第2話 身代わりの花嫁
都の郊外に連なる丘の上。
吹き抜ける秋風が広大な草原を渡り、どこまでも澄み渡った高空には、白き雲がゆるやかに流れていた。丘の斜面には枯れ色を帯びた草が一面に広がり、そのはるか向こうには、整然とした都の壮大な街並みが一望できる。
幾重にも連なる屋根。その先には城壁が長く延び、遠くには宮城の屋根が秋の日差しを受けて淡く輝いていた。
明珠は革の手袋をはめた左腕を高く掲げ、右手の指を唇に添えた。短く鋭い口笛が、澄んだ秋空に響き渡る。
はるか上空を旋回していた鷹が、翼を傾けた。風を捉えながら大きく弧を描き、次第に高度を下げてくる。
「追風、おいで!」
明珠が左腕を前へ差し出すと、鷹は一度大きく旋回し、風を切って滑るように降下した。そして、広げた翼で巧みに勢いを殺し、彼女の腕へと舞い降りた。
「よく戻ったわね。いい子ね。ほら、褒美よ」
明珠は腰に提げた革袋から干し肉を取り出し、追風の嘴へと差し出した。追風がそれをついばむのを見届けると、脚に結ばれた細い革紐が緩んでいないか確かめ、羽の乱れをそっと整えた。
しばらくの間、追風が餌をついばむ様子を愛おしげに眺めていると、背後からあわただしい馬の足音とともに、自分を呼ぶ声が響いた。
「お嬢様――っ!」
振り返ると、侍女の碧珠が馬を降り、こちらへ駆け寄ってくるところだった。息を切らし、頬を赤くしている。
碧珠は馬に乗るのが得意ではない。普段はめったに馬に乗ろうとしない彼女が、わざわざ馬を駆ってここまで来たということは、よほど急ぎの用があるに違いなかった。
「どうしたの、碧珠、そんなに慌てて」
「すぐにお屋敷にお戻りください、旦那様がお呼びです」
「...父上が?」
明珠は眉をひそめた。
父である廷章とは、ここ長らく顔を合わせていない。最後に会ったのは、新年の宴の折だっただろうか。
「いったい何の用だというの?」
「それが……わたくしにもわかりませぬ。ただ、とにかく急いでお嬢様を連れてくるようにと申しつけられたのです。ですが……」
碧珠の声が、にわかに小さくなった。
「屋敷の者たちの噂では、雪蘭様が駆け落ちをなさったとか……」
「姉上が?」
明珠は思わず目を見開いた。
ますます訳がわからない。
正室の王芙蓉の意向もあって、嫡女である雪蘭とはほとんど関わることを許されず、その人となりをよく知っているわけではない。それでも、幼い頃から見かけてきた姉の姿を思い返す限り、駆け落ちなどするような人には思えなかった。
「……とにかく、ただ事ではなさそうね。わかったわ。すぐに戻りましょう」
明珠は左腕に留まる追風へと視線を戻した。
「追風、また後でね」
そう声をかけると、明珠は左腕を高く掲げた。
追風は翼を大きく広げ、ひと羽ばたきで彼女の腕を離れた。秋風に乗って空高く舞い上がり、明珠の頭上を一度旋回する。
その姿を見届けてから、明珠は傍らの木につないでいた愛馬の手綱を解いた。ひらりと鞍にまたがると、碧珠に声をかける。
「行くわよ!」
馬の腹を軽く蹴る。
愛馬はすぐさま駆け出し、明珠を乗せて都へと向かった。
***
高官や名門貴族の邸宅が立ち並ぶ都の一角に、葉家の屋敷はあった。
馬を走らせてきた明珠は、屋敷の裏門にたどり着くと、ひらりと馬から降りた。門を守っていた家人は、明珠の姿を認めるとすぐさま歩み寄り、その手から手綱を受け取った。
「明珠様、馬はわたくしがお預かりいたします。旦那様がお待ちです。広間にいらっしゃいますので、どうぞお急ぎください」
「ありがとう。お願いするわ」
明珠は愛馬を家人に任せると、急ぎ足で屋敷の奥へと向かった。歩きながら、乱れた胡服の襟元を整え、髪を手櫛でまとめ直す。
廊下ですれ違う家人たちは、明珠の姿を見ると一瞬不思議そうに目を向け、それから慌てて頭を下げた。本邸を訪れることなど、ほとんどなかった。顔を知らない者がいても不思議ではない。
明珠はそんな家人たちに小さく会釈を返しながら、父の待つ広間へと足を進めた。
「父上、お呼びと伺ってまいりました」
堂の中では、父の延章が重々しい椅子に腰掛け、苦渋に満ちた面持ちで控えていた。その隣には、正室の王芙蓉が座っている。
明珠の声に顔を上げた廷章は、娘の姿を認めると、わずかに目を細めた。値踏みするような視線を向けたあと、何かを確かめるように小さく頷く。
久しぶりに目にした父の顔は、ひどくやつれていた。その傍らに座る芙蓉も、いつもの隙のない優美な装いこそ崩していないものの、顔には深い疲労と焦燥の色が浮かんでいる。
――やはり、姉上が駆け落ちしたという噂は本当のようね。
明珠は二人の様子を見比べ、胸の内でそっと呟いた。
「ああ……明珠か。久しいな」
廷章はそう切り出したものの、その先の言葉に詰まるように、わずかに口ごもった。明珠もまた、何と答えればよいのかわからず、ただ父の顔を見つめていた。
最後に顔を合わせたのは、いつだっただろう。新年の集いで言葉を交わしたきりだったかもしれない。親子でありながら、二人の間には、すぐには埋められない隔たりがあった。
しばしの沈黙のあと、延章は意を決したように口を開いた。
「……明珠よ。雪蘭の代わりに、陸家へ嫁いでくれ」
明珠は、自分の耳を疑った。
――――は?今なんと言ったか。
「あの、父上。聞き間違いでなければ、雪蘭姉上の代わりに、わたしが嫁ぐとおっしゃったように聞こえたのですが」
「そうだ」
延章は短く頷いた。
「お前にとっても悪くない話だ。陸雲霄は北境の地で国境を守る将軍。容姿端麗で、文武にも秀でている。家柄も申し分ない。嫁ぎ先として、これ以上の相手はそういないだろう」
そこで一度言葉を切り、廷章は明珠を見据えた。
「――ただし、一つ条件がある」
その目が、冷たく光る。
「お前は明珠として嫁ぐのではない。雪蘭として陸家へ嫁ぐのだ」
その言葉を聞いた瞬間、明珠は頭を殴られたような衝撃を受け、その場に立ち尽くした。
―――雪蘭として嫁ぐ?
姉の代わりに嫁ぐだけではない。自分の名を捨て、姉になりすまして陸家へ入れというのか。
返答に窮する明珠を他所に、廷章は淡々と冷酷な言葉を重ねた。
「出立は二週間後だ。それまでに、芙蓉から礼儀作法を教わっておけ」
そう言い捨てて、廷章は重い腰掛けからゆっくりと立ち上がった。そして明珠の前まで歩み寄ると、声を低くして言った。
「よいか。お前が明珠であることは、決して誰にも知られてはならぬ」
その目には、先ほどまでのやつれた様子など微塵もなかった。
「万が一、このことが明るみに出れば、葉家は終わりだ。……そして、お前自身もどうなるか分かっているな」
明珠は喉の奥がひゅっと縮むのを感じた。
震える指を握りしめ、何度も頷く。
万が一このことが知られたら
――わたしの命はない。
こうして、明珠の一生に一度の婚姻の相手が決まったのである。




