第六節 ――俺はお前のご主人様じゃない
ノエルの隣に腰を下ろすと、石造りの長椅子は思っていたよりも冷たかった。
夕暮れの庭園には、噴水の水音が絶え間なく響いている。西へ傾いた陽射しが白い花々を淡い橙色に染め、手入れの行き届いた生垣の向こうでは、小鳥たちがねぐらへ帰る支度を始めていた。
俺たちは、互いの間に少しだけ距離を空けて座っていた。
前世では、こんな距離を気にしたことなどなかった。あいつは隙あらば俺にくっついてきたし、俺だって、それを嫌がった覚えはない。むしろ、仕事で疲れて帰ったときなどは、あいつが隣にいるだけで不思議と気持ちが落ち着いたものだ。
ところが、今はどうだ。
隣に座っているだけなのに、妙に落ち着かない。
白銀の髪が風に揺れれば、つい目で追ってしまう。伏せられた長い睫毛や、夕陽を受けて薄く色づいた頬にも、いちいち意識が向いてしまう。
……いや、待て。
ただ隣に男が座っているだけだろうが。
騎士団の詰所では、むさ苦しい男たちと毎日のように顔を突き合わせている。訓練のあとは同じ食堂で飯を食うし、遠征先では同じ部屋で寝ることだってある。それなのに、どうしてこいつが隣にいるだけで、こんなにも妙な気分になるんだ。
やっぱり顔か。
顔がよすぎるのが悪いのか。
もしそうなら、伯爵家には美貌を公共の場へ持ち出す際の規制を検討していただきたい。
……何を考えているんだ、俺は。
「……ご主人様?」
ノエルが不思議そうにこちらを見た。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもねえよ。それより、さっきの話なんだが……」
俺は軽く咳払いをして、膝の上で手を組んだ。
「お前、これから俺のことを知りたいって言っただろ」
「はい。今のロイ様が、どんな人生を歩んでこられたのか、もっと知りたいです」
「なら、俺のほうからも話しておきたいことがある。前世の俺たちについてだ」
ノエルは姿勢を正した。
いつものように目を輝かせて命令を待つのではなく、俺が何を話そうとしているのか、静かに耳を傾けている。
先ほどまで、こいつは自分の気持ちを話してくれた。四年間も俺を探していたことや、再会できないかもしれないと不安だったこと、そして、男になった今の自分を嫌われるのではないかと恐れていたことまで。
だったら、今度は俺の番だろう。
「俺はな、前世でのお前との関係が嫌だったわけじゃないんだ。お前が俺をご主人様と呼ぶことも、命令されて嬉しそうにしてるところも、別に嫌いじゃなかった」
「……はい」
「むしろ、俺も楽しんでた。お前が嬉しそうにしてると、こっちまで嬉しくなったしな」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。
前世の俺は、あいつを喜ばせるのが好きだった。
命令してほしいとねだられれば、それに応じることもあったし、あいつが満足そうに笑ってくれるなら、それで自分も幸せだった。もちろん、互いに嫌なことは断れる関係だったし、無理をしないという約束だって守っていたつもりである。
ただ、あいつの笑顔を見ると、つい甘くなってしまうところがあったのも事実だった。
何しろ、靴下を片づけろと言っただけで大喜びする女である。
普通なら面倒くさがるような家事まで、俺から命令されたというだけで嬉々としてこなすのだから、こちらとしても何を頼めばいいのか迷ってしまう。
もっとも、俺が調子に乗って冷蔵庫のプリンを食べたときには、容赦なく慰謝料を請求されたわけだが。
……あれは今でも納得していない。
いや、俺が悪かったのは確かなんだけどな。
「……懐かしいな」
思わず呟くと、ノエルが微笑んだ。
「はい。わたくしも、あの頃の毎日が大好きでした」
その返事に、俺も少しだけ口元を緩めた。
俺たちの関係は、他人から見ればずいぶん奇妙だったと思う。だが、二人で過ごした時間が幸福だったことまで、今さら否定するつもりはなかった。
だからこそ、心に引っかかっていることがある。
「……でもな、ノエル。俺は、あの夜のことを忘れてねえんだよ」
ノエルの表情が、わずかに変わった。
「……最後の夜、ですか?」
「ああ」
俺は噴水へ視線を向けた。
水面には夕陽が映り、小さく揺れるたびに赤い光が砕けている。その景色を眺めているうちに、前世で最後に過ごした部屋のことが、妙にはっきりと思い出された。
窓の外で降っていた雨も、ベッド脇の時計に浮かんでいた数字も覚えている。あいつが嬉しそうに笑っていたことも、途中から身体の具合がおかしくなり、何とか助けを呼ぼうとしたことも。
そして最後に、あいつがこちらへ伸ばしてきた手のことも。
「何が原因だったのか、今でもわからねえ。俺たちが無茶をしたせいなのか、それとも何か別の理由があったのか、確かめようもねえけど……二人揃って死んだことだけは、どうやら間違いねえんだよな」
俺は膝の上で拳を握った。
「それで、ずっと気になってたんだ。あのとき、お前は本当に大丈夫だったのかって」
「……ご主人様」
「お前はいつも幸せだって言ってたし、最後の夜だってそうだった。だから俺も、お前が幸せならそれでいいって思ってたんだよ。でも、最後に聞いたお前の声は、いつもと違ってた」
あのときの不安そうな声を思い出すと、今でも胸の奥が落ち着かなくなる。
異変に気づいてから意識が途切れるまで、いったいどれほどの時間があったのだろう。水を飲ませるなり、助けを呼ぶなり、何かできることはあったのではないか。そんなことを何度も考えたが、死因さえわからない以上、答えが出るはずもなかった。
俺自身もまともに動けなかったのだから、何もできなかったことを後悔しても仕方がないのかもしれない。
だが、それとは別に、ずっと気になっていたことがある。
「……俺さ、お前が喜んでる顔を見るのが好きだったんだよ。だから、お前が幸せだって言えば、それで安心してた。でも、本当は何を考えてたのか、何か我慢してなかったのかって、ちゃんと聞いたことがあったかなと思ってさ」
言い終えると、ノエルはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……わたくし、前世では本当に幸せでしたよ」
そう言って微笑んだ顔には、いつものような浮かれた様子はなかった。
「ご主人様と過ごした毎日は、今でも大切な思い出です。何かを我慢して、無理に幸せなふりをしていたわけではございません」
「……そうか」
「はい。でも……最後の夜だけは、少し怖かったです」
俺は顔を上げた。
ノエルは、自分の手元を見つめながら続けた。
「何が起きているのかわからなくて、急に身体の力が抜けてしまって。ご主人様のお声が遠くなっていくのが、とても怖かったんです」
「……ああ」
「ですから、最後にご主人様の手を探しました」
その言葉を聞いた瞬間、あの夜の光景が鮮明によみがえった。
こちらへ伸ばされた手。
震えていた指先。
そして、それに触れようとしても、思うように動かなかった自分の腕。
「……お前、覚えてるのか」
「はい。ご主人様が手を伸ばしてくださったことも、ちゃんと覚えています」
ノエルは、少しだけ微笑んだ。
「それに、あのとき、ご主人様も怖かったのでしょう?」
「……俺?」
「はい」
青い瞳が、まっすぐに俺を見つめた。
「ご主人様は、いつもわたくしを安心させようとしてくださいます。でも、怖いときは怖いとおっしゃってくださっていいのですよ。わたくしだって、ご主人様のお役に立ちたいのですから」
俺は何とも言えない気分になった。
前世のあいつは、俺の顔色を窺いながら命令をねだっていたくせに、今では俺の心配までしてくる。
しかも、こういうときに限って、妙に大人びた顔をするのだ。
「……お前なあ」
「はい?」
「そういうことを言うなら、もう少し普段からまともに振る舞えよ」
「まあ! では、今後はご主人様を安心させられる、立派なメスブタを目指します!」
「そこでメスブタに戻るんじゃねえ!」
「はいっ」
反射的に怒鳴ってしまった。
ノエルは嬉しそうに頬を染めたが、俺が呆れた顔をしていると、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「……申し訳ありません。つい、嬉しくなってしまって」
「ったく……」
俺は溜息をついた。
しかし、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、こんな馬鹿馬鹿しいやり取りを再び交わせることに、少し安心している自分がいた。
俺たちは、もう一度会えたのだ。
前世の死について、今すぐ答えを出すことはできない。あの夜に何が起きたのかもわからないし、二人の関係に何か問題があったと決めつけるつもりもない。
ただ、今度はもう少し、お互いの話を聞けるようになりたい。
ご主人様だから大丈夫。
メスブタだから喜んでくれる。
そんなふうに、わかったつもりにならずに。
「……ノエル」
「はい」
俺は隣に座る青年へ身体を向けた。
「俺は、お前のご主人様じゃない」
ノエルの肩が、ぴくりと動いた。
その反応を見て、俺は慌てて続けた。
「いや、違う。前世の関係を全部否定したいわけじゃねえんだ。お前が俺をご主人様と呼びたいなら、その気持ちまで否定するつもりはねえよ。ただ、今の俺たちは、昔の関係を続けるためだけに生きてるわけじゃねえだろ」
ノエルは黙って俺を見つめていた。
「お前には、お前の人生がある」
「……はい」
「俺のために何かを捨てるな。伯爵家のことも、家族のことも、お前が今まで大切にしてきたものもだ」
「はい」
「俺と一緒にいるためだけに騎士団へ入るとか、伯爵家の仕事を放り出すとか、そういう馬鹿なこともするなよ」
「……はい」
素直な返事だった。
ノエルは、膝の上で重ねていた手を解き、ゆっくりと指先を開いた。先ほどのように何かを堪えている様子はなく、俺の言葉を一つずつ確かめるように頷いている。
「……わたくしも、今の人生は大切です」
やがて、静かな声が返ってきた。
「父上や母上のことも、伯爵家の務めも、これまで学んできたことも、大切にしたいと思っております。ですから、ロイ様のおっしゃることは、よくわかります」
「……ああ」
「でも、ご主人様のおそばにいたいという気持ちも、わたくし自身が望んでいることなのです」
ノエルは、少しだけ首を傾げた。
「その気持ちは、持っていてもよろしいでしょうか?」
俺は返事に詰まった。
……くそっ。
そんなことを聞くなよ。
お前が誰を好きになるかなんて、俺に許可を求めるようなことじゃないだろうが。
そう言ってやればいい。
それだけで済む話のはずだった。
だが、いざ口を開こうとすると、どうしても別の言葉が先に出てきそうになる。
俺だって、もう少し一緒にいたい。
前世のことだけでなく、今のノエルについても知りたい。
伯爵家で何を学んできたのか、どんなものが好きなのか、騎士になった俺をどう思っているのか。そんなことを聞きながら、こいつが笑っているところを、もう少し見ていたかった。
「……そのうえで」
俺は後頭部を掻いた。
「お前が、それでも俺と一緒にいたいっていうなら……」
言いかけて、口ごもった。
おい、待て。
俺は今、何を言おうとしている?
前世で親しかった相手なのだから、再会できて嬉しいのは当然だ。男になったからといって、いきなり縁を切る必要もないし、これからも仲良くしたいと思うこと自体はおかしくない。
そこまではいい。
だが、どうしてだろう。
俺の頭の中では、いつの間にか別の光景が浮かんでいた。
今のノエルが、誰かと楽しそうに笑っている。
伯爵家の御曹司なのだから、いずれ縁談の一つや二つは持ち上がるだろう。これほどの美貌と家柄を備えているなら、相手に困ることもないはずだ。
そのとき、こいつは俺の前からいなくなるのだろうか。
別の誰かを大切に思い、俺に向けていた笑顔を、その相手に向けるようになるのだろうか。
……なんだ、それは。
想像しただけなのに、ちっとも面白くないぞ。
「……ご主人様?」
ノエルが、そっと顔を近づけてきた。
白銀の髪が肩から滑り、澄んだ青い瞳が俺を覗き込む。その距離は、少し身を乗り出せば額が触れそうなほど近かった。
近い。
いや、別に抱きつかれたわけでも、口づけを迫られたわけでもない。
ただ、こちらの顔を覗き込まれているだけだ。
なのに、どうしてこうも落ち着かないんだ。
そもそも、こいつは自分の顔がどれほど凶悪な破壊力を持っているのか、まったく理解していないらしい。
そんな目で見つめるな。
睫毛が長いんだよ。
頬が綺麗すぎるんだよ。
なんで男なのに、そんなにかわいいんだよ!
「……一緒にいても、よろしいのですか?」
ノエルは静かに尋ねた。
その声には、いつものような甘ったるいおねだりとは違う、慎重な響きがあった。
俺の返事を、ちゃんと待っている。
そのことに気づいた途端、さっきまで頭の中を占めていたくだらない動揺が、少しだけ静まった。
「……少しずつならな」
俺はようやく答えた。
「前世みたいに、いきなり全部元どおりってわけにはいかねえけど……まずは、今のお互いを知るところから始めようぜ」
ノエルは、しばらく俺を見つめていた。
それから、その顔がぱっと輝いた。
「では、ご主人様!」
「戻るな! 話を聞け!」
「はいっ」
「だから、今のは昔の主従関係を再開するって意味じゃねえんだよ!」
「もちろん承知しております!」
「本当か!?」
「はい! これからは、今のご主人様を知るために、毎日精一杯お仕えいたします!」
「承知してねえじゃねえか!!」
ノエルは嬉しそうに笑った。
さっきまであれほど真剣に話していたというのに、ほんの数秒でいつもの調子である。
しかも、これまでとは少し違っていた。
前世の関係をそのまま再開するつもりはないと言っているのに、こいつはどうやら、新しい関係の中へ主従要素を可能な限り持ち込む方向で考え始めているらしい。
……おい。
交渉の目的が変わってねえぞ。
「……いいか、ノエル。先に言っておくが、条件があるからな」
「はいっ! 何なりとお申しつけください!」
「だから、その返事の仕方をやめろ!」
「はいっ」
「……お前、わざとやってるだろ」
「少しだけ」
「正直に言えば許されると思うなよ!」
ノエルは楽しそうに笑ったが、俺が真剣な顔をすると、すぐに姿勢を正した。
ここで曖昧にしておくと、こいつはとんでもない方向へ話を進めかねない。何しろ、前世の主従生活を再開するために、四年間もかけて計画書を作成した男である。
俺は、その行動力を誰よりも警戒していた。
「まず、公務中はご主人様って呼ぶな。俺は王女殿下の護衛騎士なんだから、仕事中にあんな騒ぎを起こされたら困る」
「承知いたしました。公務中はロイ様とお呼びいたします」
「それから、俺が断ったことを無理に通そうとするな。お前が伯爵家の跡取りだからって、金や権力でどうにかしようとするのも禁止だ」
「……はい。先ほどの契約書については、取り下げるよう手配いたします」
ノエルは、今度こそ真面目な顔で頷いた。
「ご主人様のお仕事を変えることなく、わたくしの望む生活を実現できればと思っておりました。でも、ご主人様が望んでおられないのでしたら、あの契約書に意味はございませんものね」
「……ああ。わかってくれたなら助かる」
「もちろんです。わたくしがご主人様をお慕いしていることと、ご主人様がわたくしのために何かを犠牲になさることは、別のお話ですから」
その返事に、俺は少しだけ驚いた。
……へえ。
ちゃんとわかってるじゃねえか。
さっきまで雇用契約書を用意して、俺を伯爵家へ引き抜こうとしていた男とは思えないほど、まともなことを言っている。
やっぱりこいつ、伯爵家の御曹司としては相当に優秀なんだな。
「……ちなみに」
ノエルが、少し考え込むように首を傾げた。
「契約書を取り下げたあと、個人的なお誘いを差し上げることは問題ございませんか?」
「……まあ、普通に誘うだけなら構わねえよ」
「では、お茶会なども?」
「いいぞ」
「お食事も?」
「予定が合えばな」
「……お泊まりは?」
「いきなり飛躍するな!!」
「ですが、ご主人様。お泊まりというのは、ごく一般的な親睦の機会でございますでしょう?」
「一般的な親睦の機会を、そんな嬉しそうな顔で提案するな!」
「……では、客間をご用意するという意味でしたら?」
「そういう話をしてるんじゃねえ!」
ノエルは少し残念そうに眉を下げた。
……おい。
待て。
今、俺は何を想像した?
こいつは客間を用意すると言っているだけだろうが。
伯爵家の屋敷なら客間の一つや二つ、当然あるだろう。泊まりがけの客人を招くことだって、珍しい話ではないはずだ。
なのに、どうして俺は一瞬、別の意味に受け取ってしまったんだ。
……くそっ。
これでは、俺のほうがよほど不健全ではないか。
「……ご主人様?」
「なんでもねえ!」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「顔がうるさいんだよ!」
「まあっ」
「だから、喜ぶな!」
ノエルは口元を押さえ、楽しそうに笑っていた。
俺は額を押さえた。
どうやら、こいつの性癖を矯正するどころか、俺のほうが余計なことを考えるようになってしまったらしい。
実に困った話である。
もっとも、今さら前世の関係そのものをなかったことにするつもりもなかった。
こいつがご主人様と呼ぶことを好きなのも、命令されることを喜ぶのも、俺は昔から知っている。別に、それ自体が悪いわけではないのだ。
ただ、今の俺たちには、今の俺たちなりの約束が必要なのだろう。
「……最後に、一番大事なことだ」
俺がそう言うと、ノエルはすぐに笑うのをやめた。
「前世の関係に戻るかどうかは、今すぐ決めねえ。まずは、今世の俺とお前として、もう一度知り合うところから始めよう」
ノエルは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……わかりました」
「前世のお前を知ってるからって、今のお前のことも全部わかってるつもりにはなりたくねえんだ。それに、お前だって、今の俺を知りたいって言ってくれただろ」
「はい」
ノエルは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「わたくしも、今のロイ様のことを、もっと知りたいです。騎士になられるまでのことも、王女殿下にお仕えするようになった経緯も、どんな毎日を過ごしていらっしゃるのかも……たくさん教えてくださいませ」
「おう。俺も、お前のことを聞かせてもらうからな」
「はい!」
ノエルは嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見ているうちに、俺もようやく肩の力を抜くことができた。
前世のことを忘れる必要はないし、かといって、今世の人生を投げ出す必要もない。互いに大切にしているものを守りながら、少しずつ新しい関係を考えていけばいいのだ。
……うん。
実に健全な結論ではないか。
ところが、そこでノエルが小さく手を挙げた。
「では、ご主人様。ひとつだけ、追加でお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……なんだよ」
「公務時間外でしたら、ご主人様とお呼びしても?」
俺は少し考えた。
確かに、公務中に呼ぶなとは言った。
それに、さっきノエルが俺をロイ様と呼んだとき、妙に寂しくなったのも事実だ。
だったら、二人きりのときくらい、好きに呼ばせても構わないだろう。
「……まあ、呼ぶだけなら」
「ありがとうございます!」
「ただし、人前では状況を考えろよ。それに、俺がやめろって言ったら、ちゃんとやめろ」
「もちろんです!」
ノエルは、花が咲いたように微笑んだ。
「では、叱っていただくのも?」
「場合による!」
「お仕置きは?」
「調子に乗るな!」
「はいっ」
…………。
俺は天を仰いだ。
駄目だ。
やっぱり、こいつはこいつだった。
ただし、さっきまでとは少し違っている。
ノエルは一度、嬉しそうに目を細めたあと、すぐに姿勢を正した。
「では、お仕置きについては、ロイ様のお気持ちが決まるまで保留にいたします」
「……おう」
「新生活計画書にも、そのように追記しておきますね」
「……おう?」
待て。
今、なんて言った?
「……ノエル」
「はい?」
「お前、あの計画書、まだ使うつもりなのか?」
「もちろんです!」
ノエルは誇らしげに胸を張った。
「ただし、内容は大幅に見直します。今度はご主人様のお考えも伺いながら、二人で新しい生活について考えていきたいと思っておりますので!」
…………。
俺はしばらく、その顔を見つめた。
ああ。
そうか。
こいつは、ちゃんと理解してくれたんだな。
俺が断ったことを勝手に進めるのではなく、相談して決める。前世の関係を当然のように再開するのではなく、今の互いを知るところから始める。
そこまでは、確かに成長している。
だが。
計画書そのものを廃止するという発想は、ないらしい。
……まあ、いいか。
あれだけ立派な装丁を施した冊子を、簡単に捨てろというのも酷な話だろう。
何しろ、四年間もかけて作ったものなのだから。
ただし、表紙の『ご主人様との素敵な新生活計画』という題名だけは、何とかしてもらいたい。
万が一、あれを騎士団の同僚に見られでもしたら、今度こそ俺の社会的な尊厳が完全に消滅する。
「……とにかく、お互いの意思を尊重すること。いいな?」
「はい。もちろんでございます」
ノエルは、真剣な顔で頷いた。
その返事には、もう先ほどまでの不安はなかった。
俺は、少しだけ笑った。
「……それにしても、お前、本当にいろいろ勉強したんだな」
「はい?」
「伯爵家の仕事もそうだし、契約書も自分で用意してたろ。前世じゃ、家計簿の数字が合わなくなって俺に泣きついてたくせによ」
「まあ! あの頃のことは、もう忘れてくださいませ!」
「忘れられるか。お前、計算が合わないって騒いでたくせに、よく見たら自分で二回も同じ買い物を記入してたんだぞ」
「それは……!」
ノエルは、珍しく言葉に詰まった。
そして、少し頬を膨らませた。
「今のわたくしは、もうそんな間違いはいたしません!」
「へえ。そりゃ立派になったな」
「もちろんです! 今世では領地経営や外交儀礼、古典文学なども学びましたし、乗馬や剣術も嗜んでおります!」
「剣術も?」
「はい。あまり得意ではありませんが、基礎的なことは一通り教わりました」
ノエルは少し照れくさそうに微笑んだ。
「もし機会がございましたら、ぜひロイ様にもご指導いただきたいです」
「……まあ、時間が合えば見てやってもいいぞ」
「本当ですか!?」
「ああ。基礎くらいならな」
ノエルの瞳が輝いた。
……しまった。
嫌な予感がする。
「では、ご主人様! ぜひ、厳しくご指導ください! わたくし、どのような特訓にも耐えてみせます!」
「普通に剣の稽古をするだけだからな!?」
「はいっ」
「その返事、絶対に別のこと考えてるだろ!」
「まあ、ご主人様ったら。剣の稽古以外に、何を想像なさったのですか?」
「俺のせいにするなあああ!!」
庭園に俺の怒声が響いた。
噴水のそばに止まっていた小鳥が、驚いたように飛び立っていく。
その羽音を聞きながら、俺はとうとう笑ってしまった。
「……くくっ」
ノエルが目を丸くする。
「ご主人様?」
「いや……本当に、お前ってやつは……」
笑いを堪えようとしたが、どうにも無理だった。
さっきまで、あんなに深刻な話をしていたというのに、今では剣術の稽古をめぐって、前世と変わらない馬鹿馬鹿しい言い争いをしている。
ただ、以前とは少し違う。
ノエルは俺の言葉を聞き、自分の考えを伝え、断られたことについてはきちんと引いてくれた。
俺も、こいつが何を考えているのかを知ろうとしている。
だから、こうして笑っていられるのだろう。
「……ふふっ」
ノエルも、つられるように笑い始めた。
「なんだよ」
「いいえ。ご主人様が、楽しそうでいらっしゃるので」
「……そう見えるか?」
「はい。とても」
ノエルは、俺の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「わたくし、ご主人様の笑顔が大好きです」
「……っ」
俺は思わず顔を背けた。
……くそ。
だから、そういうことを平然と言うな。
さっきまでメスブタだの調教だのと騒いでいたくせに、どうして急にそんな真っ直ぐなことを言えるんだ。
しかも、今のこいつは、とんでもない美青年なのである。
白銀の髪が夕暮れの光を受けて淡く輝き、長い睫毛の奥で澄んだ青い瞳が柔らかく細められている。先ほどまで笑っていたせいか、頬にはほんのりと赤みが残り、形のよい唇にはまだ微笑みが浮かんでいた。
……いや、待て。
なんで俺は、こんなに細かく観察してるんだ。
相手は男だぞ。
しかも、二十二歳の立派な成人男性で、伯爵家の跡取りだぞ。
そもそも、男を恋愛対象として考えたことなんて、一度もなかったはずだろうが。
なのに、こうして隣で笑っているノエルを見ると、妙に胸の奥が落ち着かなくなる。
しかも、困ったことに。
その落ち着かなさが、嫌ではないのだ。
「……ご主人様?」
ノエルが、また少しだけ顔を近づけてきた。
「先ほどから、どうかなさいましたか?」
「いや、その……」
俺は言葉に詰まった。
近い。
顔が近い。
しかも、こいつは俺を見つめるとき、必ず少しだけ首を傾げるのである。
前世でもそうだった。
何かをお願いするときも、俺の返事を待つときも、いつもこうして顔を覗き込んできた。
その仕草を見るたびに、俺はつい頭を撫でてやりたくなったものだ。
今も、同じだった。
……いや。
少し違う。
俺は膝の上に置いていた手を持ち上げ、ノエルの頭へ伸ばしかけた。
白銀の髪が、すぐそこにある。
前世では、よくそうしていた。あいつが嬉しそうにしているときも、少し落ち込んでいるときも、俺は何の気なしに頭を撫でてやった。すると、あいつは決まって目を細め、安心したように笑っていたものだ。
今だって、そうしてやれば喜ぶだろう。
だが、俺は途中で手を止めた。
先ほど、俺たちは約束したばかりだ。
前世の関係をそのまま持ち込むのではなく、今世の二人として、もう一度知り合うことから始めようと。
だったら、俺自身もその約束を守らなければならない。
それに。
今、俺はどうして手を伸ばそうとしたのだろう。
こいつが喜ぶからか。
前世でも、そうしていたからか。
それとも。
……俺自身が、触れてみたいと思ったからか。
そこまで考えて、急に手の置き場がわからなくなった。
目の前にいる青年は、俺が手を伸ばしかけたことに気づいているらしく、不思議そうにこちらを見つめている。
……くそっ。
今さら何を緊張しているんだ。
前世では、もっと親密な関係だったくせに。
それなのに、今はたったこれだけのことが、ひどく特別な行為に思えてしまう。
「……ノエル」
「はい?」
俺は一度だけ息を整えた。
「……触ってもいいか?」
ノエルが、きょとんとした。
「……え?」
「いや、だから……その、頭を撫でてもいいかって聞いてんだよ」
自分で言っていて、妙に恥ずかしくなった。
なんだ、これは。
成人した男が、別の成人男性の頭を撫でる許可を求めている。
しかも、相手は前世であれほど親しかった人間だ。
普通なら、こんなに緊張する必要はないはずだろう。
なのに、返事を待つわずかな時間が、やけに長く感じられた。
ノエルは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと頬を赤らめた。
いつものように、命令をもらって嬉しそうにしている顔とは違った。
少し驚いていて、どこか照れくさそうで、それでも嬉しさを隠しきれないような、そんな表情だった。
「……はい」
小さな返事だった。
俺は、そっと手を伸ばした。
白銀の髪に、指先が触れる。
思っていたより、ずっと柔らかかった。
絹糸のように滑らかな髪が指の間を流れ、夕暮れの光を受けて淡く輝いている。俺がゆっくりと頭を撫でると、ノエルは一度だけ小さく瞬きをしてから目を閉じ、ほんの少しだけ俺の手に頭を預けてきた。
その仕草を見た瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。
……ああ。
懐かしいな。
前世でも、こいつはよくこうしていた。
頭を撫でてやると、安心したように目を細め、幸せそうに笑っていたものだ。
ただ、今のノエルは、あの頃とは違う。
髪の手触りも、頭の形も、俺の手に伝わってくる温かさも、何もかも違っていた。
それに、目を閉じたままの表情には、いつものような甘えた喜び方とは違う、どこか照れくさそうなものがあった。
俺に命じられているわけでもなければ、何かをねだっているわけでもない。
ただ、俺が触れたいと望み、ノエルがそれを受け入れてくれた。
それだけだった。
なのに、どうしてだろう。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
……やばい。
こいつ、やっぱり、めちゃくちゃかわいい。
いや、違う。
待て。
落ち着け、俺。
相手は男だぞ。
二十二歳の、立派な成人男性だぞ。
しかも、伯爵家の御曹司なんだぞ。
それなのに、なんだ、その顔は。
どうしてそんなに嬉しそうなんだ。
ただ頭を撫でているだけだろうが。
それなのに、まるで世界で一番大切な宝物でももらったかのように、幸せそうな顔をしやがって。
……くそっ。
反則だろ、こんなの。
「……ご主人様」
ノエルが、目を閉じたまま小さく呟いた。
「……なんだよ」
「ありがとうございます」
その声は、とても穏やかだった。
俺は、しばらく何も言えなかった。
そして、ようやく気づいた。
今、こいつをかわいいと思ったのは、単に顔が綺麗だからではない。
前世のあいつを思い出したから、というだけでもない。
俺の手に安心して頭を預けてくれることが、嬉しかったのだ。
しかも、その嬉しさは、昔とまったく同じものではなかった。
前世では、こうして頭を撫でることなど、何でもない日常の一部だった。仕事から帰ってきたときも、あいつが何かを頑張ったときも、俺は特に意識することなく手を伸ばしていた。
だが、今は違う。
俺は、この青年へ触れたいと思った。
前世の習慣だからではなく、ノエルが喜ぶとわかっているからでもなく。
今、目の前で笑っているノエルに、触れてみたいと思ったのだ。
そのことに気づくと、急に自分の手が気恥ずかしくなった。
そっと離そうとしたところで、ノエルが目を開いた。
澄んだ青い瞳が、俺を見上げる。
いつもなら、ここで「もっと撫でてください」とでもねだってくるところだろう。
ところが、ノエルは何も言わなかった。
ただ、少し照れくさそうに微笑んでいる。
俺の返事を待っていたときとも、叱られて嬉しそうにしていたときとも違う。
そんな顔は、前世でもあまり見たことがなかった。
……ああ。
やっぱり、俺はこいつのことを、まだ何も知らないんだな。
そのことが、今は不思議と楽しかった。
「……ノエル」
俺は、そっと名前を呼んだ。
前世の呼び名でもなければ、伯爵家の御曹司としての肩書でもない。
ただ、今、目の前にいる青年の名前だった。
ノエルは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「はい、ロイ様」
その返事を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
ご主人様ではなく。
ロイ様。
俺の、今世の名前。
たったそれだけのことなのに、不思議と嬉しかった。
俺はまだ、こいつを恋愛対象として見られるのかどうか、自分でもわからない。そもそも男と恋愛するなんて、これまで一度も考えたことがなかったのだから。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
今、俺はこの青年の隣にいたいと思っている。
そして、できればもう少し、こうして笑っている顔を見ていたい。
前世の思い出に縋るのではなく、今のノエルがどんな人間なのかを、少しずつ知っていきたい。
そのために、俺自身も変わらなければならないのだろう。
何もかも主人として決めるのではなく、相手の言葉を聞き、自分の気持ちも伝えながら。
そうして、二人で選んでいけばいい。
俺は小さく笑い、もう一度だけノエルの頭を撫でた。
すると、ノエルは嬉しそうに目を細めた。
……神様。
あんた、もしかして、俺にとんでもない試練を与えたつもりなんじゃないだろうな。
もしそうなら、ひとつだけ言わせてほしい。
こんなにかわいい男を目の前に置いて、何も考えるなってほうが無理だろうが。
夕暮れの庭園に響く噴水の音を聞きながら、俺はそんなことを考えていた。
隣では、ノエルが幸せそうに微笑んでいる。
その笑顔から、俺はもう目を逸らそうとは思わなかった。




