終節 ――だから俺は男だって言ってるだろ!!
翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
騎士団の宿舎にある自室は、相変わらず殺風景だった。寝台と机、衣装棚、それに壁際へ立てかけた剣が一本。貴族の屋敷にあるような豪華な調度品など何ひとつないが、必要なものは揃っているし、掃除もしやすい。俺にとっては十分に快適な住まいである。
そんな見慣れた部屋で、俺は寝台に腰掛けたまま、しばらく自分の右手を眺めていた。
……いや、別に怪我をしたわけじゃない。
剣を握ることには慣れているし、昨日の護衛任務でも何か失敗をしたわけではなかった。むしろ、仕事そのものは何事もなく終わっている。
ただ、この手で昨日、ノエルの頭を撫でたのだ。
夕暮れの庭園で、触ってもいいかと尋ねたとき、あいつは少し驚いた顔をして、それから頬を赤らめながら頷いた。指先に触れた白銀の髪は思いのほか柔らかく、俺の手にそっと頭を預けてきた青年は、それはもう幸せそうに微笑んでいた。
……くそ。
朝っぱらから、何を思い出しているんだ。
ただ頭を撫でただけだろうが。
騎士団では、訓練を頑張った後輩の肩を叩くこともあるし、任務を終えた仲間と抱き合って喜ぶことだってある。男同士のちょっとした触れ合いなど、珍しいものでも何でもない。
それなのに、どうしてノエルのことになると、こうも余計なことを考えてしまうのだろう。
そもそも、俺は昨日、あいつと約束したばかりなのだ。
前世の関係をいきなり再開するのではなく、今世のロイとノエルとして、互いを少しずつ知っていくこと。仕事や身分を利用して相手の意思を曲げないこと。そして、公務中には妙な呼び方をしないこと。
どれも、至極まともな約束である。
ノエルも、きちんと理解してくれた。
だから、もう大丈夫なはずなのだ。
「……よし。今日こそは平穏な一日にするぞ」
俺は両頬を軽く叩き、寝台から立ち上がった。
今日も第一王女殿下の護衛任務が待っている。ようやく手に入れた騎士としての立場を守るためにも、昨日のような騒動を繰り返すわけにはいかない。
そもそも、あいつと再会したからといって、俺の生活が何もかも変わる必要はないのだ。
俺はこれまでどおり騎士として働き、ノエルは伯爵家の御曹司として暮らす。互いに時間が合えば、たまに会って話をする。
うん。
実に健全ではないか。
それに、あいつは昨日、お仕置きについても当面は保留にすると約束してくれた。
これなら、俺の平穏な第二の人生も、まだ十分に取り戻せるだろう。
……などと考えていた俺が、どれほど甘かったのか。
それを思い知らされるまで、わずか二時間しかかからなかった。
* * *
「ロイ。少し話があるのだけれど」
午前の執務が一段落した頃、セシリア殿下から声をかけられた。
場所は、王宮西棟にある王女殿下の私的な執務室だった。
大きな窓から朝の光が差し込み、壁際の書棚には法律や歴史、外交に関する書物が整然と並んでいる。中央の執務机には数冊の報告書が積まれ、その隣には王国の紋章が刻まれた封蝋のついた書簡が置かれていた。
俺はいつものように姿勢を正し、殿下の言葉を待った。
「はっ。何なりとお申しつけください」
「昨日のノエルの件なのだけれど」
……来た。
嫌な予感がした。
いや、予感というより、もはや確信に近い。
昨日一日で学んだことがある。この世界において、ノエル・フォン・エヴァレットという名前が出てきた場合、そのあとに続くのは大抵、俺の人生をややこしくする話なのだ。
「……ノエル様が、何か?」
「昨日のうちに、本人とも改めて話をしたのよ」
「さようでございますか」
「ええ。私としても、あの子がそこまで誰かを慕っているとは思わなかったものだから、少し驚いたわ」
セシリア殿下は、どこか楽しそうに微笑んだ。
その表情を見た瞬間、俺の警戒心はさらに高まった。
この方は聡明で、公正で、誰に対しても礼節を忘れない素晴らしい王女である。
ただし、昨日の騒動以降、どうにも俺とノエルの関係を面白がっている節があった。
非常に困る。
国の第一王女が、部下の恋愛事情を娯楽にしてはいけない。
いや、そもそも恋愛事情ではないのだが。
「それでね、エヴァレット伯爵家から、かねてより相談していた件について正式な返答が届いたの」
「……返答、でございますか」
「ノエルを、しばらく王宮に滞在させたいそうよ」
俺は、思わず顔を上げた。
「……は?」
「正確には、王宮が進めている文化事業への協力ね。王立図書院に収蔵されている古文書の整理と、関連資料の再編を進めているのだけれど、以前からエヴァレット伯爵家にも協力をお願いしていたのよ」
殿下は机の上から一枚の書類を取り上げ、俺に見えるように差し出した。
「伯爵家は代々、学術振興に力を入れているでしょう? 古い文献も多く所蔵しているし、王立図書院との交流も長いわ。今回の事業についても、協力の内容や必要な人員については、以前から話を進めていたの」
「……なるほど」
「その担当者として、ノエル本人が名乗り出てくれたのよ。昨日のうちに改めて本人の意思を確かめ、伯爵家からも正式な回答をいただいたというわけ」
……そういうことか。
俺は差し出された書類に目を通した。
そこには文化事業の目的、協力する資料の範囲、作業場所、滞在中の扱いなどが、きちんと記されていた。今朝になって突然思いついたような話ではなく、以前から準備されていた事業に、ノエルが協力者として参加するという内容である。
しかも、俺は昨日、あいつが古典文学や古代語の読解を学んでいると聞いている。
領地経営や外交儀礼についても十分な教育を受けているらしいし、あの立派な新生活計画書を四年間もかけて作り上げたことを思えば、資料の整理や管理についても相当に几帳面なのだろう。
……いや。
待て。
新生活計画書を作る能力と、王立図書院の古文書を整理する能力を、同じものとして評価していいのだろうか。
だが、少なくとも学識が豊富なのは事実だ。
あいつの優秀さについては、俺も昨日、嫌というほど思い知らされている。
その優秀さが、普段はとんでもない方向へ発揮されているだけで。
「姫様、まさか……」
「ノエルの王宮滞在を認めたわ」
「…………」
「もちろん、伯爵家からの正式な協力者としてよ。受け入れについては、図書院側とも調整済みなの。ノエルの学識なら十分に役立ってもらえるでしょうし、私としても、あの子に経験を積ませてあげたいと思っていたところなのよ」
「……さようでございますか」
駄目だ。
何ひとつ反論できない。
俺は一瞬、伯爵家の権力を利用して無理やり王宮へ入り込もうとしているのではないかと疑った。
だが、どうやら違うらしい。
以前から計画されていた文化事業に、必要な知識を備えた伯爵令息が参加する。
それだけの話なのである。
王女殿下としても断る理由がないし、ノエル自身にとっても、伯爵家の跡取りとして経験を積むよい機会になるだろう。
むしろ、俺が反対したら、単なる私情による妨害になってしまうではないか。
……くそ。
真っ当すぎて、逆に怖い。
「それと、滞在中は王宮内での案内役も必要になるでしょう?」
俺は口を閉じた。
嫌な予感が、いよいよ現実になろうとしている。
セシリア殿下は書類を机に戻すと、実に穏やかな表情で微笑んだ。
「ノエルは王宮に不慣れというわけではないけれど、今後は図書院の作業区画や、これまで立ち入らなかった場所にも出入りすることになるわ。もちろん、各区画には担当の職員がいるけれど、最初のうちは連絡役も必要でしょう?」
「……はい」
「事情を理解していて、王宮の規則にも詳しい者が望ましいと思うの」
「……はい」
「そなたが適任ね」
「姫様ぁぁぁ!!」
俺の悲鳴が、執務室に響き渡った。
セシリア殿下は少しも動じなかった。
「何か問題でも?」
「ございます! 大いにございます!」
「どのような?」
「自分は王女殿下の護衛騎士でございます! 王宮の案内係ではございません!」
「もちろん、護衛任務を優先してもらうわ。そなたに頼むのは、勤務に支障のない範囲での初期案内と連絡調整だけよ。必要なときには、担当部署を通じて正式に依頼させるつもりだわ」
「し、しかし……!」
「図書院の作業そのものは専門の職員が行うし、立ち入りに許可が必要な場所についても、通常の手続きを省略するつもりはないわよ」
……完璧だった。
そこまで配慮されてしまうと、もはや文句のつけようがない。
護衛任務に支障は出ない。
王宮の規則も守られる。
ノエルは正式な文化事業の協力者であり、俺は必要なときに案内を手伝うだけ。
実務上、何の問題もないのである。
問題があるとすれば、案内する相手が、昨日まで俺に調教をねだっていた伯爵家の御曹司だということくらいだ。
……いや、それが最大の問題なんですけどね!?
「それに、そなたたちは昨日、これから少しずつ互いを知っていくと話し合ったのでしょう?」
「なぜご存じなのですか!?」
「ノエルが教えてくれたわ」
あいつぅぅぅ!!
昨日の夕暮れ、あんなに真面目な顔で約束したというのに。
その翌朝には王女殿下へ報告済みとは、どういうことだ。
いや、待て。
あいつ、どこまで話した?
まさか、頭を撫でたことまで!?
俺が冷や汗を流していると、セシリア殿下は扇を広げ、口元を隠した。
「安心なさい。ノエルからは、今後は互いの意思を尊重して付き合っていくことになったと聞いているわ」
「……そ、そうでございますか」
「ええ。それから、そなたがとても優しくしてくれたとも」
「…………」
「ずいぶん嬉しそうだったわよ」
やっぱり何か話してるじゃねえか!!
俺は心の中で絶叫した。
しかも、セシリア殿下は明らかに面白がっている。
この方、絶対に昨日の庭園で何があったのか、詳しく聞き出そうとしているだろう。
「……光栄に存じます」
「ふふ。そう」
俺は必死に表情を取り繕った。
ここは王女殿下の執務室である。
どれほど頭の中が混乱していようと、護衛騎士としての礼節を忘れてはならない。昨日、儀典長からも公務中の振る舞いについて注意されたばかりなのだから、なおさらだった。
もっとも、王女殿下が楽しそうに扇を揺らしていらっしゃる時点で、俺の精神的な平穏など、すでにどこかへ消え失せているのだが。
そのときだった。
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「セシリア殿下。エヴァレット伯爵家のノエル様がお見えでございます」
「ええ。お通しして」
……おい。
まさか、最初から呼んでいたのか。
俺が驚いている間にも、扉が静かに開いた。
そして、そこに現れたのは。
「おはようございます、セシリア殿下!」
白銀の長い髪を揺らし、優雅な足取りで入室してきた美青年だった。
今日は昨日の祝宴とは違い、淡い青を基調とした上品な礼装に身を包んでいる。襟元には小さな宝石が飾られ、細身の身体を包む仕立てのよい衣装が、その美貌を一層引き立てていた。
……相変わらず、すげえ顔だな。
いや、褒めてるんだぞ。
男だとわかっていても、思わず見惚れてしまうほど綺麗なのだから仕方がない。
そんなことを考えていると、ノエルが俺に気づいた。
ぱっと顔が輝く。
「ロイ様!」
……ん?
「おはようございます! 本日から、どうぞよろしくお願いいたします!」
ノエルは満面の笑顔で、丁寧に一礼した。
俺は一瞬、呆気に取られた。
……あれ?
今、なんて呼んだ?
ロイ様?
ご主人様じゃなくて?
「……お、おう。よろしくな」
思わず、普通に返事をしてしまった。
ノエルは嬉しそうに頷くと、セシリア殿下へ向き直り、今回の文化事業について礼を述べた。
「このたびは、王立図書院の事業へ参加する機会をいただき、ありがとうございます。伯爵家より提供する資料についても、事前に整理を進めておりますので、少しでもお役に立てれば幸いです」
「ええ。期待しているわ、ノエル。資料の整理は地味な仕事も多いけれど、あなたなら辛抱強く取り組んでくれるでしょう」
「はい。古文書を読み比べる作業は、以前から好きでしたので」
そう答えるノエルの表情は、俺が昨日見たものとは少し違っていた。
伯爵家の嫡男としての責任を理解し、自分の知識を仕事に役立てようとしている、一人の青年の顔だった。
受け答えも落ち着いているし、王女殿下に対する礼儀にも何ら問題はない。
しかも、俺のほうへ視線を向けても、妙なことを言い出す気配がなかった。
……こいつ。
ちゃんと約束を守っているのか。
昨日の庭園で、公務中にご主人様と呼ばないように言ったことを、どうやら本当に理解してくれたらしい。
……いや、当たり前なんだけどな。
二十二歳の成人男性が、仕事中に相手の名前をきちんと呼ぶ。
それだけのことで、これほど感動する日が来るとは思わなかった。
俺は胸の内で、小さく息を吐いた。
どうやら、心配するほどのことはないのかもしれない。
「……まあ、仕事なら仕方ないか」
俺がそう呟くと、ノエルは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。ご案内をお願いする際には、正式な手順を踏ませていただきます」
「おう。そうしてくれ」
「もちろん、ロイ様のご公務を妨げるようなことはいたしません」
「……ああ。助かる」
「ですが、勤務時間が終わりましたら……」
ノエルが、にっこり笑った。
……ん?
待て。
その笑顔は、昨日も見たぞ。
「ご主人様と、二人きりのお茶会を」
「お前、普通のお茶会だろうな!?」
俺は反射的に叫んでいた。
ノエルは、きょとんとした顔で瞬きをした。
「もちろんです。何を想像なさったのですか?」
「ぐっ……!」
……しまった。
完全に墓穴を掘った。
ノエルは本当に、普通のお茶会を提案しただけなのかもしれない。
いや、こいつのことだから、何か別の意味を含ませている可能性は十分にある。そもそも、二人きりという部分を、あんな嬉しそうな顔で強調する必要がどこにあるんだ。
ただ、今の発言だけでは、俺のほうが勝手に妙な想像をしたようにしか聞こえない。
「ご安心くださいませ。お茶とお菓子をご用意して、ゆっくりお話しするだけでございます」
「……本当だな?」
「はい。昨日、ロイ様からもお約束いただきましたので」
ノエルは、にっこりと微笑んだ。
「わたくし、二人きりでお茶をいただける日を、とても楽しみにしておりました」
「……そ、そうか」
「もちろん、ご主人様がお望みでしたら、もう少し親密な……」
「だから普通のお茶会にしろって言ってんだろ!!」
「まあ。まだ何も申し上げておりませんのに」
……くそっ。
やられた。
こいつ、絶対にわかって言っている。
しかも、以前と違って直接的にお仕置きをねだるわけでもなければ、俺の拒絶を無視して話を進めようとしているわけでもない。
あくまでも普通のお茶会を提案し、その途中で少し意味深な言い方をしているだけなのだ。
つまり、俺のほうが勝手に反応している。
……なんだ、この高度な心理戦は。
お前、いつの間にそんな技術を身につけたんだ。
しかも、さっきから公務中の呼び方についても、実に巧妙なことをしている。
俺へ直接話しかけるときはロイ様。
だが、勤務時間外の予定について話すときだけ、ご主人様という呼び名を使う。
……おい。
それは約束を守っていることになるのか?
いや、そもそもあいつは今、俺をご主人様と呼んだわけではなく、仕事が終わったあとの予定について説明しただけだ。
理屈としては、ぎりぎり成立している。
成立しているのが、余計に腹立たしい。
「……ふふっ」
隣から、笑い声が聞こえた。
セシリア殿下だった。
王女殿下は扇で口元を隠していたが、その目元には明らかに笑みが浮かんでいる。
「ロイ。そなたも、ずいぶん楽しそうではないか」
「まったく楽しくありません!!」
「そうなの?」
「はい!」
「でも、ノエルとのお茶会について、ずいぶん熱心に確認していたようだけれど」
「誤解でございます!」
「私は、普通のお茶会だと思って聞いていたわ」
「自分もそのつもりでございます!」
「では、何をそんなに慌てていたのかしら?」
「…………」
答えられなかった。
……くそっ。
王女殿下。
お願いですから、その件についてこれ以上追及するのはやめてください。
俺の精神がもちません。
ところが、セシリア殿下は何かを思いついたように扇を閉じると、あっさりと言った。
「そう。そこまで気が進まないのなら、無理に引き受けてもらう必要はないわね」
「……は?」
「ノエルの案内役は、別の者に頼むことにしましょう」
俺は顔を上げた。
「王宮警備隊の若い騎士にも、適任者がいたはずよ。エヴァレット伯爵家とも親交のある家柄の者だから、ノエルとも気が合うでしょうし……」
「いや、それは!」
気づいたときには、声が出ていた。
セシリア殿下の手が止まった。
ノエルも、こちらを振り返った。
…………。
沈黙。
俺は、ようやく自分が何を言ったのか理解した。
……しまった。
今、俺は何を止めようとした?
別の騎士に案内役を任せるという話だぞ。
俺にとっては、むしろありがたい申し出のはずだろうが。
昨日まで、あれほどノエルが仕事に関わってくることを嫌がっていたのだから、本来なら喜んで受け入れるべき提案である。
しかも、相手は王宮警備隊の騎士だ。
仕事に必要な知識もあるだろうし、伯爵家と親交のある家柄なら、ノエルも気兼ねなく話せるはずだ。
何の問題もない。
……ない、はずなのだが。
なぜか、頭の中に妙な光景が浮かんでしまった。
ノエルが、俺の知らない若い騎士と並んで歩いている。
その男に王宮の案内をしてもらい、楽しそうに笑っている。
あいつは人懐っこいやつだから、きっとすぐに打ち解けるだろう。しかも、今のノエルは教養もあれば、社交界での振る舞いにも慣れている。相手が同じような家柄の人間なら、共通の話題も多いに違いない。
そして、その男がノエルに微笑みかける。
ノエルも、嬉しそうに笑い返す。
……なんだ、それは。
ちっとも面白くねえぞ。
「……ロイ?」
セシリア殿下が、穏やかな声で尋ねた。
「何か問題があるの?」
「い、いえ、その……」
「別の者に案内を任せてはいけない理由が?」
「…………」
俺は必死に考えた。
理由だ。
何か、もっともらしい理由を考えろ。
王宮の警備上の問題?
いや、別の騎士でも問題ない。
ノエルが王宮に不慣れだから?
いや、あいつは昔から殿下の幼なじみだ。むしろ、俺より宮廷事情に詳しい部分もあるだろう。
だったら、何だ?
俺が案内しなければならない理由なんて、どこにもないじゃないか。
「……その、昨日の件もございますので」
苦し紛れに口を開いた。
「自分が事情を理解しておりますし、ほかの者に余計な負担をかけるのも、どうかと……」
「なるほど」
殿下が頷いた。
「つまり、そなたがノエルの案内役を引き受けたいということね?」
「……っ!」
「それなら、最初からそう言えばよかったのに」
セシリア殿下は、楽しそうに微笑んだ。
……やられた。
完全に、やられた。
この方、絶対にわかっていて言っている。
俺がどう反応するのか、最初から試していたに違いない。
なんということだ。
王宮における最も恐ろしい人物は、敵国の暗殺者でも、権謀術数に長けた大貴族でもなかった。
俺の上司だった。
「……ロイ様」
そのとき、ノエルが小さく声をかけてきた。
振り返ると、そこには見たこともないほど嬉しそうな顔をした青年がいた。
白い頬が真っ赤に染まり、澄んだ青い瞳がきらきらと輝いている。両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、何かを必死に堪えているようだった。
……おい。
待て。
その顔はまずい。
その顔をするときのお前は、大抵ろくなことを言わない。
「……本当に、ロイ様が案内してくださるのですか?」
ノエルの声が、少しだけ震えていた。
いつものような甘ったるいおねだりではなかった。
ただ、信じられないほど嬉しいことを聞いた人間の、素直な喜びが滲んでいた。
俺は、その顔から目を逸らせなくなった。
……くそ。
なんだよ、その顔は。
俺が案内役を引き受けただけだぞ。
それも、勤務に支障のない範囲で、最初の案内をするというだけの話だ。
そんなことで、どうしてそこまで嬉しそうにするんだよ。
「……まあ、ほかのやつに事情を説明するのも面倒だしな」
俺は顔を逸らしながら答えた。
「……ありがとうございます」
ノエルは、少しだけ俯いた。
その頬が、ますます赤くなっていく。
……まずい。
これは、昨日の庭園で見た顔だ。
俺が頭を撫でてもいいかと尋ねたとき、こいつはこんなふうに照れていた。
そして、その顔を見た俺が、どれほど動揺したのか。
思い出しただけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「ご主人様……!」
「公務中だろうが!!」
「申し訳ありません」
ノエルは慌てて口元を押さえ、すぐに姿勢を正した。
だが、頬は真っ赤なままだった。
しかも、俺が怒鳴ったことまで、しっかり喜んでいるらしい。
……ああ、もう。
やっぱりこいつは、何も変わっていない。
いや、違う。
さっきから、ちゃんと変わっている。
公務中にはロイ様と呼んでいるし、文化事業についても真面目に取り組もうとしている。俺の仕事を邪魔しないよう、正式な手順を踏むことも約束してくれた。
ただし。
その内側にいるメスブタだけが、恐ろしく元気なのである。
「……ふふっ。なるほど」
セシリア殿下が、楽しそうに微笑んだ。
「姫様……」
「ええ。よくわかったわ」
「何をでございますか……」
「それは、そなた自身で考えなさい」
殿下はそれ以上、追及しなかった。
ただ、どこか温かな眼差しで、俺とノエルを見比べている。
その表情には、昨日のような困惑や警戒はなかった。
王女殿下としては、ノエルが正式な仕事を得て王宮に滞在し、俺も護衛騎士としての務めを続けられるよう、必要な配慮をしてくださっているのだろう。
そして、幼なじみのノエルが嬉しそうに笑っていることを、心から喜んでいらっしゃるようにも見えた。
……まったく。
この方には、かなわねえな。
俺は小さく息を吐き、ノエルへ視線を戻した。
美しい青年は、まだ少し頬を赤くしたまま、こちらを見つめていた。
その笑顔を見ると、胸の奥にあった妙な苛立ちが、少しだけ落ち着いていく。
……くそ。
かわいいじゃねえか。
そもそも、俺は確かに、男と恋愛するつもりなどなかったはずだ。
前世では女だったとしても、今のノエルは男だ。俺だって男だし、これまで恋愛の相手として考えてきたのは女性ばかりだった。
それなのに、どうしてこいつが別の男と仲良くするところを想像しただけで、あんなに面白くなかったんだ。
ノエルは俺の所有物じゃない。
昨日、俺自身がそう言ったばかりである。
誰と親しくなろうと、あいつの自由だ。
それなのに、自分が案内役を引き受けることになった途端、こんなにも安心している。
……何なんだよ、これは。
自分でも、まったく説明できない。
ただ、目の前の青年が俺を見て笑っていることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ロイ様?」
「……ん?」
「どうかなさいましたか?」
「……いや、なんでもねえよ」
俺は小さく笑い、改めて姿勢を正した。
「とにかく、今日からよろしくな。仕事のことについては、ちゃんと担当者を通して連絡してくれよ」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
ノエルは満面の笑顔で一礼した。
その返事は、きちんとした貴公子としての礼儀正しい挨拶だった。
俺も、何となく嬉しくなってしまった。
……まあ、いいか。
せっかく再会できたのだから。
もう少し、こいつと一緒にいてもいいだろう。
前世の関係をどうするかなんて、まだ決めなくていい。
今は、お互いのことを少しずつ知っていけばいいのだ。
そう考えて、ようやく気持ちが落ち着き始めた、そのときだった。
「ところで、ロイ様」
「……なんだ?」
「本日のお仕事が終わりましたら、お茶会のお時間をいただけるのでしょうか?」
「……ああ。少しくらいならな」
「ありがとうございます!」
ノエルは嬉しそうに頷いた。
「では、ご主人様に喜んでいただけるよう、とっておきのお菓子をご用意いたしますね。以前お好きだった苺のショートケーキも、今度こそ上手に作れるようになりましたので!」
「……おう。そりゃ楽しみだな」
「はい! それから、昨日の計画書も、きちんと修正してまいりました!」
「……ん?」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
今、聞き捨てならない言葉が混じっていなかったか?
「……計画書?」
「はい!」
ノエルは、実に誇らしげに頷いた。
「昨日、ご主人様とお話しした内容をもとに、大幅な改訂を行いました!」
そう言うと、手にしていた革鞄から、見覚えのある分厚い冊子を取り出した。
濃紺の革表紙。
金属製の角飾り。
そして、中央に輝く優美な金文字。
『ご主人様との素敵な新生活計画』
……おい。
まだ持ってたのか、それ。
いや、待て。
昨日も持っていたのだから、当然といえば当然なのだが。
まさか、王宮へ文化事業の仕事に来る初日から、その冊子まで持参しているとは思わなかったぞ。
「……ノエル」
「はい、ロイ様!」
「お前、その計画書、今日の仕事に関係あるのか?」
「いいえ! こちらは、わたくしたちの私的な計画でございます!」
「だったら王女殿下の執務室で出すな!!」
「まあ! では、お茶会まで大切にしまっておきますね!」
ノエルは素直に冊子を閉じようとした。
……あれ?
ちゃんと言うことを聞いている。
いや、それが普通なんだけどな。
何とも不思議な気分になっていると、セシリア殿下が興味深そうに口を開いた。
「それで、ノエル。どのように改訂したの?」
「はい、殿下!」
……おい。
王女殿下。
そこは聞かなくていいんです。
聞かなくていいんですよ!!
しかし、俺の心の叫びなど届くはずもなく、ノエルは嬉々として冊子を開いた。
「まず、最初の頁に、新しい約束を書き加えました!」
見せられた頁には、端正な文字が並んでいた。
『互いの意思を尊重し、今世におけるそれぞれの人生を大切にすること』
……おお。
まともだ。
ちゃんとまともなことが書いてある。
さらに、その下には、公務中の呼び方についての取り決めや、互いの仕事を優先すること、無理な要求をしないことなどが、わかりやすく整理されていた。
……すげえ。
あの新生活計画書が、ちゃんと健全な方向へ修正されている。
俺は少しだけ感動した。
昨日、あれほど真剣に話し合ったことを、こいつはきちんと受け止めてくれていたのだ。
「それから、契約書については撤回いたしました。ご主人様が今のお仕事を大切になさっていることは、十分理解しておりますので!」
「……ああ。ありがとうな」
「もちろん、将来についてお話し合いをすることは、いつでも歓迎でございます!」
「……まあ、話すだけならな」
「はい! そして、特に重要なのがこちらでございます!」
ノエルは別の頁を開いた。
そこには、新しく書き加えられた見出しがあった。
『お仕置きに関する項目:保留』
…………。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
……ああ。
そうか。
ちゃんと保留になっている。
確かに、約束は守っている。
ただし、その下には、さらに細かな注釈がついていた。
『ロイ様の自由意思による同意が得られるまで、実施および具体的な相談は行わないこと』
……うん。
正しい。
何ひとつ間違っていない。
さらに、その次の項目には、こう書かれていた。
『公務時間外におけるご主人様の呼称:本人承諾済み』
……そうだったな。
昨日、俺が許可したんだったな。
その隣には、何やら小さな花模様まで描かれている。
……いや。
花模様は必要なのか?
許可されたことが、そんなに嬉しかったのか?
「そして、こちらが今後の予定でございます!」
ノエルは、ぱっと次の頁を開いた。
『お茶会:双方合意済み』
『剣術の稽古:予定調整中』
『お泊まり:未定』
『お仕置き:保留』
…………。
俺は、しばらく黙ってその頁を見つめた。
……おい。
待て。
なんだ、その並びは。
お茶会も剣術の稽古も、普通の予定だろうが。
なんでそこに、お泊まりとお仕置きが同じ形式で並んでいるんだ。
というか、保留と未定の違いは何だ。
まさか、未定のほうには、今後まだ十分な可能性があるとでも言いたいのか?
「……ノエル」
「はい、ロイ様!」
「お前、これ……」
「ご安心くださいませ!」
ノエルは、実に誇らしげに微笑んだ。
「ご主人様のお気持ちを第一に考え、現時点では何ひとつ勝手に進めないことにいたしました!」
……ああ。
そうか。
ちゃんと成長している。
今世のノエルは、自分の意思を持ち、相手の意思も尊重する、立派な成人男性なのだ。
しかも、伯爵家の御曹司として十分な教養を備え、王宮の文化事業にまで協力するほど優秀である。
ただし。
性癖だけは、一ミリたりとも変わっていない。
「……ちなみに」
ノエルが、少しだけ頬を染めた。
「お仕置きについては、ご主人様のお気持ちが変わるまで、何年でもお待ちする所存でございます」
「だから、それを王女殿下の前で報告するなあああ!!」
「まあ! ご主人様ったら、そんなに厳しく……!」
「喜ぶな! 今のは公務中だからな!?」
「はいっ 申し訳ありません、ロイ様!」
ノエルは慌てて姿勢を正したが、頬は真っ赤に染まったままだった。
しかも、俺の注意をきちんと理解したらしく、すぐに呼び方を改めている。
……くそ。
成長しているのが、余計に腹立たしい。
以前なら何度怒鳴ってもご主人様と呼び続けていたのに、今はちゃんと約束を守ってくれる。
だから、こちらも本気で怒る理由がない。
それなのに、どうしてこんなに疲れるんだ。
「……ふふっ」
セシリア殿下が、とうとう堪えきれなくなったように笑い始めた。
「ロイ。ずいぶんと立派な計画書ではないか」
「姫様! お願いですから、そこを評価なさらないでください!」
「でも、あなたたちが昨日話し合ったことを、ノエルはきちんと守ろうとしているのでしょう?」
「……それは、そうなのですが」
「ならば、よいことではないの?」
「……おっしゃるとおりでございます」
駄目だ。
反論できない。
王女殿下の言葉が、あまりにも正しすぎる。
しかも、ノエルは隣で心から嬉しそうに微笑んでいる。
その笑顔を見ると、昨日の夕暮れを思い出してしまう。
四年間も探し続けて、ようやく再会できた相手。
前世の関係を大切にしながらも、今の自分のことを知ってほしいと願ってくれた青年。
そして、俺が案内役を引き受けただけで、あんなに嬉しそうな顔をした男。
……ああ、くそ。
かわいいじゃねえか。
こんな顔で笑われたら、こっちまで笑いたくなるだろうが。
俺は思わず口元を緩めかけ、慌てて引き締めた。
駄目だ。
ここで甘やかしたら、きっと調子に乗る。
何しろ、こいつは四年間もかけて新生活計画書を作り、昨日一日でそれを修正し、今朝にはもう改訂版を持参してきた男なのだ。
今後、少しでも気を抜けば、どんな恐ろしい頁が追加されるかわかったものではない。
「……ノエル」
「はい、ロイ様!」
「とにかく、仕事に私的な計画を持ち込むなよ。お茶会の話も、勤務が終わってからだ」
「承知いたしました!」
ノエルは嬉しそうに頷き、冊子を丁寧に閉じた。
「では、本日は文化事業のお仕事を精一杯頑張ってまいります!」
「おう。頑張れよ」
「はい! ロイ様も、ご公務に励んでくださいませ!」
その返事は、実に爽やかだった。
ノエルは伯爵家の御曹司らしく優雅に一礼すると、冊子を鞄へ収め、王女殿下にも丁寧に挨拶した。
その姿は、どこからどう見ても立派な貴公子だった。
……ああ。
そうだったな。
今のこいつは、俺の知らない人生を歩んできた男なのだ。
前世のあいつと同じところもあれば、違うところもある。
そして俺は、その違いを知ることが、少しずつ楽しみになり始めている。
そう考えていると、扉へ向かいかけたノエルが、ふと立ち止まった。
「……あの、ロイ様」
「なんだ?」
「今日のお茶会、本当に楽しみにしております」
そう言って、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
あの顔だった。
昨日の庭園で、俺が触ってもいいかと尋ねたときと同じ、少し恥ずかしそうで、それでも嬉しさを隠しきれない笑顔。
俺は、その顔を見て思った。
……ああ。
やっぱり、かわいいじゃねえか。
「……おう。俺も楽しみにしてるよ」
そう答えると、ノエルは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
それから、白い頬をゆっくりと赤く染め、胸元で両手を握りしめる。今にも何かを叫び出しそうだったが、ここが王女殿下の執務室であることを思い出したらしく、唇をきゅっと結んで、どうにか喜びを堪えていた。
……おお。
ちゃんと我慢してる。
昨日までのこいつなら、間違いなくご主人様と叫んでいたところだろう。それが今では、伯爵家の御曹司らしく礼儀正しい態度を保ちながら、俺の返事を喜んでいる。
立派になったじゃねえか。
もっとも、その目があまりにも幸せそうに輝いているので、周囲から見れば俺に何を言われたのか一目瞭然だろうが。
「では、ロイ様。お仕事が終わりましたら、お迎えに伺いますね」
「いや、俺が行くよ。お前だって今日から仕事なんだろ?」
「……よろしいのですか?」
「普通にお茶を飲むだけだろ。だったら、どっちが迎えに行ったって同じじゃねえか」
ノエルは、また頬を赤くした。
……おい。
なんで今ので照れるんだ。
別に大したことは言ってねえぞ。
すると、隣で一連のやり取りを見守っていたセシリア殿下が、楽しそうに扇を開いた。
「ふふっ。ロイったら、ずいぶん積極的になったのね」
「姫様!?」
「だって、昨日はあれほど逃げ回っていたのに、今日は自分からノエルを迎えに行くと言っているのでしょう?」
「それは、単なる待ち合わせの話でございまして!」
「ええ。もちろん、わかっているわ」
絶対にわかっていない。
いや、わかっているからこそ、このようなことを仰っているのだろう。
なんという恐ろしい上司だ。
しかし、セシリア殿下はそこでからかうのをやめると、ノエルへ穏やかに微笑みかけた。
「ノエル。文化事業については、期待しているわ。私的な時間を楽しむのは構わないけれど、仕事のほうもしっかり頼むわね」
「もちろんでございます、殿下!」
「それから、ロイも。公務と私的な時間は、きちんと分けなさい」
「はっ!」
「そのうえで、二人とも楽しんできなさい」
そう言って微笑まれたとき、俺はようやく理解した。
この方は、単に俺たちを面白がっているわけではないのだろう。
幼なじみであるノエルが四年間も誰かを探し続け、ようやくその相手に再会できたことを、心から喜んでいらっしゃるのだ。
そして、昨日まで散々困惑していた俺が、自分からノエルと向き合おうとしていることについても。
……まったく。
かなわねえな。
俺は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、姫様」
隣では、ノエルも嬉しそうに一礼している。
こうして、俺たちの二度目の人生で最初となる、実に普通のお茶会が決まった。
少なくとも、このときの俺は、そう信じていたのである。
* * *
夕方。
王宮での勤務を終えた俺は、約束どおりノエルを迎えに行った。
場所は西棟の奥にある小さな談話室だった。王宮へ滞在する客人が私的な歓談に利用できる部屋で、窓の向こうには昨日の中庭が見える。すでに侍女によって茶器が整えられており、丸卓の上には白い卓布と、小さな花瓶が置かれていた。
その卓のそばで、ノエルが待っていた。
「お待ちしておりました、ロイ様」
「おう。遅くなって悪かったな」
「いいえ。お仕事を終えられてから、わたくしを訪ねてくださったのですもの。それだけで十分嬉しゅうございます」
ノエルは優雅に一礼すると、俺を椅子へ案内した。
……うん。
まともだ。
ごく普通のお茶会である。
俺が椅子に腰を下ろすと、ノエルは向かい側へ座り、銀製のティーポットから丁寧に紅茶を注いでくれた。
その手つきには、伯爵家で身につけたのであろう洗練された所作が感じられる。細く長い指が茶器を扱う様子は実に優雅で、昨日までメスブタを自称していた人物と同一人物だとは、到底思えないほどだった。
「……お前、本当に貴族なんだな」
「まあ。今さらでございますか?」
「いや、わかってるんだけどよ。どうも前世のお前と、今のお前が頭の中で一致しなくてな」
「ふふっ。では、これから少しずつ慣れていただかなくてはなりませんね」
「ああ。そうだな」
俺が頷くと、ノエルは嬉しそうに微笑んだ。
それから、卓の中央へ置いてあった菓子箱を開く。
「こちら、ご主人様がお好きだった苺のショートケーキでございます」
「おお!」
思わず身を乗り出した。
白い生クリームに包まれた小さなケーキには、大粒の苺が飾られている。菓子店に並んでいても不思議ではないほど綺麗に仕上がっていたが、側面のクリームがほんの少しだけ不揃いになっているところに、手作りらしい温かみがあった。
「これ、お前が作ったのか?」
「はい。昨晩、伯爵家の厨房をお借りして作りました。こちらの世界では材料も少し違いますので、前世とまったく同じ味にはならないかもしれませんが……」
「いや、すげえじゃねえか」
俺が素直に感心すると、ノエルは少し照れくさそうに頬を染めた。
「ありがとうございます。ご主人様に、もう一度召し上がっていただきたかったんです」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
前世でも、あいつは俺の好きなものをよく覚えていた。
疲れて帰ってきたときに飲み物を用意してくれたことも、特売のプリンを買ってきてくれたことも、休日には二人でくだらない話をしながら食卓を囲んだことも。
そんな何でもない日常の記憶が、次々と浮かんでくる。
だが、目の前にあるケーキは、あの頃のものではなかった。
今のノエルが、この世界で覚えた技術を使って、俺のために作ってくれたものなのだ。
「……いただきます」
俺はフォークを手に取り、小さく切り分けたケーキを口へ運んだ。
柔らかな生地に、甘さを抑えたクリーム。
そして、苺の爽やかな酸味。
懐かしいようで、少し違う味だった。
「……うまい」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ノエルが顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。すげえうまい。お前、こんなもの作れるようになったんだな」
「……よかった」
ノエルは、心から安心したように微笑んだ。
その顔を見た瞬間、俺は不意に思い出した。
前世でも、あいつはこうして俺の感想を待っていた。
温かい飲み物を差し出して、俺がうまいと言えば、嬉しそうに笑った。
あの頃と同じだ。
けれど、違う。
今のこいつは、伯爵家の嫡男として二十二年間を生きてきた。
俺の知らない場所で学び、努力し、失敗を重ねながら、新しい人生を築いてきたのだ。
その時間のすべてを知っているわけではない。
これから、少しずつ聞いていかなければならないことが山ほどある。
……そう思うと、不思議な気分だった。
前世では、あんなに近くにいた相手なのに。
今は、何もかも新鮮なのである。
「……なあ、ノエル」
「はい、ご主人様」
「お前、前世での俺たちの関係、どう思ってた?」
俺が尋ねると、ノエルは少し驚いたように瞬きをした。
それから、静かに微笑む。
「とても幸せでした」
「……そうか」
「はい。ご主人様にお仕えして、命令をいただいて、たくさん可愛がっていただいて……わたくし、あの頃の毎日が大好きでした」
その答えは、俺が想像していたとおりだった。
だが、ノエルはそこで少しだけ考え込むと、照れくさそうに視線を落とした。
「でも、ひとつだけ……心残りがございました」
「……心残り?」
「はい」
ノエルは、ティーカップを静かに受け皿へ戻した。
「わたくしたち、最後まで恋人とは呼び合いませんでしたでしょう?」
俺は、思わず口を閉じた。
そうだった。
前世の俺たちは、親密な関係にあった。
同じ部屋で暮らし、互いを大切にし、普通の恋人同士と変わらない時間を過ごしていた。
だが、関係に名前をつけることは避けていた。
俺はご主人様。
あいつはメスブタ。
それで十分だと思っていたのである。
「……そうだったな」
「もちろん、あの関係が嫌だったわけではございません。わたくしは、自分から望んでご主人様にお仕えしておりましたし、そのことを後悔したこともありません」
ノエルは、少しだけ微笑んだ。
「でも、ときどき思っていたんです。ご主人様は、わたくしのことを、どう思っていらっしゃるのだろうって」
「……俺が?」
「はい。わたくしは、ご主人様のことが大好きでした。今でも大好きです。けれど、あの頃のご主人様は、わたくしを恋人だとお考えだったのでしょうか?」
俺は、何も言えなかった。
前世の俺は、あいつを大切にしていた。
喜ぶ顔を見るのが好きだったし、一緒にいる時間も楽しかった。仕事から帰ればあいつが待っていて、それが当たり前になっていた。
だが、恋人なのかと聞かれれば、いつも曖昧に答えていた気がする。
あいつが俺のことを好きなのはわかっていた。
だから、わざわざ言葉にする必要はないと思っていたのだ。
……本当に、そうだったのか?
俺は、ただ面倒なことから逃げていただけじゃないのか。
「……悪かったな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ノエルが驚いたように顔を上げる。
「ご主人様?」
「いや、その……前世では、ちゃんと言ってやらなかったなと思ってさ」
「……いいえ」
ノエルは首を横に振った。
「わたくしも、尋ねるのが怖かったのです。もし、恋人ではないとおっしゃられたら、あの幸せな毎日が壊れてしまうような気がして……」
その言葉は、静かだった。
責めるような響きはなかった。
ただ、ずっと胸の奥にしまっていた気持ちを、ようやく口にできたような、そんな声だった。
俺は、しばらくノエルを見つめた。
前世のあいつは、俺に何でもねだる女だった。
命令してほしい。
叱ってほしい。
もっと可愛がってほしい。
そんなことは、恥ずかしげもなく口にしていた。
それなのに。
本当に聞きたかったことだけは、最後まで聞けなかったのか。
……馬鹿だな。
お互いに。
俺は小さく息を吐き、椅子へ深く腰掛け直した。
「……なあ、ノエル」
「はい」
「俺も、あの頃は幸せだったよ」
ノエルの瞳が、小さく揺れた。
「お前がいてくれて、よかったと思ってる。あの部屋に帰ればお前が待っていて、くだらないことで言い争って、たまに一緒に笑って……そんな毎日が、俺は好きだった」
「……ご主人様」
「でも、恋人だって言わなかったのは、たぶん俺も怖かったんだと思う」
そこまで言って、少しだけ恥ずかしくなった。
自分でも、随分と今さらなことを話している気がする。
だが、今度こそ、ちゃんと言葉にしておきたかった。
「俺たちの関係が、普通の恋人同士とは少し違ってることもわかってたし、あの形が壊れるのも嫌だった。だから、わざわざ名前をつけなくてもいいと思ってたんだろうな」
ノエルは黙って聞いていた。
「でも、今考えてみると、それは少し違ったのかもしれねえ」
俺は、目の前の青年を見つめた。
白銀の髪。
澄んだ青い瞳。
上品な礼装に包まれた、成人男性の身体。
前世のあいつとは、何もかも違う姿だった。
それなのに。
俺は、今のノエルを見ている。
前世の女を探しているわけではない。
あの頃の関係を、そのまま取り戻したいわけでもない。
今、目の前にいる青年が、何を考えているのか知りたい。
こいつが笑っているところを、もっと見ていたい。
ほかの誰かに笑いかけているところを想像すると、どうにも面白くない。
そして何より。
この青年と、もう一度一緒に生きてみたい。
……ああ。
なんだ。
答えなんて、とっくに出てたじゃねえか。
「……ノエル」
「はい、ロイ様」
俺は、少しだけ笑った。
「俺は、男と恋愛するなんて考えたこともなかった」
「……はい」
「正直、今でも戸惑ってる。お前が男になってることも、こんなに綺麗な顔してることも、全部だ」
ノエルが、少しだけ不安そうな顔をした。
俺は慌てて続けた。
「でもな、お前が男だからって、嫌いになれるわけじゃねえんだよ」
その言葉に、ノエルの瞳が揺れた。
「……それどころか、困ったことに、今のお前を見てると、妙に落ち着かねえんだ」
「……ロイ様?」
「昨日、頭を撫でたときもそうだった。今日だって、お前がほかの騎士と仲良くするところを想像しただけで、なんだか腹が立った」
……ああ、くそ。
言っていて、ますます恥ずかしくなってきた。
こんなことを、よく平気で口にできるな、俺。
前世では、もっと堂々としていたはずなんだが。
しかし、今さら引き返すわけにもいかない。
俺は覚悟を決めて、ノエルを見つめた。
「だから……もう一度、ちゃんと始めてみねえか?」
「……え?」
「ご主人様とメスブタじゃなくて、今度は恋人として」
ノエルは、動かなかった。
澄んだ青い瞳を大きく見開き、俺の顔を見つめたまま、完全に固まっている。
……おい。
なんだ、その反応は。
いつもなら、俺がちょっと優しくするだけで大喜びするくせに。
まさか、ここで沈黙されるとは思わなかったぞ。
「……ノエル?」
「…………」
「……おい。聞いてるか?」
ノエルの唇が、小さく動いた。
「……こ、恋人……?」
「……ああ」
「わたくしが……ロイ様の……?」
「……そう言ってるだろ」
その瞬間だった。
ノエルの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
俺は思わず椅子から立ち上がりかけた。
「お、おい! なんで泣くんだよ!?」
「だ、だって……!」
ノエルは慌てて目元を押さえたが、涙は次々と溢れてくる。
「わたくし……そんなこと、考えてもいませんでした……!」
「……は?」
「もう一度ご主人様にお会いできて、またお仕えすることができれば、それだけで十分だと思っていたんです……!」
ノエルは泣きながら笑った。
「それなのに……恋人だなんて……!」
……なんだよ、それ。
お前、四年間も新生活計画書を作ってたんだろ。
結婚したいとか、一緒に暮らしたいとか、あんなに堂々と言ってたじゃねえか。
なのに。
恋人になろうと言われることだけは、考えてなかったのかよ。
俺は、何とも言えない気持ちで苦笑した。
「……馬鹿だな、お前」
「……はい……」
「いや、今のは叱ってるんじゃねえぞ」
「……わかっております……」
ノエルは涙を拭いながら、嬉しそうに微笑んだ。
その顔を見たとき、俺はようやく気づいた。
ああ。
こいつは、本当に俺のことが好きなんだな。
前世からずっと。
そして、今の人生でも。
俺は椅子から立ち上がり、ノエルのそばへ歩み寄った。
「……なあ」
「……はい」
「抱きしめてもいいか?」
ノエルが、顔を上げた。
その瞳が、また少し潤んだ。
「……はい」
俺は、そっと腕を伸ばした。
白銀の髪が肩へ触れ、ノエルの身体がゆっくりと俺の胸元へ近づいてくる。前世とは違う、成人男性の身体だった。肩幅も、背中の感触も、腕の長さも、何もかも違う。
それでも、ノエルが安心したように身体を預けてきたとき、胸の奥に広がった温かさは、どこか懐かしいものだった。
「……お帰り、ノエル」
俺が小さく呟くと、ノエルは一瞬だけ息を止めた。
それから、俺の背中へそっと腕を回した。
「……ただいま戻りました、ロイ様」
その声は、涙で少し震えていた。
俺は、ゆっくりとノエルを抱きしめた。
前世の最後の夜。
俺たちは互いに手を伸ばした。
あのとき、本当に触れられたのかどうか、今でも覚えていない。
だが、今は違う。
こうして、ちゃんと抱きしめている。
あの夜に失ったと思っていた相手が、別の人生を歩んで、もう一度俺のところへ戻ってきたのだ。
姿も、声も、何もかも変わってしまったけれど。
俺は今、この青年を大切にしたいと思っている。
それだけは、もう疑いようがなかった。
「……なあ、ノエル」
「……はい?」
俺は少しだけ身体を離し、ノエルの顔を覗き込んだ。
濡れた睫毛の奥で、青い瞳が俺を見つめている。
……くそ。
なんて顔してやがる。
こんなに綺麗な男が、俺の言葉ひとつで泣いたり笑ったりするんだから、世の中というのは本当にわからない。
俺は小さく息を吐いた。
「……キス、してもいいか?」
ノエルが目を見開いた。
そして、みるみるうちに頬を赤く染めた。
「……ご主人様……」
「……嫌なら、やめる」
「……いいえ」
ノエルは、小さく首を横に振った。
「……お願いいたします」
その返事を聞いて、俺はゆっくりと顔を近づけた。
ノエルが目を閉じる。
柔らかな唇が、そっと触れた。
ほんの短い口づけだった。
前世では、何度も交わしたことのある行為だ。それなのに、今はひどく緊張してしまった。相手の唇の感触も、触れ合う距離も、何もかもが新鮮で、まるで初めて誰かに口づけたときのように、胸の奥が落ち着かなかった。
ゆっくりと顔を離すと、ノエルは目を開いた。
そして、何とも言えないほど幸せそうに微笑んだ。
「……ご主人様」
「……なんだよ」
「わたくし、今、とっても幸せです」
その言葉は、前世でも何度も聞いたものだった。
だが、今の俺には、少し違って聞こえた。
命令されて嬉しい。
褒められて幸せ。
そんな主従関係の中で交わされていた言葉とは、少し違う。
今のノエルは、恋人になれたことを喜んでいる。
俺もまた、そのことを嬉しいと思っている。
「……俺もだよ」
そう答えると、ノエルは再び涙を浮かべた。
……おいおい。
泣きすぎだろ。
そんなに嬉しいのかよ。
俺は笑いながら、もう一度だけノエルの頭を撫でた。
すると、ノエルは安心したように目を細めた。
その顔を見て、俺は思った。
……ああ。
こいつとなら、もう一度幸せになれるかもしれない。
前世とは違う形で。
今度こそ、互いの気持ちをちゃんと言葉にしながら。
そうして、二人で新しい人生を歩んでいけばいい。
そんなことを考えていると、ノエルがそっと俺の腕を掴んだ。
「……あの、ご主人様」
「……ん?」
「ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……なんだよ」
ノエルは、少しだけ頬を染めた。
……おい。
待て。
その顔は、昨日も見たぞ。
俺は妙な予感を覚えたが、どうやら遅かったらしい。
「わたくしたち、今日から恋人同士なのですよね?」
「……ああ。そうだな」
「では……」
ノエルは、うっとりとした表情で俺を見上げた。
「ご主人様の恋人になれた記念として、今夜は特別なお仕置きをいただけませんでしょうか?」
「なんでそうなるんだああああ!!」
俺の絶叫が、談話室に響き渡った。
ノエルは、嬉しそうに頬を染めた。
「まあっ? 恋人になった途端、こんなに厳しく叱っていただけるなんて!」
「喜ぶな! 今のは断ってるんだよ!」
「はい! もちろん、わかっております!」
「本当か!?」
「はい! ですから、お仕置きについては、これまでどおり保留といたします!」
ノエルは実に満足そうに頷いた。
……あれ?
ちゃんと引いた。
俺が断ったら、それ以上は無理にねだらない。
昨日、あれほど真剣に話し合ったことを、ちゃんと守っている。
……いや。
それはいい。
いいんだが。
なんで恋人になった記念に、真っ先にお仕置きをねだるんだよ。
普通、もう少しこう、あるだろ。
記念日の食事とか。
二人で散歩するとか。
次の休日に出かけるとか。
そういう、普通の恋人らしいことが!
「……ノエル」
「はい、ご主人様!」
「お前なあ……」
俺が頭を抱えていると、ノエルは何かを思いついたように顔を輝かせた。
「では、ご主人様!」
「……今度はなんだ」
「せっかく恋人同士になれたのですから、新生活計画書も改訂しなくてはなりませんね!」
…………。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
……待て。
今、なんて言った?
「……改訂?」
「はい! これまでは、ご主人様とメスブタとしての新生活を想定しておりましたが、今後は恋人としての関係も盛り込まなければなりません!」
ノエルは、実に真剣だった。
「もちろん、ご主人様のお仕事や、わたくしの伯爵家での責務を優先することは変わりません。ですが、恋人同士として過ごす時間についても、きちんと考えなくてはなりませんので!」
「……お、おう」
「それから、恋人同士になった記念日も記録しておきたいですし、今後のお茶会や外出の予定も、できれば早めに……」
「……まあ、そのへんなら」
「そして、将来的には結婚についても?」
「早えよ!!」
「もちろん、今すぐとは申しません!」
ノエルは少しだけ頬を染めた。
「まずは恋人として、ゆっくりお付き合いを重ねてからでございます。ご主人様が望んでくださらなければ、何も勝手には進めません」
……ああ。
そうだったな。
こいつは、ちゃんと成長している。
前世のように、ただ命令をねだるだけではない。
今の自分の人生も、俺の人生も大切にしながら、二人で将来を考えようとしているのだ。
……うん。
それなら、別に悪い話じゃない。
むしろ、こうして一緒に考えていけることが、少しだけ嬉しかった。
「……まあ、計画するだけならいいけどよ」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、俺が嫌だって言ったことは勝手に決めるなよ」
「もちろんです!」
ノエルは、花が咲いたように微笑んだ。
その笑顔が、あまりにもかわいらしくて。
俺は、思わず笑ってしまった。
「……ったく。しょうがねえな、お前は」
「ふふっ。ありがとうございます、ご主人様?」
ノエルも嬉しそうに笑った。
その笑顔を見つめながら、俺は静かに思った。
前世の俺たちは、幸福だった。
だが、恋人と呼び合うことはなかった。
そして、突然の死によって、その関係は終わってしまった。
それから長い時間が過ぎ、俺たちは別の世界で生まれ変わった。
俺は平民の騎士になり、あいつは伯爵家の御曹司になった。
性別も、身分も、名前も、何もかも変わってしまった。
それなのに。
こうして、もう一度出会えた。
今度は、前世の関係に戻るためではない。
今の俺たちとして、新しい関係を始めるために。
……ああ。
そう考えると、神様もなかなか粋なことをしてくれたのかもしれない。
もっとも。
どうしてよりによって、こいつを男にしたのかという疑問だけは、今でも残っているのだが。
「……ご主人様?」
ノエルが、不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「……いや、なんでもねえよ」
俺は、少しだけ笑った。
「これからよろしくな、ノエル」
その言葉に、ノエルは目を細めた。
「はい、ロイ様」
そして、少しだけ頬を赤らめる。
「……わたくしの、大切な恋人」
……っ。
おい。
待て。
なんだ、その破壊力は。
ご主人様と呼ばれることには、もう慣れている。
メスブタと名乗られることにも、ある意味では慣れてしまった。
だが。
こんな綺麗な男に、恋人だなんて言われることには、まったく慣れていない。
しかも、こいつは今、心から嬉しそうに微笑んでいる。
……くそ。
反則だろ、こんなの。
「……ご主人様?」
「……なんだよ」
「お顔が赤くなっていらっしゃいますよ?」
「うるせえ!」
「まあっ?」
「喜ぶな!」
ノエルが、くすくすと笑った。
俺も、とうとう堪えきれなくなって笑ってしまった。
まったく。
どうしようもない恋人ができてしまった。
伯爵家の嫡男で、美しくて、聡明で、礼儀正しくて。
そして、その内側には、前世から筋金入りのメスブタが住みついている。
これから先、いったいどんな騒動に巻き込まれるのか、考えるだけでも頭が痛くなる。
だが。
それでも、いいか。
俺は今、こいつと一緒にいたいと思っている。
前世の女だったあいつではなく。
今世の男であるノエルと。
もう一度、幸せになってみたいと思っているのだから。
「……あっ、ご主人様!」
そのとき、ノエルが何かを思いついたように手を叩いた。
「……今度はなんだよ」
「せっかく恋人同士になれたのですから、ひとつだけお願いがございます!」
……おい。
待て。
嫌な予感がするぞ。
「……なんだ?」
俺が警戒しながら尋ねると、ノエルは満面の笑顔で答えた。
「今夜はぜひ、恋人として、わたくしをたっぷり可愛がってくださいませ?」
「だから俺は男だって言ってるだろおおおお!!」
「はいっ? わたくしも男でございます!」
「知ってるよ!!」
「ですから、前世ではできなかった、今世ならではの素敵な思い出を……?」
「お前は少し黙れえええ!!」
「はいっ?」
ノエルは、世界で一番幸せそうに笑った。
……ああ。
神様。
やっぱり、あんたの考えていることは、さっぱりわからねえ。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
俺の平穏な第二の人生は、完全に終わってしまった。
そして。
どうやら俺は、その原因となった男を、もう一度好きになってしまったらしい。
……くそ。
かわいいじゃねえか。
(完)




