第3話 去りしときは雪花のごとく
雪蘭の捜索は、その後も続けられていた。葉家の者たちは都の内外に人を遣わし、密かに行方を追っていたものの、居場所を示す手がかりは一向に見つからなかった。
実の娘の身を案じる王芙蓉は、日に日に憔悴していった。食事も喉を通らず、夜もろくに眠れていないという。そのため、明珠の花嫁修業は、葉家に長年仕える年配の侍女・周が取り仕切ることになった。
長幼の礼に始まり、立ち居振る舞いや言葉遣い、さらには裁縫に至るまで、周の指導は多岐にわたり、朝から晩までみっちりと続いた。これまで基本的な学問しか学んでこなかった明珠にとって、どれも容易なことではない。まして、雪蘭が長い年月をかけて身につけてきた気品や作法を、わずか二週間で完璧に習得するなど、到底不可能だった。それを悟るまでに、さほど時間はかからなかった。
――これぞ、どこぞの偉人が言っていた「知っていることは知っているとし、知らないことは知らないと認める」ということだな。
明珠はまた一つ、賢くなった気がした。
***
「もう嫌になっちゃう!あの鬼婆め、やってらんないわね」
周の厳しい指導から逃げ出した明珠は、都の郊外にひっそり佇む墓地を訪れていた。そこは、明珠の母が眠る場所だった。母は明珠が六歳の頃に病によって亡くなった。
「――母様……」
吐き出した白い息が、凍てつく空気の中へ淡く消えていく。明珠は墓前にしゃがみ込み、墓標にうっすらと積もった雪を手で払った。
「私、遠くへ嫁ぐことになったわ。これからは、もう簡単にはここへ来られなくなるわね」
雪を払い終えると、持ってきた干し杏をそっと供えた。生前、母が好んで食べていたものだった。それから香を焚き、静かに手を合わせる。最後に、携えてきた冥銭に火を灯した。黄金色の炎が黄紙を舐め、やがて儚い灰へと変えていく。その揺らめく炎を見つめながら、明珠は小さく笑った。
「でも、大丈夫よ。私、北境へ行っても、ちゃんとやっていけるから……たぶんね」
自分で言っておきながら、明珠は苦笑した。
北境がどんな場所なのか、詳しくは知らない。都よりはるかに寒く、冬になれば雪に閉ざされる土地だということくらいだ。そこで暮らす人々のことも、これから夫になる男のことも、何一つ知らなかった。
そんな男の妻として、そして、雪蘭として、これから先の人生を生きていく。考えてみれば、随分と途方もない話である。
明珠はしばらく黙って墓標を見つめた。
――妻とは、いったい何なのだろう。
幼い頃に見てきた母の姿は、決して幸せそうではなかった。
母は父の寵愛を得られず、正室である王芙蓉からも疎まれていた。父は母子を本邸から遠ざけ、葉家の敷地の片隅にある小さな別邸で暮らさせた。母がそこで暮らしを支えるためにどれほど苦労しても、本邸から十分な助けが差し伸べられることはなかった。
身ごもり、子を産んだというのに、母は最後まで父に顧みられることなく、亡くなった。母の生涯はいったい何だったのだろう。
明珠はゆっくりと首を振った。
――夫の情や助けなど、当てにしてはいけないのだ。
自分の幸せは自分で掴まなければ。
「――俺も、手を合わせさせてくれ」
振り返ると、馬を引いた方凌が立っていた。
彼は葉家の馬丁であり、人の多い葉家の中で、幼い頃から明珠と苦楽を共にしてきた。今日は侍女の碧珠とともに、彼女の外出に付き添っていたのだった。
「方凌……」
「勝手についてきて悪かったな」
「別にいいわ。あなたが母様に手を合わせてくれるなら、きっと喜ぶもの」
明珠は手元に残っていた冥銭を方凌に渡した。方凌はそれを受け取ると、炎の中へ静かにくべた。しばらく目を閉じて手を合わせ、故人へ祈りを捧げる。やがて目を開いた方凌は、明珠をまっすぐに見た。
「俺も、北境へ行く」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に、明珠は目を見張った。
「本気で言っているの……?北境はここよりも遥かに過酷な土地よ。あなたまで、わざわざ私に付き合って来る必要はないわ……」
方凌は困ったように肩をすくめた。けれど、その目には決して揺らぐことのない覚悟が宿っていた。
「心配するな。もとより俺の居場所は都にはないし、身寄りもない。それに、北境には葉家が管理する大きな軍馬場もあると聞いている。婚礼のあと、軍馬の世話をする者も何人か北境へ送るそうだ。俺もその一人に加えてもらうつもりだ」
「……そうなの?」
「ああ。俺の夢が『天下随一の馬丁頭』になることだって、知っているだろ? 北境には腕利きの馬丁がたくさんいると聞いたんでね。あちらで腕を磨いてくるのさ」
「ふふ。確かにあなた、ずっと言っていたものね。馬丁頭になるんだって」
「夢は大きいほうがいいだろ」
明珠は笑った。
幼い頃から、方凌はいつもそばにいた。何かあれば馬を連れてきてくれた。落馬して怪我をしたときには、誰よりも先に駆けつけてくれた。母を亡くしてからも、葉家の中で肩身の狭い思いをする明珠に、変わらず接してくれた。
だからこそ――。
「あなたが一緒に行ってくれるなら、私にとってこれ以上心強いことはないわ」
何気なく口にした言葉に、方凌は一瞬だけ黙った。
けれど、すぐにいつもの調子で答えた。
「任せろ。俺は馬のことなら役に立つ」
「ええ。そこだけは昔から頼りにしてるわ」
「そこだけ、ってなんだよ」
方凌が苦笑する。
明珠も笑った。ほんの少しだけ、胸の奥にあった不安が軽くなった。
「それで、都を発つのはいつなんだ?」
「あと数日よ。これ以上遅くなると、北へ向かう道の峠に雪が積もって、通行が難しくなるもの。婚礼の日取りにも間に合わなくなってしまうわ」
方凌は深く頷き、燃え残る冥銭を炎の中へと押し入れた。
「準備のほうは、もう進んでいるのか?」
「まあね。ちょっと少しばかり事情があるけど....一応、準備は進めているわ」
―――雪蘭として嫁ぐための準備とか。
明珠は心の中で付け加えた。
それから、ふと視線を横へ向ける。そこには、墓参りの間も静かに待っていた愛馬の姿があった。明珠は近づき、その首筋をそっと撫でる。
「……でも、この子は連れていけないわね」
方凌も馬に目を向けた。
「そうだな。都育ちの馬だ。北境の冬は厳しすぎる」
「ええ……」
明珠は栗毛の首筋に頬を寄せた。
「この子には、ここで元気に暮らしてもらわなくちゃ……」
馬が低く鼻を鳴らす。
明珠はその首を何度も撫でた。それから、少し離れたところに立っていた碧珠へ顔を向ける。
「碧珠、この子のことをお願いね。私がいなくなっても、どうか健やかに暮らせるよう、しっかり世話をしてちょうだい」
返事がない。
「碧珠?」
振り返ると、碧珠は両手で口元を覆っていた。大粒の涙が、頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちている。
「ううっ……お嬢様……!愛馬を残していかれるだけでもお寂しいでしょうに……まさかわたくしまで、この都に置いていくおつもりですか……!そんなの、あまりにも冷とうございます!」
もはや堪えきれなくなったのか、碧珠は明珠のもとへ駆け寄り、その裾にすがりついた。わんわんと声を上げて泣きじゃくる。
「わたくしも、お嬢様と一緒に北境へ参りますわっ! 亡くなられた奥様から、最期に『明珠を頼む』と、この両手でしっかりと託されましたもの……! 約束を違えることなど、わたくしにはできませんっ!」
碧珠の言葉に、明珠の胸にも熱いものがこみ上げた。明珠は冷たい風にさらされた碧珠を、しっかりと抱き寄せる。
「……ありがとう、碧珠。あなたがいてくれたら、私もどんな果てしない荒野でも生きていける気がするわ」
明珠が笑う。碧珠は涙を拭いながら、力強く頷いた。方凌は少し離れたところから、そんな二人を眺めていた。
やがて、空から雪が舞い始めた。
こうして、明珠は母の眠る都を後にし、雪が花のごとく舞い落ちる日に北境へと旅立つことになった。




