。やはり試験を受けるのか?」
「しつこいわ。水時計の試験とやらはいい。アメージング・グレイスの楽譜を書き写すための羽が欲しい。その試験を受けたい」
「その楽譜にアクセスする資格がお前にはない。試験を受けたければ手順を踏み、私の元へと出向け」
クロポにヌースの書を今一度掲げて睨みつける。……クロポの中には強い命の属性の魔力を感じる。
「お互いに向き合っては話そう。それとも一方的に用向きを済ませて帰っちゃうの?ね、お願い」
「……よ、よかろう。確かにそれは資格足り得る。せっかく出向いた訳だ」
一転してちょっと甘えたリアムにクロポはなぜかデレッデレである。
「敬意を表し特別に試験を課す。お前が欲する楽譜の詩を旋律に乗せて歌とせよ。制限時間はこのクテシビオスの水時計が10分を描くまでだ……なんだその怪訝そうな目は」
「10分?まだ日時計の方がマシな気がする」
「ちゃんと流速を一定化した改良版だ!」
「いっそ、その時計壊したら制限時間無くなるんじゃ?」
落とした一枚の羽が変化して現れた水時計を、焦りまくってクロポが翼でサッと隠す。沈黙が雄弁に負けている。
「あっ、あと失敗したときの対価は死と楽譜読了の忘却でして」
「外で得た知識はどうせダンジョンから出たら思い出す。でも死ぬのはねぇ……捕まえて毟った羽でも用を足すか試すのはどうだろう。羽によって役割が違うのかな?とりあえず、ぜんぶ毟ろうか」
「ヒィイいいい!!?」
「そもそも君に忘却できるの?殺せるの?」
「……ぜ、善処はしますが抵抗しないでもらえると。魂はがしてくっつけるだけなので痛みもなくちょっと気絶するだけ、みたいな……」
「好奇心でね、ごめん……ねぇ。僕がマジの本気の力でこの神殿とか壊すと困ったりする?」
「壊すんですかッ!?」
「いやせんけど」
「そ、そうですか」
困るのね。なぜわざわざ死の魔力を使って魂剥がしてくっつけるなんてことやってんだろと思ったけれど、ミネルヴァに限った話、もしかしたら回復属性の魔力を生産することが目的なのかな。傷ついた肉体を癒すエデンに注ぐ魔力のストックなのかな。
「では、受けますか?」
いつの間にか敬語になってるし、百面相してる姿が面白い。変わり身が早くていいキャラしてる。
『マリナ。頼む』
『……』
『マリナ?』
『私は神ではないですから、卑怯者を救ったりしません。船が沈まないように祈ればよろしいのでは?』
クロポを散々いじめた手前、卑怯者の誹りを受けるのは看過できないな。
「受ける」
「では、試験開始!」
試験が始まり、静まり返る観衆の中、アメージング・グレイスの詞を旋律に乗せて英語で歌い上げる。
「合格!実に素晴らしい歌だった。では楽譜を写すことができる羽を授ける」
「じゃあ試験終わりということで。ありがとうございました」
「えっ、あ、どういたしまして……ではこの辺で失礼します。ごきげんよう」
一応、試験を受けさせてもらった身なので礼をしたリアムに戸惑いながらも、クロポは止まり木へと戻っていった。
「では、この羽を受け取ってください。ミリアさん」
「突き放そうとしているあなたが、贈り物をする了見は」
「慰謝料」
「…………ありがとう」
贈り物とは言えないけど、受け取って貰えばミリアに何かを残せる。突き放した彼女に、覚えていてほしい。縋ってしまう、そのくらい苦しさを感じてる。
ずっと君のこと、忘れないから。きっと思い出を作った時間だけは忘れないでいてくれると思って、支えにさせてほしい。
酷く醜いが、それでも”ありがとう”と言って受け取ってくれるミリアと思い出を作れたことが自信になる。時にはそれほど弱ることもある人間が、素だから。
手を伸ばして指で梳かしたくなる、パーマでゆるくふわっとした鎖骨に触れそうなほど伸びたプラチナの強いシルバーブロンドの髪。
わずかに垂れ下がった月の眉は上品さと可愛さ、ぱっちりとした瞼の中でアイスブルーに輝く瞳に、口角が上がったときにやさしくなって特に人を惹きつける目。
ありふれて有り余るほどの魅力を感じさせないほどに、粗雑なようで相手を気遣った言葉も言えて、しゃべってるとみんなを明るく元気にしてくれる。
なによりも、彼女と話す日常は心地よかった……。
この2年でどれだけこんなに素敵な人を振り回したのだろうか。
ミリアのことを考えるほど、記憶が遡っていく。
だから軽く受けた婚約とそれを取り下げた無責任がとても際立つ。
「ッ……。ッ……」
涙が出るのに声を堪えて拭っている姿が可哀想だから同情しているのか、それほどに元から彼女を尊敬していたのかは、半々だと思いたい。でないとこちらだって潰れそう……泣いてしまいたい。
「そろそろ交流会の会場に向かいたい。ここで別れてもう一回、向こうで顔を合わせ直すのも気まずい。一緒に行く?」
「…………いく」
喋らなくても、一緒にいるだけで心がわずかに軽くなると互いに知っている。
一方的でも、それとも互いにつけた傷でも癒すことができる関係だった。
だけど今回、自分でつけた自分の傷は深すぎて癒せない。
ミリア・テラ・ノーフォークさん。
こんな酷く汚れた記憶に残っただろう男に、ありがとうって綺麗な思い出を残してくれたあなたに、ごめんなさいやありがとうが言えないくらいに、言葉を選べないほどの愛おしさが溢れてくる。
恋しい。
……だが、さびしい。
「ぼくは参加受付に行くよ」
「私は運営だから、ここまで」
「それじゃあ」
「またね」
「……」
別れは冷たく、木々の葉の音に溶けていく自然のように。哀れに-lamentabile-、決然と-risoluto-、消えいるように-perdendosi-, …………morendo.
ノクチュア新聞──……注意喚起
リアムとクロポのやりとりを見ていた一部の学徒が、クロポに武力行使を試みる事件が発生しました。攻撃を放った学徒たちはクロポの生み出した黒い風に吹かれてリヴァイブへと送られました。さらに、知の書スキルが没収され司書の再登録が必要となりました。アカデメイアには先王によるクロポの討伐記録がありますが、勝てどスキルが剥奪され一から司書をやり直すことになりました。また、日をまたいでクロポが復活するまで他の司書たちがグラウクス・ノエシスを受けられなくなりました。特に得るものもなかったとのことで、クロポ討伐はアカデメイアからの許諾がない限り禁忌行為となりますので注意しましょう。




