第1話 花嫁の失踪
葉家の当主・廷章は、激しい焦燥に駆られていた。
北方の名門・陸家から納征の聘礼を受け取り、婚礼の日取りまで決まったというのに、肝心の娘・雪蘭が行方をくらましてしまったのだ。
婚姻の沙汰が持ち上がってからというもの、葉家の屋敷は祝いの準備に沸き返っていた。陸家から届けられた聘礼は、絹織物や装飾品、金銀の器に至るまで、どれも見事な品ばかりだった。
その一つ一つが陸家の家格と、この婚姻に寄せる期待の大きさを物語っていた。廷章はそれらを屋敷の一角に丁重に保管させ、目にするたびに誇らしさを覚えていたものだ。
陸家は北境の防衛を一手に担う軍門の名家であり、当主の陸雲霄は、若くして全軍を率いる猛将として知られている。
陛下の意向によって結ばれたこの縁談は、葉家にとっても願ってもない話だった。陸家との縁を結ぶことができれば、葉家の名声も、朝廷における立場も、さらに確かなものとなる。
それが、今やすべて水泡に帰そうとしていた。
「雪蘭はどこだ!」
廷章の怒声が堂に響き渡った。
「雪蘭様を総出でお探ししておりますが、いまだ足取りがつかめませぬ……!」
従者は床に額をすりつけ、全身を震わせながら平伏した。その惨めな姿を目にしても、廷章の怒りは鎮まるどころか、ますます燃え盛るようだった。
「役立たずが!」
廷章は傍らの茶盞をひっ掴むと、そのまま床へと叩きつけた。茶が飛び散り、白磁の破片が床に散乱する。家人の肩がびくりと跳ねた。
「いつから姿が見えぬのだ。最後に見た者は誰だ。屋敷の者は何をしていた!」
「そ、それが……昨夜までは、お部屋にいらしたと聞いております。今朝になって侍女が訪ねたところ、すでにお姿がなく……」
廷章はその報告を聞いて歯軋りした。
「もうよい。下がれ!」
家人が慌てて頭を下げると、入れ替わるように、別の家人が青ざめた顔で堂内へと駆け込んできた。
「旦那様、雪蘭様について、新たな報告がございます」
「申せ」
「雪蘭様のお部屋を改めましたところ、普段お使いの衣装や装身具の一部がなくなっておりました。また、身の回りの世話をしていた侍女の阿梅も、姿が見当たりませぬ」
「侍女までいないだと?」
「はい。それから、門番の話では、昨夜、若い男が一人、雪蘭様を迎えに参ったようでございます。雪蘭様は阿梅を伴い、その男とともに門を出られたとか。門番には、少し用向きがあるだけですぐに戻ると告げられたため、深くは問いたださなかったそうでございます」
「何だと?」
廷章の顔がみるみる険しくなった。
衣装や装身具を持ち出し、身近に仕える侍女を伴い、夜のうちに男と屋敷を出た。しかも、日が昇りきった今になっても、戻る気配すらない。
「ははっ、夜の散歩にでも出かけたのであろうさ」
廷章は顔を引きつらせたまま乾いた笑いを漏らした。
その場に控えていた家人たちは返す言葉もなく、ただ互いに青ざめた顔で見合わせ、主人に追従するように気まずい苦笑いを浮かべるばかりだった。その取り繕ったような光景を目にした途端、廷章の堪忍袋の緒が音を立ててプツリと切れた。
「たわけめが! 駆け落ち以外に、一体何があるというのだ!」
廷章の怒声に、家人たちは慌てて床に平伏した。堂内に、重苦しい沈黙が落ちる。
そもそも、なぜこのようなことになったのか。
雪蘭は葉家の嫡女として、何不自由なく育ててきたつもりだ。衣食住に不足はなく、望むものがあれば大抵のことは叶えてやった。婚姻についても、家のため、娘のためになる相手を選んだつもりである。
――それなのに、父親の顔に泥を塗るような真似をするとは!
廷章の胸に真っ先に湧き上がったのは、娘を案じる気持ちよりも、裏切られたという怒りだった。
何より、陸家との婚姻は陛下の御意によって結ばれたものだ。しかも、すでに婚礼の日取りまで決まっている。このまま婚礼を挙げられなければ、陛下のお怒りを招きかねない。陸家との縁も、葉家の名声も失われるばかりか、家の存続すら危うくなる。
「……下がれ。引き続き雪蘭を捜せ。屋敷に出入りした者、誰一人見落とすな。少しでも手掛かりがあれば、すぐに私へ知らせよ」
「はっ」
家人は深く頭を下げると、足早に堂から退出していった。
その姿を見届けると、廷章はひとり深く息を吐いた。しんと静まり返った広間には、割れた茶盞の破片と、床に虚しく広がった茶の染みだけが残されている。
――どうにかせねばならぬ。
だが、雪蘭の行方が知れぬ以上、打つ手がないのも事実だった。
廷章は堂の中を歩き回った。窓辺まで進んでは引き返し、案几の前で足を止めては、また歩き出す。頭の中では、いくつもの手立てが浮かんでは消えていった。
陸家に包み隠さず事情を話し、婚礼の延期を願い出るか。
いや、それは難しい。婚姻を先延ばしにすれば、陸家の不信を招くだけだろう。何より、陛下の御意による婚姻を、こちらの都合で延期したいなどと申し出られるわけがない。
ならば、雪蘭を何としても捜し出すしかない。しかし、相手の男と遠くへ逃げていたらどうする。二人がすでに夫婦同然の関係になっていたら、たとえ見つけ出したところで、以前と同じように嫁がせることはできまい。
考えを巡らせれば巡らせるほど、打てる手は狭まっていく。
そのとき、ふと廷章の足が止まった。
……明珠がいるではないか。
背格好は雪蘭とさほど変わらなかったはずだ。都を遠く離れた北境の辺境にいる陸家の者が、これから嫁ぐ娘の顔立ちなど細かく知っているはずもなかった。そもそも、陸家の人間と顔を合わせる機会など、一度もなかったのだ。
――陛下の御意に背くわけにはいかぬ。
雪蘭がいないのであれば、雪蘭として明珠を嫁がせればよい。
そう思い至った瞬間、先ほどまで出口のなかった状況に、ようやく一筋の道が見えた気がした。
そもそも、婚姻とは家と家との結びつきである。雪蘭がいなくなった以上、誰かがその穴を埋めねばならない。明珠ならば、きっとその役目を果たせる。
廷章は、先ほどまでの焦燥が嘘のように表情を落ち着かせた。
そして、遠くに控える家人へ命じた。
「誰か、明珠をここに呼びなさい」




