第四節 ――王宮に広まる禁断の主従関係
人の噂というものは、実に恐ろしい。
たとえば、誰かが転んだという話があったとする。
それが三人の口を経由すれば階段から転落したことになり、五人を経由すれば何者かに突き落とされたことになり、十人を経由する頃には、王宮を揺るがす暗殺未遂事件にまで発展している。
もちろん、いくらなんでも大袈裟だろうと思うかもしれない。
俺だって、今朝まではそう思っていた。
しかし、今なら断言できる。
噂に尾ひれがつくなどという生易しいものではない。あいつらは勝手に手足を生やし、翼まで広げて飛んでいくのである。しかも、誰かが止めようとする頃には、立派な怪物になって王宮の屋根の上を飛び回っているのだから始末に負えない。
そして、俺の場合は少々事情が特殊だった。
なにしろ、噂の出発点がすでにおかしい。
伯爵家の御曹司が、平民騎士をご主人様と呼んでいる。
しかも、自分をメスブタと称している。
おまけに、叱られると喜ぶ。
……うん。
改めて考えてみても、ひどい話だ。
これだけで十分に異常なのだから、わざわざ話を盛る必要などないと思うのだが、世の中の人々はどうやら俺の想像以上に娯楽に飢えていたらしい。
王宮の小客間でセシリア殿下を交えた話し合いが行われている頃には、すでに大広間での出来事が貴族たちの話題になっていた。
「お聞きになりまして? エヴァレット伯爵家のご嫡男が、平民出身の騎士を『ご主人様』とお呼びになったそうですわ」
「まあ! あのノエル様が?」
「ええ。それも、大勢の貴族が見ている前で」
「何か特別な関係なのでしょうか?」
「どうやら、叱られることを望んでいらっしゃるとか……」
「まあ、なんという倒錯した……!」
そこまでは、まだいい。
いや、まったくよくないのだが、少なくとも事実に基づいている部分はある。
問題は、その先だった。
「そういえば、ノエル様は伯爵家の紋章が入った立派な鞄をお持ちでしたわね」
「まあ。では、何か正式な書類を?」
「主従関係なのですから、当然、誓約書くらいあるのではなくて?」
「誓約書!?」
「しかも、セシリア王女殿下が、お二人を別室へお呼びになったそうですわ」
「では、王女殿下もご存じなの!?」
「ご存じどころか、殿下もお二人の関係をお認めになったとか……」
待て。
待て待て待て。
どこからそうなった。
確かに、伯爵家の紋章入りの鞄はあった。
その中には、例の『ご主人様との素敵な新生活計画』という、社会的な意味では持ち歩かないほうがいい代物も入っていた。
さらに、正式な書式を使った雇用契約書まで用意されていたのも事実である。
だが、あれはノエルが俺を私的な随行者として雇おうとするための契約案であって、秘密の主従誓約書などではない。
俺は署名していないし、伯爵家の正式な承認も受けていない。
そもそも、その書類を見たのは、俺とノエルとセシリア殿下だけだ。ほかの人間が中身を知っているはずもないのに、主従関係という言葉と伯爵家の鞄が結びついただけで、勝手に秘密の誓約書が誕生してしまったらしい。
しかも、王女殿下の公認だと?
冗談じゃない。
殿下は、互いの意思を尊重して話し合えと仰っただけだ。
別に、俺たちの特殊な関係を国家として承認したわけではない。
王宮に、メスブタ公認制度なんかあってたまるか。
もっとも、俺がそんな恐ろしい噂の存在を知ることになったのは、少しあとのことである。
* * *
小客間での話し合いを終えた俺たちは、再び大広間へ戻っていた。
親善祝宴はまだ続いており、各国の使節が王族や高位貴族たちと談笑している。楽団は優雅な舞曲を奏で、給仕たちは何事もなかったかのように料理や飲み物を運んでいた。
表面上は、先ほどまでと何も変わらない祝宴である。
ただし。
俺を見る目だけが違っていた。
王女殿下の背後に控えるため、決められた護衛位置へ戻ったところで、近くにいた貴婦人たちが揃ってこちらを見た。
目が合うと、彼女たちは慌てて扇で口元を隠し、何やら小声で囁き合い始める。
別の場所では、若い貴族の男たちが俺を眺めながら、妙に感心したような顔をしていた。
おい。
なんだ、その視線は。
どうして俺を見て、そんなに深々と頷くんだ。
何に納得しているのか知らんが、俺は何もしていないぞ。
俺はいつもどおり、王女殿下の警護に集中しようとした。
客人の人数、給仕の動線、出入口の警備状況。そうしたものを確認している間だけは、余計なことを考えずに済む。
実際、仕事そのものには何の支障もなかった。
先ほどまでの騒動で少々精神的に疲れてはいたものの、身体が動かなくなったわけではないし、剣を扱う腕が鈍ったわけでもない。王女殿下の周囲には同僚の騎士も控えており、警護体制は正常に維持されている。
問題があるとすれば、俺を見る周囲の人間の態度だった。
例えば、給仕だ。
俺が近くを通りかかった給仕に視線を向けると、その青年はなぜか妙に緊張した顔をした。
「な、何かお申しつけでしょうか、フェルナー卿!」
「いや、殿下のお飲み物を確認したかっただけだが」
「はっ! 直ちに!」
「そんなに慌てなくていい」
「し、失礼いたしました!」
給仕は深々と頭を下げると、逃げるように去っていった。
……なんだ?
俺、そんなに怖い顔をしていたか?
その直後、少し離れたところから小さな声が聞こえてきた。
「……今のも、ご命令なのかしら」
「まあ、あんなにお若いのに、堂々としていらっしゃること」
おい。
待て。
普通の業務上の指示まで妙な意味に解釈するんじゃねえ。
このままでは、俺が誰かに「そこを通してくれ」と言っただけで、王宮中が不穏な空気に包まれてしまうではないか。
そもそも、騎士が任務中に指示を出すのは当たり前だろう。
それをいちいち変な目で見られていたら、仕事にならない。
「……フェルナー卿」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、見覚えのある宮廷官吏が立っていた。儀典局に所属する若い文官で、普段は祝宴の席次や来賓の案内などを担当している人物だ。
彼は俺に軽く会釈すると、少し言いにくそうに口を開いた。
「あの……差し出がましいことをお伺いしますが」
「なんでしょう」
「エヴァレット伯爵家のノエル様とは、以前から親しいご関係で?」
「……本日、初めてお会いしました」
嘘は言っていない。
少なくとも、今世では初対面である。
「そうですか。しかし、ノエル様はずいぶんと親しげでいらっしゃいましたね」
「ええ、まあ……」
「それに、その……」
文官は一度周囲を見回し、声を落とした。
「ご主人様とお呼びになっていたとか」
「……ええ」
「お叱りになると、大層お喜びになるとも」
「…………」
「その、何か特別なご指導を?」
俺は一度、深く息を吸った。
落ち着け。
今は勤務中だ。
王女殿下の護衛騎士が、こんな場所で怒鳴り散らすわけにはいかない。
「そのような事実はございません。ノエル様の発言については、本人にも公の場での振る舞いに注意していただくよう、お伝えしております」
よし。
完璧だ。
冷静で、礼儀正しく、しかも事実に即した説明である。
さすが俺。
騎士団で鍛えられた自制心は伊達ではない。
「なるほど……」
文官は、なぜか真剣な顔で頷いた。
「つまり、公の場では慎むようにと、ご指導なさったわけですね」
「……はい?」
「そして、私的な場でのことについては、お二人の間で取り決めがあると」
「そういう意味ではございません!」
「いえ、ご安心ください。私も宮廷に仕える者ですから、私的な事情について詮索するつもりはありません」
「ですから、特別な取り決めなど……」
「承知いたしました。儀典局としては、公式行事に支障がなければ結構でございます」
……ん?
待て。
なんだか、話が妙な方向へ進んでいないか?
文官は胸元から小さな手帳を取り出すと、何かを書き留めた。
「念のため、ひとつだけ確認させてください」
「……何でしょう」
「ノエル様に対する儀礼上の扱いは、従来どおりでよろしいのですね?」
「もちろんです」
「では、フェルナー卿をノエル様より上位の席へご案内する必要はない、と」
「あるわけないだろうが!!」
しまった。
つい声が大きくなった。
近くにいた貴婦人たちが、びくりと肩を震わせる。
俺は慌てて口を閉じたが、もう遅かった。
文官は驚いたように目を見開いたあと、深々と頭を下げた。
「失礼いたしました。もちろん、公式の席次に私的な関係を持ち込むべきではありませんね」
「……そのとおりです」
「勉強になりました」
……何を学んだ。
お前は今、何を学んだんだ。
しかも文官は、手帳に何か書き加えている。
やめろ。
頼むから、俺とノエルの特殊な関係を宮廷儀礼の研究対象にするな。
新しい席次規定なんか作られてたまるか。
「それでは、失礼いたします」
文官は丁寧に一礼すると、足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は途方に暮れた。
……駄目だ。
冷静に説明しても駄目なのか。
怒鳴っても誤解されるし、丁寧に話しても別の意味に取られる。
このままでは、そのうち騎士団の訓練で後輩に指導しただけでも、妙な噂を立てられかねない。
俺はただの騎士なんだ。
ごく普通の、真面目な護衛騎士なんだよ。
そんな俺の願いが届くはずもなく、事態はさらに悪化した。
それから間もなく、俺は儀典長から呼び出しを受けたのである。
* * *
セシリア殿下の許可を得て、交代の護衛騎士に持ち場を引き継いだ俺は、王宮の東棟にある儀典局の執務室へ向かった。
廊下を歩いている間も、すれ違う侍女たちが妙にそわそわしている。俺に気づくと慌てて視線を逸らす者もいれば、逆に興味津々といった様子で見つめてくる者もいた。
中には、頬を赤らめながら俺に一礼する侍女までいた。
……待ってくれ。
今、何を想像した?
お前たちの頭の中で、俺はいったい何をしていることになっているんだ?
しかも、そのうちの一人が、俺の背後を確認するように視線を動かしている。
……ノエルを探しているのか?
まさか、俺たちが常に一緒に行動しているとでも思っているんじゃないだろうな。
俺には仕事がある。
ノエルにも伯爵家の嫡男としての務めがある。
別に、どこへ行くにも一緒というわけではない。
……そもそも、あいつの希望どおりにしていたら、今頃は俺の私生活から騎士団の勤務時間まで、全部あの新生活計画書に組み込まれているところだったのだが。
思い出しただけで、頭が痛くなってきた。
そんなことを考えながら執務室へ入ると、机の向こうに座っていた初老の男が、厳しい表情で俺を迎えた。
王宮儀典長、バルド・グランツ。
王族の公式行事を長年取り仕切ってきた人物であり、礼儀作法や宮廷の秩序については、騎士団長ですら一目置くほどの権威を持っている。
銀混じりの髪をきちんと撫でつけ、皺ひとつない礼服を身につけた姿は、まさしく規律を人間の形にしたようなものだった。
俺のような若い騎士にとって、できれば仕事上の不手際以外ではお世話になりたくない相手である。
というか、正直に言えば、仕事上の不手際でもお世話になりたくない。
この人の前に立つと、なぜか訓練兵だった頃の気分に戻ってしまうのだ。
「ロイ・フェルナー卿」
「はっ!」
「本日の祝宴における、エヴァレット伯爵家のノエル様との一件について、事情を伺いたい」
来た。
とうとう来てしまった。
俺の人生最大の危機が。
「まず確認しておくが、ノエル様との間に、何らかの個人的な関係があるのかね?」
「……極めて説明の難しい事情がございます」
「説明が難しい?」
「はい」
「それは、他人に知られては困るような関係という意味か?」
「いえ。そういう意味ではございません」
俺は必死に平静を保ちながら答えた。
「自分とノエル様は、本日初めてお会いしました。ノエル様が以前から自分に特別な親しみを感じておられたことについては、本人から説明を受けておりますが、少なくとも現在、自分があの方に何らかの要求をしているという事実はございません」
我ながら、よくまとまった説明だったと思う。
前世の話をしなければ、これ以上詳しく話せない部分もあるが、今の関係については嘘をついていない。
しかも、余計な単語を一切使わずに済んだ。
ご主人様。
メスブタ。
調教。
お仕置き。
これらの言葉を使わずに説明できたことだけでも、俺としては大きな進歩である。
だが、儀典長は少しも表情を緩めなかった。
「なるほど。では、ノエル様のお言葉や行動については、君も困惑しているということだな」
「仰るとおりでございます」
「しかし、君はあの方の発言に対し、大広間で何度も大声を上げていたと聞いている」
「……申し訳ございません」
俺は、すぐに頭を下げた。
それについては、言い訳の余地がない。
いくら予想外の事態だったとはいえ、王女殿下の護衛を務める騎士が、大勢の貴族や外国使節の前で怒鳴り散らしていいはずがないのだ。
ノエルの発言が原因だったことは確かだが、それを理由に自分の態度まで正当化するつもりはなかった。
「突然のことで冷静さを欠きました。今後は、同じことを繰り返さぬよう注意いたします」
「うむ」
儀典長は、机の上で指を組んだ。
「フェルナー卿。私は君の私生活にまで干渉するつもりはない。成人した者同士がどのような関係を築くかについて、王宮がいちいち口を出すべきではないからな」
「はっ……!」
おお。
話のわかる人ではないか。
このまま、個人の自由を尊重する方向で終わっていただければ、非常にありがたいのだが。
「しかし、君は第一王女殿下の護衛騎士だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は背筋を正した。
儀典長の声音が変わっていた。
先ほどまでの困惑混じりの問いかけとは違う。そこには、王宮の秩序を預かる者としての明確な懸念があった。
「王女殿下の護衛を任される者には、剣の腕だけでなく、信頼が求められる。私情によって任務が疎かになったり、特定の貴族との関係が政治的な問題へ発展したりすることは、決して好ましくない」
「……承知しております」
「ましてや、今回の相手はエヴァレット伯爵家のご嫡男だ。君個人の問題で済まなくなる可能性もある。すでに宮廷内では、王女殿下が君たちの関係を公認なさったなどという話まで出回っているのだ」
「そのような事実はございません!」
「無論、私もそう考えている。しかし、噂というものは厄介でな。事実がどうであるかより、周囲がどう受け取るかによって問題が生じることもある」
儀典長の言葉は、もっともだった。
俺は、それ以上何も言い返せなかった。
大広間での騒動を、誰かが面白おかしく話しているだけなら、まだ笑って済ませられるかもしれない。
だが、王女殿下の公認という話になれば、事情は違う。
それは単なる男女、いや、男同士の色恋沙汰ではなく、王族の権威に関わる問題になってしまうのだから。
しかも、俺は王女殿下の護衛騎士だ。
公務中に特定の貴族と親密な関係を持ち、その相手から影響を受けていると疑われれば、護衛任務そのものへの信頼が揺らぎかねない。
……冗談じゃない。
俺は、そのために騎士になったわけではない。
「フェルナー卿」
儀典長が、静かに口を開いた。
「君を責めるために呼んだわけではない。ただ、王女殿下の護衛任務に支障が出るようであれば、配置について検討する必要も生じる」
「……っ!」
胸の奥が、ひやりと冷たくなった。
配置の見直し。
その言葉が意味するところを、俺はよく理解していた。
王女殿下の護衛から外されるかもしれない。
今まで積み重ねてきた信頼が、失われるかもしれない。
もっとも、儀典長に直接、護衛騎士の配置を決める権限があるわけではない。
だが、王宮における儀礼と警護の調整を預かる人物から問題を指摘されれば、その報告が騎士団や王女殿下のもとへ届くのは当然である。
状況によっては、正式な検討が行われることもあるだろう。
それが、どれほど重大なことなのか。
俺は、嫌というほどわかっていた。
これまで、俺は騎士として真面目に生きてきた。
平民の家に生まれ、幼い頃から剣を学び、数え切れないほどの訓練を重ねてきた。王国騎士団に入るための試験は決して容易ではなく、入団したあとも、貴族出身の騎士たちと同じように扱われるまでには相応の苦労があった。
剣術だけではない。
礼儀作法を覚え、読み書きを学び直し、王宮における警護の手順や貴族社会の慣習についても、必死になって勉強した。
護衛対象の安全を確保するために必要な判断力も、周囲の人間と連携するための能力も、一朝一夕で身につくものではない。
だからこそ、初めてセシリア殿下の護衛を任された日のことは、今でも覚えている。
任命を告げられたとき、俺は嬉しさより先に緊張を感じた。
これまで積み重ねてきた努力が認められたことは誇らしかったが、それ以上に、王族の命を預かる責任の重さを実感したからだ。
それから今日まで、俺は自分なりに務めを果たしてきた。
今のところ、大きな失態を犯したことはない。
少なくとも、今日までは。
……ああ、くそ。
こんなことで失いたくねえんだよ。
俺にとって、この仕事は単なる生活の糧ではなかった。
この世界に転生してから、自分自身の力で積み重ねてきた人生そのものだった。
前世の記憶は、誰にも話していない。
あいつと楽しんでいた特殊な趣味についても、今世では一度も持ち出したことがなかった。
こちらの世界で生まれた俺は、ロイ・フェルナーという別の人間として生きてきた。
それなのに。
たった一日で。
いや、正確には半日も経っていない。
それだけの時間で、俺の評判は王宮中を駆け巡り、儀典長から呼び出しを受ける事態にまで発展してしまったのだ。
俺は膝の上で拳を握りしめた。
「……自分は、これまでと変わらず任務を全うする所存です」
「それは承知している。君の勤務態度については、私も高く評価しているよ」
儀典長は、少しだけ表情を和らげた。
「だからこそ、今回の件は慎重に扱いたい。君自身にも、事態を落ち着かせる努力をしてもらいたいのだ」
「……はっ」
「今のところ、配置転換を求める正式な申し出があるわけではない。君の護衛任務に具体的な支障が出たという報告も受けていない。ただし、今後も同じ騒動が繰り返されるようであれば、話は別だ」
「承知しております」
「ノエル様との個人的な関係については、可能な限り公務と切り分けたまえ。それから、王女殿下のご意向も改めて確認する必要があるだろう」
「はっ。自分からも、必要なご報告をいたします」
俺は深く頭を下げた。
ひとまず、今すぐ護衛の任を解かれるわけではないらしい。
しかし、安心するには早かった。
今後の対応を誤れば、同じ問題が再燃する可能性は十分にある。
しかも、その原因となっている青年は、俺がどれほど困っているのか、本当に理解しているのだろうか。
……いや。
理解してもらわなければ困る。
今度こそ、きちんと話そう。
公務中は妙な呼び方をしないこと。
王宮では貴族としての礼儀を守ること。
そして何より、俺の仕事を勝手に変えようとしないこと。
これだけは、はっきり伝えなければならない。
俺がそんな決意を固めたときだった。
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
聞き覚えのある声だった。
というか、聞き覚えがありすぎた。
……待て。
まさか。
俺が思わず顔を上げると、儀典長が入室を許可した。
扉が開く。
そこに立っていたのは、白銀の髪を揺らした美しい青年だった。
ノエル・フォン・エヴァレット。
伯爵家の嫡男。
そして、俺の人生を絶賛破壊中の元メスブタである。
「……ノエル?」
「ご主人様!」
……ああ。
来ちゃった。
俺は反射的に怒鳴り返しそうになり、寸前で歯を食いしばった。
落ち着け。
ここは儀典長の執務室だ。
たった今、公務中の振る舞いに注意するよう指導を受けたばかりである。
ここで怒鳴ったら、それこそ何のために注意されたのかわからない。
俺は深く息を吸い、できるだけ穏やかな声で言った。
「……ノエル様。ここでは、その呼び方をお控えください」
「……あっ」
ノエルが小さく声を漏らした。
どうやら、今の発言がまずかったことには気づいたらしい。
よし。
これなら、何とかなるかもしれない。
しかし、儀典長はすでに額へ指を当てていた。
……すみません。
本当にすみません。
俺だって、できればもう少し穏便に済ませたかったんです。
ノエルは、俺の必死の努力を知ってか知らずか、儀典長へ丁寧に一礼した。
「突然の訪問をお許しください。エヴァレット伯爵家のノエルと申します」
「……これはノエル様。どうなさいましたか?」
「ロイ様が、わたくしとの一件でお呼び出しを受けたと伺いまして。どうしても、直接ご説明したいことがございます」
ノエルの言葉遣いは、実に上品だった。
背筋を伸ばした立ち姿にも、育ちのよさが滲み出ている。先ほどまで客間で調教だのお仕置きだのと騒いでいた人物と同一人物だとは、とても思えない。
儀典長も、その態度を見て少し安心したらしい。
「なるほど。では、お話を伺いましょう」
「ありがとうございます」
ノエルは胸元に手を当て、真剣な表情で口を開いた。
「どうか、ご主人様をお責めにならないでください」
…………。
おい。
待て。
その呼び方をするなと言ったばかりだろうが。
しかも、儀典長の眉がぴくりと動いた。
嫌な予感がする。
「ご主人様は悪くありません。すべて、わたくしが望んだことでございます」
「……望んだ?」
儀典長の声が、少し低くなった。
ノエルは深く頷く。
「はい。ご主人様は何度も拒絶なさっているのに、わたくしが勝手にお慕いしているのです」
「……ほう」
「ですから、ご主人様には何の責任もございません。どうか、わたくしのせいでお立場が悪くなるようなことだけは、お避けいただきたいのです」
ノエルは、いたって真面目だった。
その表情には、いつもの浮かれた様子がない。
ただひたすら、俺の身を案じているように見えた。
俺は、思わず口を閉じた。
こいつは、俺が困っていることに気づいたのだろう。
だから、わざわざここまで来た。
伯爵家の嫡男という立場を利用すれば、儀典長へ直接事情を説明することも不可能ではない。そう考えて、自分にできることをしようとしたのかもしれない。
……馬鹿野郎。
そんなことまでしなくていいんだよ。
お前が悪者になる必要なんて、どこにもないだろうが。
その気持ちは、嬉しかった。
少なくとも、ノエルが俺の仕事を軽んじているわけではないということは伝わってきた。
ただ、残念ながら。
この男には、自分の発言が第三者へどのように聞こえるのかという想像力が、致命的に不足していた。
「わたくしは、ご主人様に命令していただきたいのです。叱っていただけるだけでも十分に幸せですし、できることなら以前のように、もっと親密な主従関係を……」
「……ノエル様」
俺は、できる限り穏やかに口を挟んだ。
「お気持ちはありがたいのですが、その件については、すでにお話ししたはずです」
「はい! ですから、ご主人様のお立場が悪くならないよう、きちんとご説明を……」
「でしたら、今はこれ以上、詳細をお話しにならないほうがよろしいかと」
「……なぜでしょう?」
ノエルは、本当に不思議そうに首を傾げた。
俺は奥歯を噛みしめた。
……なんでわからねえんだよ。
お前が今言ったことを、普通の人間が聞いたらどう思うか、少しは考えてくれ。
命令してほしい。
叱ってほしい。
もっと親密な主従関係を結びたい。
そんなことを、伯爵家の美青年が頬を染めながら説明しているのである。
しかも、その相手は平民出身の騎士だ。
いくら本人が望んでいると言っても、儀典長が簡単に理解できるはずはない。
「……ノエル様」
儀典長が、慎重に言葉を選んだ。
「つまり、フェルナー卿があなたに何かを強要しているわけではない、と」
「もちろんでございます!」
「むしろ、あなたのほうから積極的に……」
「はい! わたくしのほうからお願いしております!」
「……なるほど」
儀典長は、ゆっくりと頷いた。
その表情は実に複雑だった。
俺に同情しているようにも見えるし、ノエルの正気を疑っているようにも見える。
あるいは、成人した伯爵家の嫡男が自分の意思で特殊な関係を求めているとわかった以上、儀典長としてどこまで介入すべきなのか、判断に迷っているのかもしれない。
……いや、そりゃ迷うよな。
俺だって、そんな相談を受けたら迷う。
むしろ、こんな状況で冷静に話を聞いている儀典長の精神力を尊敬したい。
「……ひとつ、確認してもよろしいかな」
「何でしょう、儀典長閣下?」
「先ほどから、主従関係という言葉をお使いだが、これは法的な契約関係を指しているのかね?」
「いいえ。ご主人様への愛情を表す、わたくしたち独自の関係でございます」
「では、何らかの身分上の拘束が生じるものではないのだな?」
「もちろんです!」
「財産や権利について、相手方へ譲渡する取り決めなども?」
「ございません。わたくしの全財産を捧げたいほどお慕いしておりますが、ご主人様がお望みではありませんので」
「捧げるな!」
とうとう我慢できず、声が出てしまった。
儀典長が俺を見る。
俺は、すぐに背筋を伸ばした。
「……失礼いたしました」
「いや。今の件については、君の反応も理解できる」
……ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
しかし、その安堵も長くは続かなかった。
「それに、ご安心くださいませ。身分や財産の問題については、わたくしも十分に理解しております」
ノエルは、ひどく真面目な顔で続けた。
「ご主人様は、わたくしのために現在のお仕事をお辞めになることを望んでおられません。ですから、伯爵家での雇用契約についても、いったん見送ることにいたしました」
儀典長が、ゆっくりと顔を上げた。
「……雇用契約?」
…………。
あ。
まずい。
それは、まだ説明していなかった。
「はい! ご主人様を私的な随行者としてお迎えするため、正式な契約書の案をご用意しておりましたが……」
「ノエル!」
「はい、ご主人様?」
「それは今、説明しなくてもいい!」
「ですが、契約が成立していないことを明確にしたほうが、誤解を避けられるかと……」
……くそっ。
理屈としては正しい。
だが、その説明を聞いた相手がどう受け取るかという問題があるだろうが。
儀典長は、しばらく無言で俺たちを見比べていた。
そして、机の端に置かれていた小さな記録用紙を手に取った。
「……フェルナー卿」
「はっ!」
「念のため確認するが、君は伯爵家との間で、何らかの雇用契約を締結したのかね?」
「一切しておりません!」
「契約の申し出を受けたことは?」
「……案を拝見いたしましたが、承諾はしておりません」
「そうか。では、現在のところ、君の所属や任務に変更はないのだな」
「仰るとおりでございます」
儀典長は、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
それから、記録用紙に何かを書き留めた。
俺は思わず、その手元へ視線を向けた。
……何を書いているんですか。
まさか、俺の職務記録に『伯爵家御曹司から私的な主従契約を持ちかけられた』などと記されるんじゃないでしょうね。
頼みますよ。
そんなものが正式な記録として残ったら、俺は騎士団の後輩たちに、いったいどんな顔をすればいいんですか。
「フェルナー卿」
「はっ!」
「安心したまえ。私が確認しているのは、あくまで公務上の問題だ」
「……はい」
「君の私生活に関する詳細を記録するつもりはない。必要なのは、現在の所属に変更がないことと、王女殿下の護衛任務に支障が生じていないことの確認だ」
……ああ。
助かった。
この人は、本当にまともな大人だ。
初めてお会いした日から厳格な方だとは思っていたが、今日ほどその公正さに感謝したことはない。
俺は心の底から安堵した。
……しかし。
ノエルは、なぜか少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「……あの、儀典長閣下」
「何かね?」
「ご主人様の私生活については、記録なさらないのでしょうか?」
……おい。
待て。
何を確認している。
「ええ。公務上の問題がなければ、私生活についてまで記録する必要はありません」
「そうでございますか……」
ノエルは、ほんの少し考え込んだ。
それから、何かを納得したように頷く。
「では、わたくしとの新生活計画書についても、提出する必要はないのですね!」
…………。
儀典長の手が止まった。
「……新生活計画書?」
ああ。
終わった。
俺は、静かに目を閉じた。
今、この男は、わざわざ自分から新しい問題を増やした。
しかも、本人はそれに気づいていない。
「はい! 四年間かけて作成したもので、朝のご挨拶から日々のご命令、お仕置きの頻度に至るまで、詳細に……」
「ノエルぅぅぅ!!」
とうとう限界だった。
俺は椅子から立ち上がり、叫んだ。
「余計なことを言うな!」
「ご主人様! わたくしは、ご主人様をお守りしたくて……!」
「だからその呼び方をやめろおおお!!」
「はぅっ」
「喜ぶなあああ!!」
俺の絶叫が、儀典局の執務室に響き渡った。
廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。
おそらく、近くを通りかかった侍女か文官が、驚いて書類でも落としたのだろう。
そして、その人物はきっと今頃、こう考えているはずだ。
伯爵家の御曹司が、平民騎士から叱責されて喜んでいる。
しかも、王宮儀典長の目の前で。
……終わった。
俺の人生が、本格的に終わった。
いや、待て。
まだ終わっていない。
たぶん。
おそらく。
終わっていないと信じたい。
儀典長は、しばらく目を閉じていた。
それから、深々と溜息をついた。
「……フェルナー卿」
「はっ……」
「君も、大変なのだな」
「わかっていただけますか!!」
俺は思わず身を乗り出した。
ようやく。
ようやく、わかってもらえた。
俺がどれほど理不尽な状況に置かれているのか。
この男がどれほど恐ろしい存在なのか。
しかも、その恐ろしさが本人の善意から生まれているという、極めて厄介な事実まで。
しかし、儀典長はすぐに表情を引き締めた。
「ただし、同情と公務上の判断は別だ」
「……はっ」
「君が困惑している事情は理解した。ノエル様が君に対して一方的に親愛の情を示しておられることも、今のお話で確認できた」
儀典長は、そう言ってノエルへ視線を向けた。
「ノエル様。あなたがフェルナー卿を大切に思っておられることは、よくわかりました。しかし、王宮は公の場であり、フェルナー卿には第一王女殿下の護衛という重要な任務があります。その立場を、どうかご理解いただきたい」
「……はい」
ノエルは、静かに頷いた。
儀典長はさらに続ける。
「あなたのご意思を否定するつもりはありません。ですが、相手の意思や職務上の責任を尊重することも、親しい関係には必要でしょう」
「……承知いたしました」
ノエルは、今度こそ真剣な表情で頭を下げた。
「わたくしの軽率な行動で、ロイ様にご迷惑をおかけしてしまったこと、深く反省しております」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
ロイ様。
今、そう呼んだ。
しかも、さっきまでのように、嬉しそうな声ではなかった。
ノエルは頭を上げると、俺のほうへ一度だけ視線を向けた。
その青い瞳には、何かを言いたそうな色が浮かんでいたが、すぐに目を伏せてしまった。
……ん?
どうしたんだ?
さっきまであれほど元気だったくせに。
だが、俺が何か尋ねるより早く、儀典長が再び口を開いた。
「フェルナー卿。君については、今回の件をもって直ちに処分を求めるつもりはない。現時点では、勤務態度に問題があったとは判断していないからな」
「……ありがとうございます」
「ただし、先ほども伝えたとおり、今後の公務中の振る舞いには十分注意してもらいたい。今回の件については、事実関係を整理したうえで、必要な範囲に限って王女殿下および騎士団の関係者へ報告する」
「はっ。承知いたしました」
「ノエル様との私的な交流については、私が制限する立場にはない。しかし、王宮での言動が再び問題となるようであれば、その際は改めて対応を検討することになるだろう」
「……はい」
俺は深く頭を下げた。
ひとまず、最悪の事態は避けられたらしい。
少なくとも、今日この場で王女殿下の護衛から外されることはない。
儀典長からも、勤務態度については信頼しているという言葉をいただけた。
それは、俺にとって何よりありがたいことだった。
しかし、胸の奥に残った不安が完全に消えたわけではなかった。
俺の立場は、ひとまず守られた。
だが、それは今後、同じような騒動を繰り返さないことが前提なのだ。
そして、そのためには。
目の前にいるノエルにも、きちんと理解してもらわなければならない。
「……フェルナー卿。今日のところは、これでよろしい」
「はっ!」
「ノエル様も、どうかお気をつけてお戻りください」
「はい。お時間をいただき、ありがとうございました」
ノエルは、丁寧に頭を下げた。
その姿は、まさしく名門伯爵家の嫡男にふさわしいものだった。
そして、不思議なことに。
俺たちが執務室を出るまで、ノエルは一度も、ご主人様と呼ばなかった。
* * *
儀典局を出た俺たちは、人気の少ない回廊へ向かった。
王宮の東棟は祝宴の喧騒から離れており、窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっている。午後の光は少しずつ傾き始め、石造りの床には窓枠の影が細長く落ちていた。
遠くから噴水の水音が聞こえてくる。
祝宴の会場では、今も楽団が演奏を続けているのだろう。かすかな音楽が廊下の奥から漂ってくるものの、その調べは厚い石壁を越えるうちに、何を演奏しているのかわからないほど柔らかくなっていた。
ようやく静かな場所へ来られたことに、俺は心から安堵した。
ここなら、少しくらい落ち着いて話ができるだろう。
儀典長から注意されたばかりなのだから、今度こそノエルにも、俺の立場を理解してもらわなければならない。
しかし、振り返った俺は、少しだけ戸惑った。
ノエルが、いつもより離れたところに立っていたからだ。
大広間で再会してからというもの、こいつは隙あらば俺のそばへ近づこうとしていた。少しでも距離が開けば、嬉しそうに名前を呼び、許されるものなら手を取ってしまいそうな勢いだった。
それなのに、今は違う。
ノエルは俺から数歩ほど距離を置き、両手を身体の前で揃えたまま、静かに立っていた。
「……おい、ノエル」
「はい」
「お前なあ……」
俺は何か言おうとして、言葉を止めた。
ノエルが俯いていたからだ。
先ほどまでのように、嬉しそうに頬を染めているわけではない。床に落ちた日差しを見つめながら、何かを考え込んでいるようだった。
……ん?
どうしたんだ。
「……ノエル?」
「はい」
「お前、どうかしたのか?」
俺が尋ねると、ノエルはゆっくりと顔を上げた。
その表情は、思いのほか静かだった。
「……わたくし、またご迷惑をおかけしてしまいましたね」
聞き慣れない声音だった。
普段のノエルなら、俺が何か言えばすぐに嬉しそうな反応を返してきた。叱れば喜び、呆れれば甘え、何を言っても自分に都合のよい解釈をしてしまう。
そんなやつだった。
しかし今、目の前にいる青年は、いつものように笑っていなかった。
「……別に、お前だけが悪いわけじゃねえよ」
俺は、できるだけ穏やかな声で答えた。
「最初に大広間で大騒ぎしたのは確かにまずかったけどな。俺だって、あんなに怒鳴る必要はなかったんだし」
「ですが……」
「それに、儀典長だって事情は理解してくれたみたいだ。少なくとも、今すぐ配置を変えるとか、そういう話にはなってねえよ」
ノエルが、わずかに目を見開いた。
「……配置、ですか?」
「……ああ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
しまった。
まだ、そこまでは話していなかったか。
儀典長とのやり取りをノエルが聞いていたのは、途中からである。
俺が呼び出された理由については知っていたとしても、護衛任務の配置転換まで懸念されていたことは、知らなかったのかもしれない。
「……その、なんだ。王女殿下の護衛任務に支障が出るようなら、配置を見直す必要もあるって話でな」
俺は、できるだけ軽い調子で説明した。
「でも、今回は問題ないってことになったし、今後気をつければいいだけの話だ。だから、あまり気にするな」
そう言って笑ってみせた。
俺としては、安心させるつもりだった。
実際、儀典長は俺の勤務態度を評価してくれていたし、今のところ、護衛任務に具体的な支障が出ているわけでもない。
だから、大丈夫だ。
そう伝えたかった。
しかし、ノエルは笑わなかった。
「……ロイ様は」
小さな声だった。
「わたくしのせいで、お仕事を失われるかもしれなかったのですか?」
「……いや、そこまで決まった話じゃねえよ」
「でも……」
ノエルは、そこで言葉を止めた。
白銀の前髪が、俯いた顔にかかっている。
俺は、何となくその髪を払ってやりたくなった。
前世では、あいつが落ち込んでいると、よくそうしていたものだ。頭を撫でたり、軽く肩を叩いたりすれば、たいていは嬉しそうに笑ってくれた。
だが、今のノエルに同じことをしていいのか、俺にはまだわからなかった。
目の前にいるのは、成人した男だ。
それも、伯爵家の嫡男である。
前世の関係をそのまま持ち込むわけにはいかないと、つい先ほど自分で言ったばかりなのだから。
それに、今のノエルは俺に触れてほしがっているようには見えなかった。
むしろ、何かを必死に考えているようだった。
俺は伸ばしかけた手を引っ込め、代わりに小さく息を吐いた。
「……なあ、ノエル」
「はい」
「俺は、お前に会えて嬉しかったんだぞ」
ノエルの肩が、わずかに動いた。
「そのことまで、なかったことにするつもりはねえよ。ただ、俺には俺の仕事があるし、お前にも伯爵家の務めがある。だから、これからは少し、周りのことも考えて行動しようって話だ」
「……はい」
「別に、もう会わないって言ってるわけじゃねえんだから」
俺は少しだけ笑ってみせた。
「今日だって、仕事が終わったら話そうって言っただろ?」
ノエルは、ゆっくりと頷いた。
けれど、その表情は晴れなかった。
「……申し訳ございませんでした」
「……おい」
「わたくし、ロイ様がこれほど大切にされているお仕事のことを、きちんと考えられておりませんでした」
ノエルは、静かに続けた。
「伯爵家の者として、王宮での振る舞いがどれほど重要なのかは、教わってきたつもりです。それなのに……お会いできたことが嬉しくて、何も考えずに騒いでしまいました」
その言葉には、先ほどまでのような浮かれた調子がなかった。
俺は、思わず口を閉じた。
ノエルは、自分が何をしてしまったのか、ようやく理解したのだろう。
伯爵家の人間として礼儀を学び、王女殿下の幼なじみとして宮廷に出入りしてきた青年なのだから、本来なら、王宮での言動が周囲にどんな影響を与えるのかくらい、十分に理解しているはずだった。
それなのに、俺と再会した瞬間、全部忘れてしまった。
……まったく。
どれだけ嬉しかったんだよ、お前は。
少し呆れながらも、胸の奥には別の感情が広がっていた。
四年間も探し続けていた相手に、ようやく会えたのだ。
俺だって、同じ立場なら冷静でいられたかどうかわからない。
それでも、相手の喜びが本物だからといって、その結果生じた問題までなかったことにはできない。
だからこそ、今度は互いに話し合っていくしかないのだろう。
「……とにかく、今日はもう余計な騒ぎを起こすなよ。俺も仕事に戻らなきゃならねえし、お前だって祝宴に顔を出す必要があるんだろ?」
「……はい」
「なら、またあとで話そうぜ」
俺としては、それで十分なつもりだった。
今は仕事がある。
王女殿下の護衛を疎かにするわけにはいかないし、ノエルとの関係についても、落ち着いて考える時間が必要だった。
だから、あとで話そうと言った。
決して、こいつを拒絶するつもりではなかった。
しかし。
「……承知いたしました、ロイ様」
返ってきた呼び名に、俺は思わず顔を上げた。
ロイ様。
ノエルが俺をそう呼ぶこと自体は、別におかしなことではない。
今世の俺の名前はロイなのだし、伯爵家の嫡男が騎士に対して礼儀正しく呼びかけるなら、むしろ自然なことだろう。
実際、さっきも儀典長の執務室では、何度かそう呼んでいた。
それなのに、今の呼び方には、妙な違和感があった。
声が違う。
いや、声そのものが変わったわけではない。
俺の名前を呼ぶときの、響きが違うのだ。
ついさっきまで、あれほど嬉しそうにご主人様と呼んでいたのに。
何度注意してもやめなかったくせに。
今になって、どうして。
「……ノエル?」
「申し訳ございませんでした。本日は、わたくしのために貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
ノエルは、丁寧に一礼した。
その仕草は完璧だった。
背筋の伸ばし方も、頭を下げる角度も、礼を述べる声の調子も、何ひとつ乱れていない。
まさしく、名門伯爵家の御曹司にふさわしい振る舞いだった。
だが、俺はその姿を見て、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。
前世から知っているあいつが、急に遠くへ行ってしまったような気がしたのである。
「……おい、別にそんなに畏まらなくても」
「いえ。ロイ様のお立場を、もっと考えるべきでした」
ノエルは顔を上げると、穏やかに微笑んだ。
その笑顔は美しかった。
大広間で貴婦人たちを魅了していた、あの貴公子の微笑みと同じだった。
けれど、俺にはわかった。
さっきまでの笑顔とは違う。
俺に再会できたことが嬉しくて、叱られれば頬を染め、どうしようもないほど幸せそうに笑っていた、あの顔ではない。
「わたくしは、ただ……」
ノエルは、何かを言いかけた。
だが、言葉は続かなかった。
その唇が、ほんのわずかに動く。
何かを言おうとして、飲み込んだようだった。
俺は続きを待ったが、ノエルは小さく首を横に振ると、もう一度だけ頭を下げた。
「……失礼いたします」
そして、静かに歩き出した。
俺は、その後ろ姿を見送った。
白銀の髪が、傾き始めた午後の日差しを受けて淡く輝いている。細身の身体を包む礼装はどこまでも上品で、背筋を伸ばして歩く姿からは、先ほどまでメスブタを自称していた人物の面影など、まるで感じられなかった。
誰が見ても、立派な伯爵令息だった。
礼儀正しく、聡明で、美しい青年。
社交界の令嬢たちが憧れるのも、よくわかる。
……あれ?
俺は、ふと妙なことに気づいた。
さっきまで、あんなにご主人様と呼ばれることを嫌がっていたはずなのに。
何度注意してもやめてくれないから、困っていたはずなのに。
今は、その呼び方が聞こえなくなったことに、なぜか落ち着かない気持ちを覚えている。
……なんだよ、それ。
俺は自分でも呆れてしまった。
あいつが呼び方を改めたのなら、それでいいじゃないか。
儀典長からも注意されたばかりだし、今後のためにも、公の場ではきちんと振る舞ってもらわなければ困る。
それなのに。
あいつが最後に見せた笑顔が、どうしても頭から離れなかった。
再会してからというもの、ノエルはずっと笑っていた。
ご主人様と呼び、命令をねだり、俺が怒鳴れば嬉しそうに頬を染めていた。
そのせいで、俺はノエルが何を考えているのか、深く知ろうともしていなかったのかもしれない。
前世のあいつだから。
いつものように喜んでいるから。
だから、今回も大丈夫なのだろうと。
……本当に、そうだったのか?
俺は回廊の向こうへ消えていくノエルの背中を見つめながら、胸の内に広がる小さな違和感を振り払えずにいた。
あいつは四年間、俺を探していたと言った。
会えないかもしれない相手を、それでも諦めずに探し続けていたのだと。
そして、ようやく再会できたその日に、俺は何度も怒鳴り、何度も拒絶した。
もちろん、拒絶したのには理由がある。
俺には俺の人生があるし、ノエルにもノエルの人生がある。互いの意思を尊重するべきだという考えは、今でも変わっていない。
それでも。
あいつが、どうしてそこまでして俺を探していたのか。
再会できたとき、本当は何を言いたかったのか。
俺は、ちゃんと聞いてやっただろうか。
「……馬鹿野郎」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからなかった。
ノエルに対してなのか。
それとも、あいつの気持ちを少しも考えていなかった自分に対してなのか。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐き、王女殿下のもとへ戻るために歩き出した。
今は仕事だ。
セシリア殿下の護衛を疎かにするわけにはいかない。
だから、ノエルを追いかけることはできない。
それでも、仕事を終えたら、もう一度話をしよう。
今度は、怒鳴らずに。
できれば、ご主人様だのメスブタだのという馬鹿馬鹿しい話は抜きにして。
前世の主従関係ではなく、今世のロイとノエルとして、きちんと向き合ってみよう。
そう考えながら歩いていると、すれ違った二人の侍女が、俺を見るなり慌てて道を譲った。
「あっ……フェルナー卿!」
「お、お疲れ様でございます!」
「ああ、お疲れ」
俺が軽く頷いて通り過ぎようとすると、背後から小さな声が聞こえた。
「……あの方ですわね」
「ええ。伯爵家の御曹司を、すっかり夢中にさせていらっしゃるという……」
「しかも、王女殿下もお認めになったそうで……」
「まあ……!」
…………。
俺は立ち止まった。
深く息を吸った。
そして、心の底から叫びたくなる衝動を、必死に堪えた。
……おい。
まだ、その噂が残っているのか。
というか、王女殿下が公認したという話は、誰が最初に言い出したんだ。
本人に確認したら、絶対に違うと仰るぞ。
いや、待て。
そもそも、今さら俺が何を言ったところで、誰が信じてくれるというんだ。
大広間では、ノエルがご主人様と叫んだ。
王女殿下の小客間では、新生活計画書を披露された。
儀典長の執務室では、雇用契約だの主従関係だのと説明された。
……ああ。
改めて振り返ると、ひどい一日だな。
しかし、こんなことで仕事を失うわけにはいかない。
今の俺には、守るべきものがある。
王女殿下の安全。
騎士として積み重ねてきた信頼。
そして、ロイ・フェルナーという人間として築いてきた、今世の人生そのものだ。
俺は、それを大切にしたかった。
だからこそ、ノエルにも理解してほしい。
前世のご主人様だったという理由だけで、今の俺を判断しないでほしい。
俺だって、あいつのことを、前世のままの存在として扱いたくはないのだから。
……そうだ。
今度こそ、ちゃんと話そう。
そう決めて歩き出したところで、ふと窓の外へ目を向けた。
王宮の庭園では、午後の光が少しずつ赤みを帯び始めていた。
手入れの行き届いた生垣の向こうに、白い噴水が見える。
その水音は、先ほどノエルと別れた回廊まで、かすかに届いていた。
あいつは今頃、どうしているだろう。
祝宴に戻っているのか。
それとも、どこかで一人になっているのか。
そんなことが、妙に気になった。
……まったく。
さっきまで、あれほどそばにいられると困ると思っていたくせに。
いざ離れてしまうと、今度は何をしているのか気になるなんて。
俺も、どうかしている。
けれど。
あいつが最後に見せた、あの寂しそうな笑顔だけは。
どうしても、頭から離れなかったのである。




