第五節 ――ご主人様が嫌なら、わたくしは
王宮には、いくつもの庭園がある。
王族が客人をもてなすための華やかな庭園もあれば、貴族たちが散策を楽しむための遊歩道もある。そして、宮殿の奥には、王族やその側近、特に許可を受けた客人だけが利用する小さな中庭も設けられていた。
俺がノエルを見つけたのは、その中庭だった。
親善祝宴が終わり、セシリア殿下が御座所へ戻られた頃には、王宮を騒がせた一連の騒動も、ようやく落ち着きを取り戻していた。
もっとも、噂そのものが消えたわけではない。
俺が廊下を歩けば相変わらず侍女たちが妙な顔をするし、顔見知りの騎士からは「お前、いつの間に伯爵家とそんな関係になったんだ?」などと、非常に答えにくい質問をされた。
そのたびに否定して回ったのだが、どういうわけか、否定すればするほど相手は納得したような顔をするのである。
しかも、ある同僚に至っては、俺が「何もしていない」と説明しただけで、「わかってる。そういうことにしておく」と、やけに優しい声で肩を叩いてきた。
わかってねえ。
お前は何ひとつわかってねえよ。
俺は本当に何もしていないんだ。
せめて、そこだけは信じてくれ。
世の中には、否定することでかえって疑惑が深まる事柄があるらしい。
実に勉強になった。
できれば一生、知りたくなかった知識ではあるが。
そんなわけで、俺はすっかり疲れ果てていた。
護衛任務そのものは何事もなく終わったというのに、身体の疲労よりも精神的な疲労のほうが遥かに大きい。剣を振るうより、何もしていないことを証明するほうが難しいとは、今まで知らなかった。
任務終了の報告を済ませ、交代の騎士へ必要な申し送りを行ったところで、ようやく自由な時間ができた。
本来なら、そのまま宿舎へ戻って休むところである。
しかし、今日はどうしても、確かめておきたいことがあった。
ノエルのことだ。
儀典局の執務室を出てから、あいつとは別れたきりだった。
最後に見せた寂しそうな笑顔が妙に気にかかり、祝宴の警護を終えたあと、俺はノエルの姿を探していたのである。
王宮の侍従に尋ねたところ、エヴァレット伯爵家の御子息なら、中庭で休んでいると教えてもらった。セシリア殿下の幼なじみでもあるノエルは、以前からこの中庭を利用することがあり、今日も許可を得て入ったらしい。
てっきり、俺がいない間に別の騒動でも起こしているのではないかと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
……いや、待て。
なぜ俺は、あいつが騒動を起こしていることを前提に考えているんだ。
前世からの付き合いとはいえ、もう少し信用してやってもいいだろう。
実際、ノエルは伯爵家の嫡男として立派に暮らしているらしいし、今日だって俺が関わるまでは、誰からも一目置かれる貴公子だったのである。
……うん。
俺が関わると駄目になるという事実については、今は考えないでおこう。
そんなことを考えながら回廊を抜けると、夕暮れの光に包まれた小さな庭園が現れた。
低く刈り込まれた生垣の向こうには白い花が咲き、中央の噴水からは絶え間なく水の流れる音が聞こえている。王宮の賑わいは厚い石壁に遮られ、遠くからかすかに楽団の音が届く程度だった。
日中は温かかった空気にも、少しずつ夕方の涼しさが混じり始めていた。
その噴水のそばに置かれた石造りの長椅子に、一人の青年が腰掛けていた。
ノエルだった。
白銀の長い髪が夕陽を受けて淡く輝き、細身の身体を包む礼装の白さが、周囲の緑によく映えている。膝の上には両手がきちんと揃えられ、背筋を伸ばした姿勢も、社交界で評判の貴公子にふさわしいものだった。
傍らには、昼間見かけた伯爵家の革鞄が置かれていた。
中には、例のとんでもない新生活計画書も入っているのだろう。
あれだけ騒いだのに、今は鞄を開くことすらせず、一人で静かに座っている。
ノエルは噴水を眺めていた。
何かを考えているらしく、時折、膝の上で指先を小さく動かしている。普段なら俺の姿を見つけた瞬間に駆け寄ってきそうなものだが、今は近づいていく足音にさえ気づいていないようだった。
いつもの笑顔がない。
それだけで、何となく声をかけづらくなってしまった。
……まったく。
元気すぎれば困るし、おとなしくしていれば心配になる。
俺も、ずいぶん面倒くさい人間になったものだ。
少し迷ってから、俺は声をかけた。
「……こんなところにいたのか」
ノエルが顔を上げた。
一瞬、驚いたように青い瞳を見開き、それから慌てて立ち上がろうとする。
「あっ……ご主人様!」
「いや、座ってろ。別にかしこまる必要はねえよ」
俺が手で制すると、ノエルは素直に腰を下ろした。
そして、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……申し訳ございませんでした、ご主人様」
「……その呼び方」
「あ……」
ノエルは口元に手を当て、少しだけ俯いた。
「申し訳ありません。ロイ様」
その瞬間、俺は何とも言えない気分になった。
ロイ様。
さっきもそう呼ばれた。
前世のあいつからは一度も聞いたことのない、俺の今世の名前だった。
もちろん、呼び方を改めろと言ったのは俺自身である。人前でご主人様などと呼ばれては困るし、伯爵令息が平民騎士に妙な態度を取れば、周囲から誤解されるのも当然だ。
だから、ノエルが俺の言葉を守ってくれるのは、ありがたいことのはずだった。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
こいつが俺を名前で呼ぶと、妙に他人行儀に聞こえる。
前世では、あれほど親しかった相手なのに。
「……別に、今は二人きりだろ」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
ノエルは驚いたように顔を上げたが、俺はすぐに視線を逸らした。
「いや、だからって、何でも好きに呼んでいいって意味じゃねえぞ。とにかく、そんなに畏まるなって言ってるんだ」
「……はい」
ノエルは小さく頷いた。
しかし、いつものように嬉しそうな笑顔を浮かべることはなかった。
俺は長椅子の横に立ったまま、しばらく言葉を探した。
何から話せばいいのだろう。
大広間での騒動を注意するべきか。それとも、儀典長のもとへ勝手に押しかけたことについて話すべきか。
だが、どちらもすでに十分すぎるほど言い聞かせたことだった。
それに、ここへ来たのは叱るためではない。
儀典長に注意されたことも、俺の仕事が危うくなりかけたことも、ノエルはちゃんと理解してくれたはずだ。
今さら同じ話を繰り返したところで、あいつをさらに落ち込ませるだけかもしれない。
そう考えていると、ノエルが静かに口を開いた。
「……わたくし、嬉しかったのです」
「……ん?」
「今日、ロイ様にお会いできて。本当に、嬉しかったのです」
その声は穏やかだった。
けれど、普段のような浮かれた響きはなかった。
「十八歳のとき、突然、前世の記憶を思い出しました。最初は何が起こったのかわからなくて、ひどく混乱したんです。知らない場所の景色や、こちらの世界にはない道具、それから……前世で暮らしていた部屋のことまで、何もかも一度に思い出してしまって」
ノエルは、自分の手元へ視線を落とした。
「そのとき、真っ先に思い出したのが、ご主人様のお顔でした」
俺は黙って聞いていた。
前世の記憶を取り戻したときの混乱なら、俺にも覚えがある。
幼い頃、突然、自分が別の世界で生きていたことを思い出した。知らないはずの言葉が理解でき、見たこともない街並みが頭に浮かび、目の前の家族とは別の人生が、自分の中に存在していることを知った。
あのときは、夢でも見ているのかと思ったものだ。
だが、ノエルの場合は十八歳だった。
すでに伯爵家の嫡男として教育を受け、周囲から将来を期待される年齢になってから、突然、まったく別の人生を思い出したのである。
「……怖くなかったのか?」
俺が尋ねると、ノエルは少し考えた。
「……最初は、怖かったです」
その返事は、驚くほど素直だった。
「自分が自分ではなくなってしまうような気がして。今まで覚えてきたこととは違う言葉が浮かんだり、見たこともないはずの場所を懐かしく感じたりするのが、不思議で……」
ノエルは小さく微笑んだ。
「でも、だんだんわかってきたんです。あれも確かに、わたくしの人生だったのだと。こちらの世界で生きてきた十八年間が嘘になるわけでもありませんし、前世でご主人様と過ごした日々が、なくなってしまうわけでもないのだと」
「……そうか」
「それから、ずっとお探ししていました」
ノエルは、膝の上で重ねていた指をゆっくりと組み直した。
「前世の記憶を持つ方がほかにもいらっしゃるのか、転生について何か記録が残っていないのか、書物を調べたり、旅人のお話を聞いたり……。最初は、どこから手をつければいいのかもわかりませんでした」
「……四年間、ずっとか」
「はい」
ノエルは頷いた。
「もちろん、探しているだけで毎日を過ごしていたわけではございません。伯爵家の仕事も覚えなければなりませんでしたし、父上からは領地経営について、母上からは社交や家同士のお付き合いについて、いろいろと教えていただきました」
そう言って、少しだけ懐かしそうな顔をする。
「初めて領地の収穫台帳を任されたときなどは、数字の多さに頭が痛くなりました。父上は、帳簿の数字だけでは領民の暮らしはわからないとおっしゃって、実際に村を訪ねる機会も作ってくださったんです」
「……へえ」
「わたくし、ああいうことは好きなんです。書類だけでは見えないものを、自分の目で確かめられますから。領地には年配の農夫もいらっしゃいますし、遠くの街から来る商人の方もいます。いろいろなお話を伺うのは、とても勉強になります」
ノエルは、そこで少し照れくさそうに笑った。
「もっとも、旅先のお話を聞くたびに、前世の記憶を持つ方についても、それとなく尋ねておりましたけれど」
「……お前、そんなことまでしてたのか」
「はい。父上からは、ずいぶん珍しいことに興味を持つようになったと言われました」
俺は思わず、口元を緩めた。
伯爵家の嫡男として真面目に領地経営を学び、その一方で、旅人や商人から前世の記憶について聞き回る。
何とも、こいつらしい話だった。
ただ、そこで改めて気づかされたことがある。
俺が知らないところで、ノエルはちゃんと自分の人生を歩んでいたのだ。
伯爵家の息子として学び、家族と過ごし、領地の人々と関わりながら、その日々の中で俺を探し続けていた。
前世のあいつが、ただ美しい青年になっただけではない。
俺と出会うまでの二十二年間に、俺の知らない経験を積み重ねてきた人間なのだ。
「……それで、何かわかったのか?」
「少しずつ、手掛かりらしいものは集まりました。でも、確かなことはなかなかわからなくて……」
ノエルは噴水へ視線を向けた。
夕陽が水面に反射し、白い石の縁へ淡い光を落としている。
「途中で、何度も思いました。もしかしたら、ご主人様はこの世界にはいらっしゃらないのかもしれない、と」
俺は思わず、ノエルの顔を見た。
「わたくしだけが転生したのかもしれませんし、ご主人様は別の世界に生まれ変わっていらっしゃるのかもしれません。それに、同じ世界にいらっしゃったとしても、前世の記憶をお持ちとは限りませんから」
ノエルの声は、少しずつ小さくなっていった。
「お顔も、お名前も、変わっているかもしれない。もしお会いできたとしても、わたくしだと気づいていただけないかもしれない。そう考えると……少し、怖かったんです」
「……ノエル」
「わたくし、時々、自分でもおかしなことをしていると思いました」
彼は膝の上へ視線を戻し、指先を静かに重ねた。
「見つかるかどうかもわからない方を、いつまでも探しているなんて。ご主人様が同じ世界にいらっしゃるという証拠さえ、最初は何もありませんでしたから」
俺は返事をしなかった。
こいつがどれほど俺を慕っていたのかは、前世から知っているつもりだった。
何かあるたびにご主人様と呼び、くだらない命令を喜び、俺の帰りを待っていてくれた女だった。
だが、今の話を聞いていると、その頃とは違うものが見えてくる。
確かな約束もなく、会える保証もない相手を、四年間も探し続ける。
それは、ただ従順でいれば済む話ではない。
自分で考え、自分で選び、会えないかもしれないという不安を抱えながら、それでも諦めずに行動し続けなければならないのだから。
「……それに、ご主人様には、ご主人様の人生がございますでしょう?」
ノエルは顔を上げた。
青い瞳が、夕暮れの光を受けて静かに揺れている。
「こちらの世界で、すでに大切な方がいらっしゃるかもしれない。ご結婚なさって、お子様がいらっしゃるかもしれない。そうなっていたら、わたくしが突然現れても、ご迷惑になるだけですものね」
俺は何も言えなかった。
そんなことまで考えていたのか。
今日の騒ぎを見ている限りでは、昔の関係を取り戻すことしか頭にないように思えた。
だが、そうではなかったらしい。
こいつなりに、何度も考えていたのだ。
俺が別の誰かと幸せになっている可能性まで。
「……だったら、どうするつもりだったんだよ」
俺が尋ねると、ノエルは少し困ったように笑った。
「わかりません」
「……わからない?」
「はい。お幸せでいらっしゃるなら、邪魔をしてはいけないと思っていました。でも、実際にお会いしたら、きっと我慢できないでしょうし……。ですから、まずはお会いして、それから考えようと思っていたんです」
「……ずいぶん行き当たりばったりだな」
「ふふ。そうですね」
ノエルは小さく笑った。
「新生活の計画書は、あんなに細かく作っていたくせによ」
「……あれは、叶ったらいいなと思うことを、たくさん書き留めていただけですから」
「……そうだったのか?」
「はい。書いている間は、ご主人様にまたお会いできるような気がしたんです」
ノエルは、隣に置いた革鞄へ視線を落とした。
その中には、四年間かけて作られたという、例の豪華な計画書が収められている。
朝の挨拶から命令回数、お仕置きの頻度まで細かく記された、あの馬鹿馬鹿しい冊子だ。
正直に言えば、俺はあれを見たとき、こいつは一体何を考えているんだと思った。
いや、今でも内容については同じ感想である。
ただ、あの冊子を作っているときのノエルが、毎回幸せそうな顔をしていたとは限らないのかもしれない。
もう会えないかもしれない。
それでも、いつか再会できたら。
そう願いながら、頁を一枚ずつ増やしていったのだとしたら。
……なんだよ、それ。
そんな事情を知ってしまったら、もう単純に笑えないじゃねえか。
「わたくし、またお会いできるだけで、十分幸せだったはずなのです」
ノエルは、静かにそう言った。
そして、膝の上で両手を重ねる。
「なのに、お顔を見たら……嬉しくなってしまって。昔みたいに甘えてもいいんだって、勝手に思ってしまいました」
そこで言葉を切り、ゆっくりと息を吐いた。
「ずっとお会いしたかった方が、目の前にいらっしゃるんですもの。もう二度と会えないと思っていたご主人様が、わたくしを見てくださったんですもの。嬉しくて、嬉しくて……何を話せばいいのかもわからなくなってしまって」
俺は、ようやく理解した。
こいつが大広間で、あんな馬鹿げた騒ぎを起こした理由を。
あのとき、ノエルは俺を見つけた瞬間、泣きそうなほど嬉しそうな顔をしていた。
それを見た俺は、ただ驚いた。
男になっていることに。
伯爵家の御曹司になっていることに。
そして、前世とまったく変わらない調子で、ご主人様だのメスブタだのと叫び始めたことに。
もちろん、あれだけの騒動を起こされれば、誰だって慌てる。
俺は王女殿下の護衛騎士なのだし、周囲の目や仕事への影響を気にするのは当然だった。
だが、その一方で。
俺は、ノエルの喜びをどこまで見ていただろう。
こいつは、ただ調教してほしくて騒いでいたわけではない。
ずっと探していた相手に、ようやく会えたのだ。
だから、前世と同じ呼び方をした。
以前と同じように甘えた。
俺が怒鳴り返せば、あの頃と同じやり取りができることを喜んだ。
そうしていれば、失ったはずの時間を取り戻せるような気がしたのかもしれない。
「……でも、ロイ様は、お困りになっていました」
ノエルは、少しだけ俯いた。
「わたくしが嬉しいからといって、ロイ様も同じようにお喜びになるとは限りませんものね。それなのに、昔のように接していただけることが嬉しくて、つい甘えてしまいました」
「……ああ」
「ご主人様と呼んだとき、あんなに驚いていらっしゃったのに。それでも、わたくしが前世のことを覚えているとわかったときには、嬉しそうにしてくださって……」
ノエルの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「ですから、わたくし、きっと大丈夫なのだと思ってしまったんです」
俺は、その言葉を聞いて胸が痛くなった。
あの小客間で、俺は確かに嬉しかった。
前世のあいつだとわかったとき、思わず抱きしめたくなるほど嬉しかったのだ。
なのに、そのあとすぐに、男だの身分が違うだのと騒ぎ始めてしまった。
もちろん、それらは無視できない問題だった。
だが、俺が嬉しかったことまで、きちんと伝えられていただろうか。
「……馬鹿だな、お前」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ノエルが少し驚いたように顔を上げる。
「……はい」
「いや、今のは……悪い意味じゃねえよ」
俺は苦笑した。
「四年も探してたんなら、会えたときくらい、もう少し普通に喜べばよかっただろ。抱きつくとか、泣くとか、そういうのがあるじゃねえか」
「……抱きついても、よろしかったのですか?」
「……いや、今のは例え話だ!」
「そうですか……」
ノエルは少し残念そうに俯いた。
……しまった。
また余計なことを言った。
こいつは昔から、こういう言葉を聞き逃さない。少しでも可能性を示すと、すぐにそこから希望を見出してしまうのだ。
もっとも、今のノエルには、いつものように俺を困らせようとする気配はなかった。
ただ、本当に残念そうにしているだけだった。
その様子を見て、俺は思った。
……抱きつかせてやるくらい、別によかったんじゃないか。
そう考えたことに、自分で少し驚いた。
いや、もちろん、王宮の大広間で抱きつかれたら困る。
仕事中だし、相手は伯爵家の御曹司だ。
そんなことをされたら、それこそ周囲の誤解がひどくなる。
だが、今は違う。
もう任務も終わっているし、ここには俺たちしかいない。
そう考えると、別に抱きつかれたところで、どうということもないような気がした。
……いや、待て。
どうということもない、か?
目の前にいるのは、男だぞ。
しかも、とんでもなく綺麗な男だ。
こいつがその長い腕を俺の背中に回して、あの美しい顔を近づけてきたら。
……いや、やめろ。
何を想像しているんだ、俺は。
別に抱きつくくらい、男同士でも珍しいことじゃないだろう。
騎士団の仲間だって、勝利を祝って肩を抱き合うことくらいある。
なのに、どうしてノエルが相手だと、こんなに妙なことを考えてしまうんだ。
俺は小さく咳払いをし、どうにか思考を切り替えた。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
ノエルが何を話そうとしているのか、最後まで聞いてやるべきなのだから。
「……ロイ様」
ノエルが、遠慮がちに声をかけてきた。
俺は顔を上げた。
彼は少し迷っているようだった。何かを言おうとしては唇を閉じ、膝の上で指先を握り直している。
先ほどまで、自分の気持ちをあれほど素直に話していたのに、今度はなかなか言葉が出てこないらしい。
「……なんだよ」
「ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……おう」
ノエルは小さく息を吸った。
そして、まっすぐ俺を見つめた。
「ロイ様は……男になってしまったわたくしがお嫌いですか?」
その問いに、俺は答えられなかった。
庭園を流れる水の音が、妙にはっきり聞こえた。
噴水のそばで風に揺れていた白い花が、小さく首を傾げるように動いている。
俺は目の前の青年を見つめた。
白銀の髪。
青い瞳。
整った鼻筋と、柔らかな輪郭を描く唇。
誰が見ても、美しい青年だった。
そして、男だった。
前世のあいつは女だった。
俺も男で、今まで恋愛の相手として考えてきたのは女性ばかりだった。美しい男を見れば美しいと思うことはあっても、そこから先のことを想像した経験など、一度もなかった。
だから、戸惑った。
今のノエルを見て、どう接すればいいのかわからなかった。
前世と同じように甘えられても、あの頃のように応じていいのか判断できなかった。
だが。
嫌いなのかと聞かれれば、話は別だった。
「……わたくしは」
ノエルが、静かに続けた。
「今の自分が嫌いなわけではないのです」
俺は顔を上げた。
「父上も母上も、わたくしを大切に育ててくださいましたし、伯爵家の息子として生きてきたことを、後悔しているわけでもありません。今の身体も、今の名前も、わたくしにとって大切なものです」
ノエルは、自分の手元へ視線を落とした。
細く長い指が、膝の上で静かに重なっている。
「でも……ご主人様にとっては、違うかもしれないと思ったんです」
声が、ほんの少し震えた。
「前世のわたくしは女でした。ご主人様がお慕いくださっていたのが、あの頃のわたくしだったのなら……今のわたくしを見て、がっかりなさるのではないかと」
「……ノエル」
「ですから、もし……」
ノエルは、一度だけ言葉を止めた。
それから、何とか微笑もうとした。
「もし、今のわたくしではお嫌だとおっしゃるのでしたら、無理に以前の関係へ戻っていただこうとは思いません」
俺は、思わず息を呑んだ。
その言葉を口にするのに、こいつがどれほど勇気を使ったのか。
俺には、はっきりとはわからない。
だが、ノエルが膝の上で指を強く握りしめていることだけは、嫌でも目に入った。
さっきまで、あんなに嬉しそうだったのに。
四年間も探し続けて、ようやく再会できたというのに。
今、こいつは俺の返事ひとつで、その先の希望を諦めようとしている。
……くそ。
何をやっているんだ、俺は。
あいつはずっと、自分の気持ちを伝えていた。
なのに俺は、どう答えればいいのかわからないという理由で、まともに向き合おうとしてこなかった。
俺が黙っていると、ノエルは少し不安そうに目を伏せた。
その仕草を見て、俺はようやく口を開いた。
「……お前が嫌いなわけじゃない」
ノエルの顔が上がる。
「……本当ですか?」
「ああ。本当だよ」
俺は小さく息を吐き、後頭部を掻いた。
「ただ、俺だって混乱してんだよ。お前は前世のあいつで、でも、今はノエルなんだろ」
「……はい」
「昔と同じ部分もある。でも、違う部分だってあるはずだ。今のお前は、この世界で二十二年間も生きてきたんだからな」
ノエルは黙って聞いていた。
俺も、自分が何を言おうとしているのか、まだ完全には整理できていなかった。
ただ、今までのように、男だからとか、身分が違うからとか、そんな理由だけで答えを先延ばしにするのは違う気がした。
もちろん、性別の違いに戸惑っているのは本当だ。
今のノエルを恋愛の相手として考えられるのかと問われれば、すぐに答えられる自信はない。
だが、だからといって、こいつのことを何も知ろうとせずに結論を出してしまっていいのだろうか。
俺はもう一度、ノエルの顔を見た。
怯えたように俺の返事を待つ青い瞳。
何かをお願いするとき、必ず少しだけ首を傾げる癖。
嬉しいときに、目尻が柔らかく下がるところ。
困ったとき、唇を小さく結ぶところ。
姿は変わった。
声も違うし、身体も違う。
それでも、そこにいるのは確かにあいつだった。
同時に、俺の知らない青年でもあった。
伯爵家の息子として教育を受け、領地の仕事を学び、旅人や商人から話を聞くことを楽しみながら、四年間も俺を探していた男。
前世のあいつと同じ記憶を持ち、同じように笑いながら、それでも自分の人生を歩んできた、ノエル・フォン・エヴァレットという人間だ。
そのことに、俺はようやく気づき始めていた。
「……俺はまだ、今のお前を何も知らない」
自分でも意外な言葉だった。
しかし、口にしてみると、それが一番しっくりきた。
「伯爵家でどんな暮らしをしてきたのかも、何が好きで、何が嫌いなのかも、どんな友達がいて、これから何をしたいと思ってるのかも。前世のことなら多少は知ってるけど、今のお前については、何も知らねえんだよ」
ノエルは、しばらく俺を見つめていた。
その表情が、ゆっくりと変わっていく。
悲しそうだった瞳に、少しずつ光が戻ってきた。
それでも、いつものように大喜びして飛びついてくることはなかった。
「……それは、ロイ様も同じです」
「……ん?」
「わたくしも、今のロイ様については、まだ何も知りません」
ノエルは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「騎士になられたことも、今日初めて自分の目で確かめました。お仕事をとても大切にされていることも、王女殿下から信頼されていらっしゃることも、今日のお姿を見て、ようやく実感できたのです」
その言葉に、俺は思わず黙った。
「前世のご主人様は、わたくしの帰りを待ってくださる方でした。でも、今のロイ様は、誰かをお守りするために、毎日剣を握っていらっしゃるのですね」
「……まあ、そうだな」
「ですから、わたくしも、もっと知りたいのです」
ノエルは膝の上に置いていた手をそっと開き、俺を見上げた。
その眼差しは、さっきまでとは違っていた。
何かを命じられるのを待っているわけではない。
俺の言葉に従おうとしているわけでもない。
ただ、自分の気持ちを伝えようとしている。
「では……」
風が吹いた。
白銀の髪が肩先で揺れ、淡い花の香りが二人の間を通り抜けていく。
ノエルは、一度だけ小さく息を吸った。
「これから、知っていただけませんか?」
俺は、思わず息を止めた。
ノエルは、まっすぐ俺を見つめていた。
「前世のわたくしだけではなく、今のわたくしのことも。何が好きで、何が嫌いなのか、どんな毎日を過ごしてきたのか……少しずつで構いませんから、知っていただきたいのです」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「そして、わたくしにも、今のロイ様のことを教えていただけませんか?」
俺は何も言えなかった。
前世では、あいつはいつも俺に命令を求めていた。
何をすればいいのか。
何を望んでいるのか。
どうすれば喜んでもらえるのか。
そんなことばかり尋ねてきた。
だが、今は違った。
ノエルは、自分のことを知ってほしいと言っている。
俺のことも知りたいと、そう言っている。
しかも、その言葉のどこにも、ご主人様としての命令を求める響きはなかった。
俺に決めてほしいのではない。
俺に選んでほしいのだ。
前世の関係を取り戻すためではなく、今の自分と、もう一度向き合ってほしいと願っている。
……なんだよ。
そんな顔で言うなよ。
今まで散々、俺をご主人様と呼んで騒いでいたくせに。
そんなに真っ直ぐな目で見つめられたら、どう答えればいいのかわからなくなるじゃねえか。
しかも、困ったことに。
俺は、その願いを少しも嫌だと思わなかった。
むしろ、聞いてみたいと思った。
こいつがどんな人生を歩んできたのか。
どんな友達がいて、どんなことに夢中になり、どんな失敗をしてきたのか。
俺を探していなかった時間には、何をして過ごしていたのか。
そして、これから先、どんな人生を歩みたいと思っているのか。
前世のあいつについては、俺もそれなりに知っていたつもりだ。
けれど、今のノエルについては、知らないことばかりだった。
そのことが、急に気になり始めた。
俺は、静かに息を吐いた。
「……そうだな」
ノエルの瞳が、小さく揺れた。
「俺も、お前のこと、もう少し知ってみたい」
言ってから、妙に気恥ずかしくなった。
いや、何だ。
別に変なことは言っていない。
知り合いについてもっと詳しく知りたいと思うのは、普通のことだろう。
ただ、目の前にいる青年が、あまりにも嬉しそうな顔をしたものだから、何となく落ち着かなくなってしまったのだ。
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、今すぐ何もかも決められるわけじゃねえぞ」
「……はい」
「俺だって、自分の気持ちがどうなってんのか、まだよくわかってねえんだから」
正直にそう言うと、ノエルは少し驚いたように瞬きをした。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
その声は、静かだった。
いつものように頬を染めて大喜びするわけでもなければ、命令をねだって甘えてくるわけでもない。
ただ、心から嬉しそうに微笑んでいた。
俺は、その笑顔を見つめた。
……ああ。
こいつ、こんな顔もするんだな。
前世からずっと知っているつもりだった相手なのに。
今になって、初めて見る顔がある。
あの頃のあいつは、俺を見上げて笑うことが多かった。
命令を待つときも、褒められたときも、何でもない日常の中でも。
だが、今のノエルは違う。
長椅子に腰掛けたまま、少し不安そうに、けれど確かな期待を込めて、俺の返事を待っている。
その表情を見ているうちに、俺は不思議なことに気づいた。
前世では、あんなに近くにいた相手だった。
同じ部屋で暮らし、何度も笑い合い、互いのことを知っているつもりでいた。
それなのに、今はたった数歩の距離が、妙に遠く感じられる。
そして、その距離を縮めたいと思っているのが、ノエルだけではないことにも。
俺はようやく、気づき始めていた。
……まったく。
今さら、何を緊張しているんだろうな。
前世では、もっと近くにいたくせに。
それでも。
今のこいつとは、まだ何も始まっていないのだ。
俺は目の前の青年を見つめながら、小さく笑った。
「……なあ、ノエル」
「はい、ロイ様」
その返事を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
ご主人様ではなく、ロイ様。
俺がそう呼べと言ったからではなく、ノエル自身が、今の俺をそう呼んでくれている。
そのことが、今は不思議と嬉しかった。
俺は長椅子へ視線を落とし、少しだけ迷ってから、ノエルの隣へ歩み寄った。
まだ、答えは出ていない。
こいつをどう思っているのかも、これからどういう関係になるのかも、何ひとつ決まっていない。
だが、少なくとも。
もう一度、きちんと向き合ってみたい。
そう思ったことだけは、確かだった。
前世のご主人様とメスブタではなく。
今世のロイとノエルとして。
俺たちは、ようやく互いを知り始めたのだ。




