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第三節 ――伯爵家の権力で調教をねだるな

 世の中には、金で買えないものがある。

 愛情、友情、信頼。

 そして、俺の平穏な人生だ。

 もっとも、目の前にいる伯爵家の御曹司は、どうやらその最後の一つを、金と権力でどうにかできると考えているらしい。

「ご主人様! こちらをご覧ください!」

 ノエルは満面の笑顔を浮かべ、鞄から取り出した分厚い冊子を俺の前へ差し出した。

 濃紺の革で丁寧に装丁された表紙には、四隅を保護する金属製の飾りが取りつけられ、中央には金箔を使った優美な文字が並んでいる。背表紙に施された細かな装飾も見事なもので、どう見ても貴族の家系図か、王国の重要な歴史書でも収められていそうな豪華さだった。

 その表紙には、こう書かれていた。

『ご主人様との素敵な新生活計画』

 …………。

 嫌な予感がした。

 いや、予感というには遅すぎる。

 これはもう確定した未来だ。

「……おい」

「はい、ご主人様!」

「なんだ、それは」

「わたくしたちの、これからの幸せな生活についてまとめた計画書です!」

「なぜ計画書が必要なんだ」

「もちろん、円滑な主従関係の再開のためです!」

「再開することが前提になってるじゃねえか!」

 俺の抗議など気にも留めず、ノエルは嬉々として冊子を開いた。

 中には細かな文字がびっしりと書き込まれており、ところどころに色分けされた見出しや、可愛らしい花模様まで添えられている。

 驚くべきことに、目次までついていた。

 しかも、本文とは別に索引が設けられ、重要な項目には細い栞紐まで挟まれている。何度も読み返したらしく、頁の端には小さな書き込みがあり、異なる色のインクを使って修正された箇所も少なくなかった。

 ……なんだ、この完成度は。

 こいつ、本気で四年間かけて作ったのか?

「まず、毎朝のご挨拶についてですが」

「待て。もう始めるのか?」

「はい! ご主人様がお目覚めになりましたら、わたくしが最初にご挨拶を申し上げます!」

「普通におはようでいいだろ」

「もちろんです! そのあとに、ご主人様への愛と忠誠をお伝えして、それから本日のご命令を賜ります!」

「朝っぱらから何をさせるつもりだ!」

「ご命令の内容は、ご主人様のお好みで」

「俺は朝食を食いたいんだよ!」

「では、朝食のご用意を命じてください!」

「伯爵家の跡取りに朝飯を作らせるわけにいくか!」

「ご心配には及びません! 料理も練習いたしました!」

 そう言って胸を張るノエルは、実に誇らしげだった。

 伯爵家の嫡男が料理を覚えること自体は、別に悪いことではない。むしろ、生活に必要な技術を身につけるのは立派な心がけだと思う。

 しかし、その動機が俺から朝食の準備を命じられたいからというのは、何か根本的に間違っている気がする。

「……ちなみに、何が作れるんだ?」

「卵料理でしたら、一通り。焼き菓子も少々。それから、ご主人様がお好きだった苺のショートケーキも練習いたしました」

「……へえ」

 思わず、感心してしまった。

 前世のあいつは、決して料理が苦手だったわけではないが、菓子作りとなると話が別だった。生クリームを泡立てすぎて妙な塊にしたこともあれば、焼き時間を間違えてスポンジを炭にしたこともあった。

 それを覚えているだけに、少し興味が湧いてしまう。

「ちゃんと作れるようになったのか?」

「はい! 最初はなかなか上手くいきませんでしたが、菓子職人の方に何度もご指導いただきましたので!」

「そうか。そりゃ頑張ったな」

「ありがとうございます! では、毎朝ご主人様にお召し上がりいただけるよう、寝室に専用の配膳台を……」

「待て! なんで寝室なんだ!」

「ご主人様がお目覚めになった際、すぐにお食事をご用意できるようにです!」

「食堂で食わせろ!」

「もちろん、食堂でも構いません! ですが、できれば朝のお目覚めから就寝まで、わたくしがおそばに……」

「お前、いつ寝るつもりだ!?」

 ノエルは、そこで初めて困ったように首を傾げた。

「……そうですね。ご主人様のお休みを妨げるわけにはまいりませんから、睡眠時間については少し調整が必要かもしれません」

「俺じゃなくてお前の睡眠時間を心配してるんだよ!」

「まあ! ご主人様ったら、お優しい」

「普通の心配だ!!」

 俺は額を押さえた。

 駄目だ。

 何を言っても、こいつにとっては愛情表現に変換されてしまう。

 しかし、ノエルはそんな俺の苦悩など知る由もなく、今度は色の違う栞紐を引いて、別の頁を開いた。

「続きまして、一日に一度は必ずご命令をいただくこと。できれば朝夕二回、休日には特別なご命令も……」

「増やすな!」

「それから、お仕置きについてですが」

「飛ばせ!」

「こちらは大切な項目でございます!」

「俺にとっては全然大切じゃねえ!」

「ご主人様がお忙しい場合は、週に一度でも構いません。もちろん、毎日でしたら、わたくしとしては望外の喜びでございますが」

「毎日何をやらかすつもりなんだ、お前は!?」

「やらかさなくても、お仕置きしていただけるのが理想です!」

「それはもう、お仕置きじゃねえだろ!!」

 ノエルは少し不思議そうな顔をしたものの、すぐに微笑みを取り戻した。

「では、ご褒美ということにいたしましょうか?」

「名前を変えればいいってもんじゃねえ!」

「なるほど……。では、名称については、ご主人様と相談のうえ決定することにいたします」

 ノエルは真剣な顔で頁の余白に何かを書き込んだ。

 ……おい。

 待て。

 今、何を書いた?

 俺が覗き込むと、そこには端正な文字で『お仕置きの正式名称については要協議』と記されていた。

「協議事項にするな!」

「ですが、ご主人様。お互いの意思を確認することは大切ですので」

「正論をそんな用途に使うんじゃねえ!!」

 この男、厄介すぎる。

 前世のあいつは、どちらかといえば勢いで物事を決める性格だった。

 それがどうだ。

 今世では伯爵家の教育を受け、文章を整理し、計画を立て、問題点を検討し、場合によっては修正案まで用意できる人間に成長している。

 素晴らしいことだ。

 本来なら、再会した相手がこれほど立派になっていることを、俺は心から喜ぶべきなのだろう。

 ただし。

 その知性と行動力を、全部メスブタ活動に投入するんじゃねえ。

 俺が頭を抱えていると、向かいの長椅子から小さな咳払いが聞こえた。

 セシリア殿下だった。

 ……そうだ。

 忘れていた。

 この部屋には王女殿下がいらっしゃる。

 俺たちは今、王女殿下の御前で、伯爵家の御曹司が自分へのお仕置きの頻度について真剣に検討しているという、国家の威信を根底から揺るがしかねない会議を開催しているのである。

「……ノエル」

「はい、殿下?」

「その冊子は、すべてあなたが作ったの?」

「はい! 十八歳のときに前世の記憶を取り戻してから、少しずつ書きためてまいりました!」

「四年間も?」

「もちろんです!」

 ノエルは嬉しそうに頷いた。

「ご主人様がいつ、どこでお生まれになっているかわかりませんでしたので、再会できたときに慌てないよう、できる限りの準備をしておきたかったのです」

 俺は思わず、ノエルの顔を見た。

 四年間。

 その数字は、さっき聞いたばかりだった。

 しかし、目の前にある冊子を見ていると、その時間が単なる言葉ではなく、少しだけ形を持ったもののように感じられた。

 最初から俺に会えるとわかっていたわけではない。

 同じ世界にいるのかさえ、確かではなかったはずだ。

 それでも、いつか再会できるかもしれないという希望を抱きながら、こいつはこんなものまで作っていたのか。

 ……いや。

 感動していいのか?

 確かに健気ではあるんだが、内容がひどすぎるぞ。

「そう……。ずいぶん熱心なのね」

 セシリア殿下も、何とも言えない表情で冊子を眺めていた。

「ありがとうございます!」

「褒めているかどうかは、少し考えてちょうだい」

 殿下は紅茶を口に運びながら、表紙へ視線を落とした。

「それにしても、立派な装丁ね。王立図書院に所蔵されている重要文献にも、そこまで手の込んだものは少ないわ」

「ありがとうございます! 製本職人には特別にお願いしました!」

「……職人には、中身も見せたの?」

「もちろんでございます!」

 俺は椅子から立ち上がった。

「見せたのか!?」

「はい! 何か問題がございましたか?」

「大問題だろうがあああ!!」

「ですが、ご主人様。職人にも内容を知っていただいたほうが、より美しい装丁になるかと……」

「製本職人に性癖を共有するな!!」

 ノエルは、一瞬きょとんとした。

 それから、なぜか嬉しそうに頬を染めた。

「ご主人様……そんなにはっきりと、わたくしの性癖だなんて」

「恥じらうところが違う!!」

 しかも、さっきから気になっていたことがある。

 この冊子は、内容のわりに装丁が上品すぎる。

 表紙の花模様も、金箔の文字も、妙に洗練されているのだ。

「……なあ、ノエル」

「はい?」

「その、表紙の装飾なんだが」

「はい! とても綺麗でしょう?」

「ああ。綺麗だけどよ……」

「職人の方が、わたくしの熱意に感動してくださったんです! 特に『毎朝の忠誠の誓い』の章をご覧になって、これほど一途なお気持ちを形にするなら、装丁にも妥協できないと!」

 …………。

 職人さん。

 あんた、何を見て感動したんだ。

 いや、待て。

 もしかしたら、その職人は単に立派な愛情表現の本だと思ったのかもしれない。実際、題名だけ見れば、少し変わった恋愛指南書にも見えなくはない。

 だが、中身にはお仕置きの頻度が書いてあるんだぞ。

 しかも、朝夕の命令回数まで細かく計画されている。

 その内容を理解したうえで感動したのなら、俺はその職人とも一度じっくり話し合う必要がある気がする。

「……ちなみに、ほかに誰か読んだのか?」

 恐る恐る尋ねると、ノエルは少し考えてから答えた。

「製本職人の方と、そのお弟子さんが装丁の確認を。それから、清書を手伝ってくださった書記の方が……」

「増えてるじゃねえか!!」

「もちろん、皆様には私的な内容であることをご説明しております!」

「問題はそこじゃねえ!」

「秘密保持についても、きちんとお願いしておりますので!」

「性癖を秘密保持契約で守るな!!」

 ……いや、待て。

 むしろ秘密保持を徹底してくれているなら、そこだけは評価すべきなのか?

 駄目だ。

 判断力が鈍ってきた。

 セシリア殿下が、そっと扇を開いた。

 どうやら、口元を隠さずにはいられなくなったらしい。

 俺としては、できればその扇で俺の顔も隠していただきたかった。

 いや、いっそ頭から布でも被せてほしい。このまま誰にも見つからず、騎士団の宿舎まで帰りたい。

 ところが、ノエルはまだ終わっていなかった。

「そして、最後に最も重要な項目がございます!」

「……もう嫌な予感しかしねえ」

「わたくしたちが、前世のように幸せな主従生活を取り戻すことです!」

 ノエルは冊子を胸に抱き、花が咲いたように微笑んだ。

 その顔を見た瞬間、俺は一瞬だけ言葉を失った。

 こいつは本当に、何の疑いも抱いていないのだ。

 自分の考える幸せな未来に、俺がいることを。

 再会できたら、一緒に暮らせる。

 前世のように、毎日顔を合わせ、くだらないことで言い争い、何でもない時間を共に過ごせる。

 それが、こいつにとっては当然の願いだったのだろう。

 嬉しくないと言えば、嘘になる。

 だが、だからといって、何も考えずに受け入れていい話ではなかった。

「お前なあ! 伯爵家の跡取りだろ!?」

「はい!」

「領地経営は!?」

「勉強しております!」

「社交界は!?」

「問題ありません!」

「家の仕事は!?」

「父上からもお褒めいただいております!」

「結婚は!?」

「ご主人様とでしたら、いつでも」

「俺は男だぞ!?」

「わたくしも男です!」

「知ってるよ!!」

 ノエルは、なぜ俺が驚いているのか理解できないといった顔をしていた。

 こちらとしては、何から説明すればいいのかもわからない。

 そもそも、俺は前世でも男と恋愛したことなどなかった。女性だったあいつが美しい青年になったからといって、何の戸惑いもなく以前の関係に戻れるほど、俺の頭は柔軟にできていないのである。

 しかも、こいつは今、結婚という言葉を聞いて、俺と結ばれる未来を一切の迷いなく口にしたのだ。

 ……結婚。

 いや、待て。

 落ち着け。

 そもそも、そんなことが可能なのか?

 この国の婚姻制度について、俺は貴族社会の細かな事情まで把握しているわけではない。ましてや伯爵家の嫡男となれば、家の継承や親族の意向など、本人たちの気持ちだけでは決められない問題もあるはずだ。

 なのに、こいつは何のためらいもなく、俺とならいつでもなどと言いやがった。

「……お前、伯爵家の跡取りだって自覚あるのか?」

「もちろんです。家の務めを疎かにするつもりはございません」

「だったら、結婚なんて簡単に言うなよ」

「ですが、ご主人様と一緒になりたいという希望を持つこと自体は、悪いことではございませんでしょう?」

「……それは」

 俺は口を閉じた。

 悪いことではない。

 少なくとも、誰かと一緒になりたいと願う気持ちそのものを、俺が否定する理由はなかった。

 ただし、その相手が俺であるという部分については、もう少し慎重に考えていただきたい。

 というか。

 こんなに綺麗な顔で迫られたら、普通の男でも少しは動揺するだろう。

 ……いや、待て。

 何を考えているんだ、俺は。

「ご主人様?」

「なんでもねえ!」

「まだ何も申し上げておりませんが」

「顔がうるさいんだよ!」

「まあっ」

「褒めてねえ!!」

 ノエルは頬を染め、嬉しそうに笑った。

 ……くそ。

 自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。

 顔がうるさいって、なんだ。

 しかも、言ってから気づいたが、俺はこいつの顔を見すぎではないだろうか。

 いや、違う。

 相手の表情から意図を読み取るのは、護衛騎士として当然の習慣だ。

 そうだ。

 職業上の観察にすぎない。

 だから、その長い睫毛が妙に気になることにも、別に深い意味などない。

 ……たぶん。

 俺が必死に自分の考えを整理していると、ノエルは冊子を丁寧に閉じ、再び鞄へ手を伸ばした。

「それから、ご主人様。こちらもご覧ください」

「……まだ何かあるのか?」

「はい! 新生活を始めるためには、何よりも生活環境を整える必要がございますから!」

 取り出されたのは、数枚の羊皮紙だった。

 今度は可愛らしい装飾など一切なく、王国の公文書に用いられる書式で、整然と文章が記されている。上部にはエヴァレット伯爵家の紋章が印刷され、末尾には署名欄まで設けられていた。

 その見た目に、俺は思わず背筋を伸ばした。

 先ほどの冊子とは違う。

 これは、正式な契約書の体裁を備えている。

「……なんだ、これ」

「ご主人様を、わたくしの私的な随行者としてお迎えするための雇用契約書です!」

 …………。

「は?」

「ご安心ください! 給与は現在の騎士としてのお給金を十分に上回る額を設定しておりますし、居住用のお部屋もご用意いたします。衣食住の費用についても、すべて伯爵家が負担いたしますので!」

「ちょっと待て」

「もちろん、ご主人様に雑用などさせるつもりはございません! わたくしのそばにいてくださるだけで十分でございます!」

「待てって言ってんだろ!」

 俺は思わず書類を受け取り、内容に目を走らせた。

 そこには本当に、雇用期間や報酬、職務内容について細かく記載されていた。給与の金額に至っては、思わず二度見するほど高額である。

 しかも、職務内容の欄には、実に堂々とこう書かれていた。

『雇用主の日常生活における助言、随行、指導、その他双方の合意に基づく私的な補佐業務』

 ……指導。

 私的な補佐業務。

 お前、どこまで考えて作ったんだ。

 いや、待て。

 この書き方なら、書類だけを見た人間には、何らかの教育係や身の回りの補佐役を雇う契約だと理解されるだろう。

 実に巧妙である。

 余計なことを書かず、正式な雇用契約として成立し得る文面へ整えている。

 伯爵家の御曹司として学んできた知識を、きちんと活用しているのだ。

 ……だから。

 その有能さを、俺との主従生活の再開に使うんじゃねえ。

「……ノエル」

「はい、ご主人様!」

「これ、お前が作ったのか?」

「はい! 伯爵家で使用している雇用契約書の書式を参考にいたしました。もちろん、契約条件については、ご主人様のご希望を伺ったうえで調整する予定でございます!」

「……お前、法律関係の勉強もしてるのか?」

「少々ですが、領地経営に必要な範囲で学んでおります。雇用契約については、使用人や領民の生活にも関係いたしますので」

 ノエルは穏やかに答えた。

 その説明は、驚くほどまともだった。

 契約期間と報酬の整合性も取れているし、双方の合意がなければ契約が成立しないことも、きちんと理解しているらしい。

 俺が疑問に思った条項を尋ねると、ノエルはすぐに該当する箇所を指し示し、その意味をわかりやすく説明してくれた。

 ……すげえ。

 こいつ、本当に頭がいいんだな。

 前世では、家計簿の数字が合わなくなって、俺に泣きついていたこともあったというのに。

 それが今では、伯爵家の雇用契約を自分で検討できるほどになっている。

「……お前、立派になったんだな」

 思わず、そんな言葉が漏れた。

 ノエルは、一瞬だけ目を丸くした。

 そして、頬を染めながら嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます、ご主人様。これも、いつかご主人様のお役に立てるよう、勉強を続けてきた甲斐がございました」

「全部俺のためなのかよ!!」

「もちろん、伯爵家の跡取りとして必要な勉強でもございます!」

「だったら、そっちを第一にしろ!」

「はい! では、伯爵家の務めを果たしながら、ご主人様のおそばにいられる方法を考えます!」

「なんでそうなる!!」

 セシリア殿下が、そっと額を押さえた。

 どうやら、俺と同じ問題に気づかれたらしい。

 ノエルには能力がある。

 しかも、その能力を使うことに何のためらいもない。

 そして現在、その能力の大部分が、俺と一緒に暮らすための計画へ向けられているのである。

 国家にとって、こんなに無駄な才能の使い方があってたまるか。

「これなら、ご主人様と毎日一緒に過ごせます」

 ノエルは嬉しそうに微笑んだ。

「そんなもの受けられるか!」

「どうしてですか? お給金が足りませんか?」

「金の問題じゃねえ!」

「では、住居でしょうか? お部屋はご主人様のお好みに合わせて改装いたします!」

「違う! 俺は王女殿下の護衛騎士なんだぞ! そう簡単に仕事を辞められるか!」

「もちろん存じております!」

「だったら、こんな契約書を……」

「ですから、殿下にも正式にお願いするつもりでございました!」

 ノエルは、にっこりと微笑んだ。

 俺はゆっくりと振り返った。

 セシリア殿下も、ゆっくりと俺を見た。

 しばしの沈黙。

「……殿下」

「……何かしら、ロイ」

「自分は、これからも殿下にお仕えする所存でございます」

「ええ。私もそのつもりよ」

「ありがとうございます!」

 俺は心の底から安堵した。

 この方がまともな判断をしてくださる限り、俺の騎士としての人生は守られる。

 ところが、セシリア殿下はそこで、ノエルへ向き直った。

「……ノエル。少し、その書類を見せてもらえるかしら」

「もちろんです、殿下!」

 ノエルは嬉しそうに契約書を差し出した。

 殿下は数頁に目を通すと、署名欄を確かめ、静かに頷いた。

「なるほど。これは、まだ契約案なのね」

「はい。ご主人様のお返事をいただいてから、正式な手続きを進めるつもりでございました」

「伯爵家の承認も必要でしょう?」

「もちろんです。父上には、私的な随行者を雇用する可能性について相談しておりますが、具体的な条件はまだ正式に提出しておりません」

「そう。それなら、少なくとも伯爵家がすでにロイの雇用を決定したということではないのね」

「はい!」

 ……助かった。

 どうやら、まだ正式な契約ではないらしい。

 署名欄も空白だし、伯爵家の正式な承認も得ていない。つまり、俺が承諾しなければ、この話は進まないのである。

 当たり前だ。

 当たり前なのだが、相手がノエルだと、その当たり前さえ信用できなくなってくるから恐ろしい。

「そして、ロイは現在、私の護衛騎士として任務に就いているわ。伯爵家からの正式な申し出があったとしても、本人の意思や騎士団の規定を無視して異動させることはできません」

「承知しております」

「その点は、きちんと理解しているのね」

「はい! ですから、ご主人様にご納得いただける条件を整えたかったのです!」

 ノエルは、悪びれる様子もなく答えた。

 セシリア殿下はしばらくその顔を見つめてから、俺へ視線を移した。

「……ロイ」

「はっ!」

「そなたの現在の待遇に、不満でもあるのかしら?」

「滅相もございません!!」

「そう。それならよかったわ」

 殿下は穏やかに微笑んだ。

 だが、その目元には、かすかな笑みが浮かんでいる。

 ……おい。

 王女殿下。

 もしかして、ちょっと面白がっていませんか?

 確かに、平民出身の護衛騎士が伯爵家から破格の待遇で引き抜きを持ちかけられるというのは、珍しい話かもしれない。

 だが、今回に限っては、そんなに悠長に眺めていていい案件ではない。

 なにしろ、相手が俺を雇いたい理由は、護衛の腕でも、軍事的な知識でも、仕事の実績でもないのだ。

 ただ、そばに置いて命令してほしいという、極めて個人的な事情なのである。

 そんなものを正式な人事異動の議題にされてたまるか。

 俺がようやく胸を撫で下ろしていると、ノエルが何かを考えるように首を傾げた。

「では、わたくしが騎士団へ入隊いたしましょうか?」

「それもやめろ!」

「剣術は少々苦手ですが、体力には自信がございます!」

「問題はそこじゃねえ!」

「騎士団の宿舎で、同じお部屋に住まわせていただければ……」

「お前、何しに騎士になるつもりだ!?」

「ご主人様のおそばにいるためです!」

「国を守れえええ!!」

 俺の叫びが、王宮の小客間に響き渡った。

 ノエルは相変わらず楽しそうだったが、セシリア殿下はとうとう紅茶を飲むことすら諦めたらしく、カップを受け皿へ戻して静かに目を閉じた。

「……ノエル」

「はい、殿下?」

「騎士団は、個人的な恋愛事情を解決するための組織ではないわ」

「もちろん存じております!」

「本当に?」

「はい! ですから、入団するのであれば、正規の試験を受け、必要な訓練を積むつもりでございます!」

 ……おい。

 ちょっと待て。

 さっき剣術が苦手だと言っていたくせに、試験を受けるところまで考えているのか?

「……お前、本気で騎士になるつもりなのか?」

「必要であれば!」

「必要じゃねえよ!」

「ですが、ご主人様と同じ職場で働けるのでしたら、わたくし、どのような努力も惜しみません!」

「お前の努力をもっと有意義な方向に使え!」

「では、王宮に勤める文官という道もございますね」

「そういう問題じゃねえ!!」

 セシリア殿下が、静かに息を吐いた。

「……ノエル。ひとつ確認してもいいかしら」

「はい、殿下」

「あなたは、ロイのそばにいたいのね?」

「はい!」

「それが一番の希望?」

「もちろんでございます!」

「……そう」

 殿下は少しだけ表情を和らげた。

 しかし、次の言葉は冷静だった。

「でも、ロイの仕事を変えることと、あなたが騎士になることは、どちらも簡単に決めていい話ではないわ。そなたたちだけでなく、周囲の多くの人間にも関わることなのだから」

「はい。承知しております」

 ノエルは真面目な顔で頷いた。

 その返事だけを聞けば、ちゃんと理解しているようにも思える。

 だが、俺にはわかる。

 こいつは、まだ諦めていない。

 目の前にある問題が一つ解決できなければ、別の方法を考えればいいと思っているのだ。

 しかも、それを悪いことだとは考えていない。

 前世からの付き合いだからこそ、よくわかる。

 こいつは、自分が望むことについては驚くほど前向きなのである。

 そして、今のノエルには、その前向きさを実現するだけの財力と知識がある。

 ……恐ろしい。

 前世では、俺から命令してほしいとねだるだけだった女が、今世では自分で職業選択の可能性を検討し、雇用条件を作成し、王女殿下への正式な申し出まで視野に入れているのだ。

 性癖はまったく成長していないのに、行動力だけが異常な進化を遂げている。

 これは、もはや新種の災害ではないだろうか。

 ノエルは書類を俺の手から受け取ると、少し考え込むように首を傾げた。

「では、どうすればよろしいのでしょう」

「どうもしなくていい!」

「ですが、ご主人様。せっかく再会できたのですから、これからは毎日お会いしたいのです」

 その言葉は、先ほどまでの騒々しい調子とは少し違っていた。

 ノエルは手元の書類に視線を落とし、指先で羊皮紙の端を撫でていた。

 笑ってはいる。

 だが、その表情には、ほんのわずかに不安が混じっているようにも見えた。

 俺は、そこでようやく言葉を止めた。

 四年間。

 ノエルは、その時間をかけて俺を探していた。

 自分がこちらの世界に転生しているかどうかもわからない相手を、ひたすら探し続けていたのだ。

 そして、今日になってようやく再会できた。

 そんな相手と、今度こそ離れたくない。

 そう考えること自体は、決しておかしなことではなかった。

 むしろ、俺だって逆の立場だったら、同じように考えたかもしれない。

 ただ、問題はその方法である。

 こいつは俺に会いたいと思うあまり、伯爵家の財力と権力を総動員して、俺との生活を実現しようとしている。

 おそらく本人に、俺を困らせようという悪意はない。

 むしろ、俺が今の仕事を辞めても困らないように、高い給金を用意し、住居を整え、生活に必要なものをすべて提供しようとしている。

 それが、こいつなりの思いやりなのだろう。

 しかし。

 だからこそ、困るのだ。

「……ノエル」

 俺は一度、深く息を吐いた。

「はい、ご主人様」

「いいか。今のお前には、伯爵家の人間としての人生がある。そんなものを、俺のために捨てるな」

 ノエルが顔を上げた。

 青い瞳が、まっすぐに俺を見つめてくる。

「ですが、わたくしは……」

「それに、嫌だと言ってるだろ。俺の返事まで勝手に決めるな」

 少し強い言い方になった。

 普段なら、こうして叱ればノエルは嬉しそうに笑うはずだった。前世でも、さっきまでの会話でも、こいつは俺の厳しい言葉を待っているようなところがあったのだから。

 だが、今度は違った。

「……はい」

 ノエルは、静かに頷いた。

 それきり、何も言わなかった。

 膝の上に置かれた契約書を見つめ、先ほどまであれほど楽しそうに動かしていた口を、きゅっと結んでいる。

 羊皮紙の端を押さえていた指先が、わずかに強張った。

 やがてノエルは、書類を揃え直そうとして、一枚だけ少しずらしてしまった。それに気づくと、慌てて端を合わせ、今度は必要以上に丁寧な手つきで膝の上へ置いた。

 その一連の動作を見て、俺は胸の奥が小さく痛むのを感じた。

 喜ばないのか。

 ……いや、喜ばれても困るのだが。

 それでも、突然おとなしくなってしまうと、今度はこちらが何か悪いことをしたような気分になる。

 しかし、今ここで言葉を取り消すわけにはいかなかった。

 こいつが本当に俺を慕ってくれているからこそ、曖昧な返事をして期待を持たせることはしたくなかったのだ。

 前世では、俺が主人だった。

 あいつは自分の意思で従者という立場を選び、俺たちは互いに納得したうえで、その関係を楽しんでいた。

 嫌なことは嫌と言えたし、俺だって無理な命令をするつもりはなかった。

 だが、今のノエルには、俺の知らない二十二年間がある。

 伯爵家の息子として育ち、教育を受け、人間関係を築き、これから先の人生を考えてきたはずなのだ。

 その全部を、前世のご主人様だったという理由で、俺が奪っていいわけがない。

 それに、こいつが俺のためなら何でもすると言っているからこそ、俺自身も慎重でなければならなかった。

 前世の習慣に任せて命令すれば、ノエルは喜んで応えようとするだろう。

 だが、それが本当に今のノエルにとって望ましいことなのか、俺にはまだ判断できない。

 相手が喜ぶことと、相手の人生を大切にすることは、必ずしも同じではないのだから。

「……俺はな」

 俺は、できるだけ落ち着いた声で続けた。

「お前に会えて、嬉しかったんだよ」

 ノエルの肩が、ぴくりと動いた。

「ご主人様……?」

「もう二度と会えないと思ってたからな。だから、こうしてまた会えたことは、本当に嬉しい」

 言いながら、少し気恥ずかしくなった。

 前世でも、俺はこういう言葉をあまり口にしなかった。あいつが何かしてくれても、礼を言うより先に頭を撫でたり、軽く褒めたりすることが多かったと思う。

 それで気持ちは伝わっているつもりだった。

 だが、今は違う。

 ノエルは、俺の言葉を待っている。

 しかも、ただの命令ではなく、俺自身がどう思っているのかを知りたがっているように見えた。

「だからこそ、ちゃんと考えたいんだよ。俺にも今の生活があるし、お前にも、お前の生活があるだろ。それを全部なかったことにして、昔に戻ろうって言われても、すぐには答えられねえんだ」

 ノエルは黙って聞いていた。

 その表情は少し寂しそうだったが、俺の言葉を拒絶するような様子はなかった。

「……わかりました」

 やがて、ノエルは静かに答えた。

「ご主人様のお気持ちも考えず、勝手なことばかり申し上げてしまいました。申し訳ございません」

 そう言って、丁寧に頭を下げる。

 俺は思わず、その頭に手を伸ばしかけた。

 前世では、あいつが落ち込むと、よくそうしていた。

 頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めて、また元気を取り戻していたものだ。

 けれど、今は少し事情が違う。

 目の前にいるのは、成人した伯爵家の青年なのだ。

 それも、俺よりずっと身分の高い相手である。

 さすがに、王女殿下の御前で頭を撫でるのはまずいだろう。

 それに何より、俺はまだ、今のノエルがどういう人間なのか、ほとんど知らないのだ。

 前世で許されていたからといって、今でも当然のように同じことをしていいわけではない。

 俺は伸ばしかけた手を引っ込め、代わりに小さく咳払いをした。

「……まあ、わかってくれたならいい」

「はい」

 ノエルは顔を上げ、少しだけ微笑んだ。

 先ほどまでのような、心から嬉しそうな笑顔ではなかった。

 それでも、きちんと俺の言葉を受け止めてくれたことだけは、伝わってきた。

 俺はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。

 どうやら、話せばわかってくれるらしい。

 前世のように、何でも命令で解決するわけにはいかないが、こうして少しずつ話し合っていけば、今世でも良い関係を築けるかもしれない。

 ……いや、良い関係というのが何を意味するのかは、まだよくわからないのだが。

「……二人とも」

 そこで、セシリア殿下が静かに口を開いた。

 俺たちは揃って顔を向けた。

 殿下は、先ほどからずっと俺たちのやり取りを見守っていたらしい。紅茶のカップにはすっかり手をつけなくなっていたが、その表情には最初のような警戒心はなく、代わりに、何かを考えるような落ち着いた眼差しがあった。

「ようやく、少し事情がわかってきた気がするわ」

「……申し訳ございません、殿下。お見苦しいところをお見せしました」

「構わないわ。むしろ、最初に心配していたようなことではなさそうで、安心したくらいよ」

 セシリア殿下は、俺とノエルを交互に見比べた。

「正直に申し上げると、私は最初、ノエルが何か不当な扱いを受けているのではないかと思っていたの。でも、こうして話を聞いてみると、どうやら少し違うようね」

「……はい」

「むしろ、ロイのほうが苦労しているように見えるわ」

「お察しいただけて何よりです!!」

 思わず声が大きくなった。

 ようやくわかってくださった!

 俺がこの状況で、どれほど理不尽な苦労を強いられているのか!

 王女殿下は、やはり聡明なお方だ!

 しかし、ノエルは少し不思議そうに首を傾げた。

「ご主人様が、苦労なさっているのですか?」

「誰のせいだと思ってんだ!」

「まあ……! わたくしのために、そこまで……!」

「喜ぶところじゃねえ!」

「ノエル」

 セシリア殿下が、穏やかな声で呼びかけた。

 ノエルはすぐに姿勢を正した。

「はい、殿下」

「あなたがロイを大切に思っていることは、よくわかったわ。けれど、相手のことを大切に思うのであれば、相手の気持ちも尊重しなければいけないわね」

「……はい」

「ロイが嫌だと言っていることを、あなたの身分や財力で無理に押し通してはいけません。どれほど親しい関係でも、それは同じことよ」

 ノエルは真剣な表情で頷いた。

「承知いたしました。今後は、ご主人様のお気持ちを第一に考えます」

「ええ。それがいいわ」

 殿下は満足そうに微笑むと、今度は俺のほうへ視線を向けた。

「そして、ロイ」

「はっ!」

「そなたも、逃げ回るだけでなく、きちんと話し合いなさい」

「……はっ!」

「ノエルがこれほどまでにそなたを慕っているのだから、頭ごなしに拒絶するのではなく、何が嫌で、何なら受け入れられるのか、言葉にして伝えるべきでしょう」

「おっしゃるとおりでございます……」

「二人とも成人なのだから」

 見事な正論だった。

 何ひとつ反論できない。

 王女殿下の仰ることは、まったくもって正しい。

 俺はノエルの勢いに押されるあまり、とにかく逃げることばかり考えていた。しかし、前世からの関係がある以上、いつまでも逃げ続けていればいいというものでもないのだろう。

 ノエルが本当に俺を慕ってくれているのなら、俺もまた、その気持ちに誠実に向き合う必要がある。

 そう考えて、俺は小さく息を吐いた。

「……わかりました、殿下。今後はノエルとも、きちんと話し合うようにいたします」

「ええ。そうなさい」

「はい!」

 ノエルも嬉しそうに頷いた。

 ただし、セシリア殿下はそこで話を終えなかった。

「それと、ノエル。先ほどの契約書については、いったん持ち帰りなさい」

「はい、殿下」

「ロイが承諾していない以上、雇用の話は進められません。伯爵家に正式な手続きを始めさせるのも、まだ早いわね」

「承知いたしました。父上にも、そのように申し伝えます」

「ええ。それから、私の護衛騎士を私的な随行者として雇おうとしたという話が、妙な形で広まらないように気をつけてちょうだい」

「もちろんでございます」

 ノエルは、きちんと頭を下げた。

 その様子を見て、俺はようやく心から安堵した。

 よかった。

 本当によかった。

 とりあえず、俺が突然伯爵家へ引き抜かれることはなくなったらしい。

 騎士団へ戻ったとき、上官から「お前、いつから伯爵家の私的な教育係になったんだ?」などと尋ねられる心配も、今のところはないはずだ。

 ……いや、待て。

 大広間であれだけ派手に騒いだのだから、別の意味ではすでに手遅れかもしれない。

 だが、少なくとも正式な契約書が出回っていないだけ、まだ救いはあるだろう。

 俺が胸を撫で下ろしていると、ノエルが何かを思いついたように顔を輝かせた。

「では、ご主人様!」

「……なんだ」

「これからは、きちんとご主人様のお許しをいただいてから、おねだりすることにいたします!」

「……まあ、それなら」

 俺は少し考えた。

 確かに、何かを頼むこと自体は悪いことではない。

 俺が断れば、それ以上無理に押し通さない。

 その約束さえ守ってくれるなら、別に問題はないはずだ。

 それに、前世でもあいつはよく俺へおねだりをしていたし、俺だって気が向けば応じていた。

 だから、今のノエルが同じように頼み事をすることまで、全面的に禁止する必要はないのかもしれない。

「……いいか、頼むのは構わねえけど、俺が断ったらそこで終わりだからな」

「はい!」

「それから、仕事中は困る。俺にも任務があるんだからな」

「承知いたしました!」

 ノエルは嬉しそうに頷いた。

 おお。

 意外と素直じゃないか。

 これなら、何とかやっていけるかもしれない。

「では、まずは本日のお仕置きについてご相談を!」

「早速それかああああ!!」

「だって、ご主人様! 殿下も、きちんと話し合うようにとおっしゃいました!」

「そういう意味じゃねえだろ!!」

 俺が叫ぶと、ノエルは一瞬だけ考え込むような顔をした。

 そして、今度はきちんと両手を膝の上へ揃え、妙に真面目な口調で尋ねてきた。

「では、ご主人様。まず、お仕置きをお願いすること自体は、許されるのでしょうか?」

「……は?」

「もちろん、お受けいただけるかどうかは、ご主人様のご意思を尊重いたします。ですから、まずはお願いしてもよろしいかどうかを、お伺いしたく……」

 …………。

 俺は口を閉じた。

 ……おい。

 待て。

 これは、どう答えればいいんだ?

 確かに、頼むこと自体は構わないと言った。

 だが、頼み事の内容が最初からお仕置きなのは、どうなんだ。

 そもそも、こういう場合に「お願いしてもいいか」と尋ねられたら、断るべきなのか?

 いや、お願いすることを禁止するのは、さっきの約束に反するような気もする。

 だが、だからといって毎回お仕置きをねだられるのも困る。

 ……くそっ。

 なんだ、この高度な交渉は。

 俺はいつから、自分の性癖をめぐる契約条件の調整役になったんだ。

「……ノエル」

「はい、ご主人様」

「お前、もしかして、俺が嫌だって言いにくい聞き方をしてないか?」

 ノエルは、ぱちぱちと瞬きをした。

 そして、少し考えてから答えた。

「……そう聞こえてしまいましたか?」

「ああ。ちょっとな」

「では、申し訳ございません。わたくしとしては、きちんとお許しをいただくつもりだったのですが……」

 ノエルは、素直に頭を下げた。

「ご主人様がお困りになるのでしたら、今はお願いしないことにいたします」

 その返事に、俺は少しだけ驚いた。

 ……おお。

 ちゃんと引いた。

 いつものように、もう一回だけだの、軽いものからだのと食い下がらない。

 こいつ、本当にわかってくれたのかもしれない。

「……そうか。それなら助かる」

「はい!」

 ノエルは嬉しそうに微笑んだ。

 よし。

 これで一つ、問題が解決した。

 そう思ったのも束の間だった。

「では、ご主人様。次のご相談でございますが」

「……まだあるのか」

「はい! 本日のお仕事が終わりましたら、お茶のお時間をいただけませんでしょうか?」

 …………。

 俺は、少し拍子抜けした。

 お茶。

 お茶会か。

 それなら、別に問題ないだろう。

 むしろ、前世のことや今世のことをゆっくり話す機会としては、ちょうどいいかもしれない。

「……まあ、それくらいなら」

「本当ですか!?」

「ああ。ただし、今日は殿下の護衛任務があるからな。時間が取れるかどうかはわからねえぞ」

「もちろんです! ご主人様のお仕事が終わるまで、わたくし、ちゃんとお待ちしております!」

 ノエルは心から嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を見て、俺も少しだけ肩の力を抜いた。

 ……なんだ。

 こうして普通に頼んでくれれば、別に困らないんじゃないか。

 俺だって、再会できた相手と話したい気持ちはある。

 前世のことも、今世のことも、聞きたいことは山ほどあるのだ。

 そんなことを考えていると、ノエルが少しだけ頬を染めながら、嬉しそうに続けた。

「ありがとうございます、ご主人様。では、お茶会では、わたくしの新生活計画書についても、もう少し詳しくご相談させていただきますね」

「まだ使うつもりなのかよ!!」

「もちろんです! 四年間かけて作った大切な計画書ですもの!」

「捨てろとは言わねえけど、少しは内容を見直せ!」

「はい! では、次回までに修正版をご用意いたします!」

 ……ん?

 待て。

 修正版?

 お前、まさか。

「……ノエル」

「はい、ご主人様?」

「その計画書、今後も改訂していくつもりなのか?」

「もちろんです! ご主人様のお気持ちを尊重しながら、より素敵な新生活を目指してまいります!」

 …………。

 俺は、ゆっくりと天井を仰いだ。

 ああ。

 駄目だ。

 こいつは本当に、何も変わっていない。

 いや、正確には、変わった部分もある。

 前世よりも知識が増え、行動力が増し、物事を計画的に進める能力まで身につけている。

 そして、俺が断れば、その言葉をちゃんと聞くようになった。

 それは確かに成長なのだろう。

 だが、根本的なところは何も変わっていない。

 俺のそばにいたい。

 俺から命令されたい。

 俺に喜んでもらいたい。

 その気持ちだけは、前世から少しも変わっていないらしい。

 ……まったく。

 どうしようもねえな、こいつ。

 そう思ったのに、不思議と腹は立たなかった。

 ノエルは冊子を大切そうに抱え、俺の顔を見上げていた。

 その笑顔は、あの頃と同じだった。

 ただ、そこにいるのは、もう前世の女ではない。

 伯爵家の嫡男として二十二年間を生きてきた、一人の青年なのだ。

 俺は、まだそのことを十分に理解できていない。

 けれど、少なくとも、こいつを前世のままの存在として扱うわけにはいかないということだけは、わかり始めていた。

「……二人とも」

 セシリア殿下が、静かに口を開いた。

 俺たちは揃って顔を向けた。

 殿下は、先ほどからずっと俺たちのやり取りを見守っていたらしい。紅茶のカップにはすっかり手をつけなくなっていたが、その表情には最初のような警戒心はなく、代わりに、何かを考えるような落ち着いた眼差しがあった。

「ようやく、少し事情がわかってきた気がするわ」

「……申し訳ございません、殿下。お見苦しいところをお見せしました」

「構わないわ。むしろ、最初に心配していたようなことではなさそうで、安心したくらいよ」

 セシリア殿下は、俺とノエルを交互に見比べた。

「正直に申し上げると、私は最初、ノエルが何か不当な扱いを受けているのではないかと思っていたの。でも、こうして話を聞いてみると、どうやら少し違うようね」

「……はい」

「むしろ、ロイのほうが苦労しているように見えるわ」

「お察しいただけて何よりです!!」

 思わず声が大きくなった。

 ようやくわかってくださった!

 俺がこの状況で、どれほど理不尽な苦労を強いられているのか!

 王女殿下は、やはり聡明なお方だ!

 しかし、ノエルは少し不思議そうに首を傾げた。

「ご主人様が、苦労なさっているのですか?」

「誰のせいだと思ってんだ!」

「まあ……! わたくしのために、そこまで……!」

「喜ぶところじゃねえ!」

 セシリア殿下が、小さく笑った。

 ただし、そのあとすぐに表情を改めると、ノエルへ向き直った。

「ノエル。あなたがロイを大切に思っていることは、よくわかったわ。けれど、相手のことを大切に思うのであれば、相手の気持ちも尊重しなければいけないわね」

「……はい」

「ロイが嫌だと言っていることを、あなたの身分や財力で無理に押し通してはいけません。どれほど親しい関係でも、それは同じことよ」

 ノエルは真剣な表情で頷いた。

「承知いたしました。今後は、ご主人様のお気持ちを第一に考えます」

「ええ。それがいいわ」

 殿下は満足そうに微笑むと、今度は俺のほうへ視線を向けた。

「そして、ロイ」

「はっ!」

「そなたも、逃げ回るだけでなく、きちんと話し合いなさい」

「……はっ!」

「ノエルがこれほどまでにそなたを慕っているのだから、頭ごなしに拒絶するのではなく、何が嫌で、何なら受け入れられるのか、言葉にして伝えるべきでしょう」

「おっしゃるとおりでございます……」

「二人とも成人なのだから」

 見事な正論だった。

 何ひとつ反論できない。

 王女殿下の仰ることは、まったくもって正しい。

 俺はノエルの勢いに押されるあまり、とにかく逃げることばかり考えていた。しかし、前世からの関係がある以上、いつまでも逃げ続けていればいいというものでもないのだろう。

 ノエルが本当に俺を慕ってくれているのなら、俺もまた、その気持ちに誠実に向き合う必要がある。

 ただし、それは何でも言いなりになるという意味ではない。

 断るべきことは断る。

 受け入れられることについては、きちんと話し合う。

 今の俺たちに必要なのは、そういう当たり前のことなのかもしれない。

「……わかりました、殿下。今後はノエルとも、きちんと話し合うようにいたします」

「ええ。そうなさい」

「はい!」

 ノエルも嬉しそうに頷いた。

 ようやく、少しはまともな方向へ話が進んだ気がする。

 王女殿下の仲裁のおかげで、俺たちは互いの意思を尊重し、今世での新しい関係について考えることになった。

 少なくとも、いきなり伯爵家の随行者に転職させられたり、騎士団の宿舎に美少年が転がり込んできたりする事態は避けられそうだ。

 ……本当によかった。

 セシリア殿下は、そこでようやく紅茶のカップを持ち上げた。

 すっかり冷めてしまった紅茶を一口だけ飲み、少しだけ苦笑する。

「それにしても、ノエル。そなたがこれほどまでに一人の相手へ夢中になるとは思わなかったわ」

「ふふっ。わたくしも、こうして再会できる日が来るなんて、夢のようでございます」

「そう。四年間も探していたのですものね」

「はい」

 ノエルは、静かに微笑んだ。

 その笑顔は、先ほどまでの浮かれたものとは少し違っていた。

 俺は、その横顔を見つめた。

 四年間。

 こいつは、その時間をどんなふうに過ごしてきたのだろう。

 伯爵家の跡取りとして学び、家族や友人と暮らしながら、その一方で俺を探していたという。

 その間に、諦めようと思ったことはなかったのだろうか。

 もう会えないかもしれないと、不安になったことはなかったのだろうか。

 俺には、まだ何もわからない。

 ただ、今日のノエルの姿を見ていると、こいつが俺との再会をどれほど楽しみにしていたのか、その一端だけは伝わってくるような気がした。

「……ご主人様?」

 ノエルが、こちらを向いた。

「……なんだよ」

「わたくし、今、とても幸せです」

 その言葉は、前世でも何度も聞いたものだった。

 あいつは、何かあるたびに幸せだと言っていた。

 俺から命令されたときも、くだらないことで言い争ったあとも、二人で何でもない時間を過ごしているときも。

 そして、最後の夜も。

 あのとき、俺はあいつの手を取ろうとした。

 けれど、本当に届いたのかどうかは覚えていない。

 今、目の前にいるノエルは、確かに生きている。

 姿も、声も、何もかも変わってしまったが、こうして自分の意思で笑い、俺と話している。

 そのことが、少しだけ嬉しかった。

「……そうかよ」

 俺が答えると、ノエルは心の底から嬉しそうに微笑んだ。

 俺はその顔から目を逸らし、何とも言えない気持ちで小さく息を吐いた。

 ……まったく。

 こいつは本当に、昔から変わらねえな。

 ただし、今度こそ無茶をさせるわけにはいかない。

 前世では、互いに幸せだと思っていた時間が、突然終わってしまった。

 その理由すらわからないまま、俺たちは別々の人生を歩むことになったのだ。

 だから、今世ではもう少し慎重に考えたい。

 目の前の相手が喜んでいるからといって、それだけで何もかも決めてしまうのではなく、ちゃんと話をして、互いの気持ちを確かめながら進んでいきたい。

 そんなことを考えていると、ノエルが遠慮がちに声をかけてきた。

「……ご主人様」

「今度はなんだ」

「ご主人様のお仕事が終わるまで、わたくし、ちゃんとお待ちしておりますね」

 意外な言葉だった。

 てっきり、今すぐどこかへ連れていけと騒ぎ出すかと思っていたのだが、ノエルはきちんと俺の仕事を理解してくれたらしい。

「……おう。そうしてくれると助かる」

「はい! ご主人様のお仕事を邪魔するようなことはいたしません!」

 ノエルは、少しだけ姿勢を正した。

「わたくしも、今日は伯爵家の者として祝宴に出席しておりますから。ご主人様が騎士としてのお務めを大切になさっているのと同じように、わたくしも、自分の務めを果たしてまいります」

 俺は、思わず顔を上げた。

 ……へえ。

 ちゃんとわかってるじゃねえか。

 その言葉には、さっきまでのような浮かれた調子がなかった。

 伯爵家の嫡男としての責任を理解し、自分の役割を果たそうとする、一人の青年の姿がそこにあった。

 俺の知っている前世のあいつには、こんな一面はなかったように思う。

 いや、単に俺が知らなかっただけなのかもしれない。

 何しろ、前世の俺たちは、互いの仕事について深く話し合うことも、それほど多くなかったのだから。

「……そうか。それなら、俺も安心だ」

「はい!」

 ノエルは嬉しそうに頷いた。

 そして、少しだけ声を落とす。

「ですから、お仕事が終わりましたら、たっぷりとお時間をいただけますか?」

「……何に使うつもりだ」

「もちろん、今後の主従生活についてのご相談に」

「まだ諦めてなかったのかよ!!」

「だって、ご主人様! 話し合うことが大切なのでしょう?」

「そうだけど! そうだけども!!」

 俺は、反論の言葉を失った。

 ノエルは、実に満足そうな笑顔を浮かべている。

 どうやら、本人の中では完全に筋が通っているらしい。

 俺の意思を尊重する。

 そのために、きちんと話し合う。

 そして、話し合いの議題として、前世の主従関係をどう再開するかを持ち出す。

 ……うん。

 理屈としては、間違っていない。

 間違っていないのが、余計に腹立たしい。

 セシリア殿下は、再び扇で口元を隠していた。

 どうやら、今度こそ笑いを堪えきれなくなったらしい。

「……ふふっ。ロイ、そなたも大変ね」

「笑い事ではございません!!」

「でも、少し安心したわ」

「何がでございますか!?」

「少なくとも、ノエルがそなたの前で、とても幸せそうなのは間違いないもの」

 その言葉に、俺は思わずノエルを見た。

 白銀の髪を揺らしながら、青年は嬉しそうに微笑んでいる。

 前世とは何もかも違う姿なのに、その笑顔だけは不思議なほど懐かしかった。

 ああ、そうだ。

 こいつは昔から、こういう顔で笑うやつだった。

 俺がどれほど呆れても、怒鳴っても、最後にはこちらまで笑わせてしまう。そうして、いつの間にか隣にいることが当たり前になっていた。

 その笑顔を、もう一度見られた。

 そう思えば、今の状況も少しくらいは受け入れてやっていいのかもしれない。

 ……いや。

 駄目だ。

 そうやって甘やかすから、こいつは調子に乗るのだ。

「ご主人様?」

「……なんだよ」

「では、またあとでお会いできますね?」

 ノエルは、少しだけ首を傾げた。

 その仕草が、妙にかわいらしかった。

 ……くそ。

 だから、そんな顔をするな。

 俺は男だぞ。

 お前も男だぞ。

 しかも、お前は伯爵家の御曹司なんだぞ。

 なのに、どうしてそんなに嬉しそうなんだ。

 ……いや、待て。

 何を考えているんだ、俺は。

「……ああ。仕事が終わったらな」

 俺が答えると、ノエルはぱっと顔を輝かせた。

「はい! 楽しみにしております」

 その返事を聞いて、俺は小さく溜息をついた。

 どうやら、俺の平穏な第二の人生は、そう簡単には戻ってこないらしい。

 ただし、今のところ正式な雇用契約は成立していないし、騎士団への転職願も出されていない。少なくとも、伯爵家の財力と権力によって俺の人生が勝手に決められることだけは、避けられたはずだった。

 ……はずだったのだが。

 問題は、そんな俺たちの事情など知らない人間が、王宮には大勢いるということだった。

 そもそも、大広間であれほど派手な騒ぎを起こしてしまったのである。

 俺たちがこの小客間でどれほど真面目に話し合おうと、祝宴の客人たちが目撃した光景まで消せるわけではない。

 伯爵家の御曹司が、平民出身の護衛騎士をご主人様と呼んでいた。

 それだけでも十分に奇妙な話だったはずなのに、世の中には、事実だけでは満足できない人間がいるらしい。

 人の噂に戸は立てられぬというが、どうやら異世界でも、その言葉は通用するようだった。

 もっとも、そのときの俺はまだ知らなかった。

 俺たちが大広間で交わした、ほんの数分間の会話が、いかに恐ろしい速度で王宮中へ広がっていくのかを。

 そして、そこへ尾ひれがつき、背びれがつき、しまいには立派な角まで生えた怪物のような噂が、俺の騎士人生を脅かすことになるとは。

 ……ああ、くそ。

 どうしてこうなった。

 俺は、この日ひとつの教訓を得た。

 金で買えないものは、世の中に確かに存在する。

 だが、金と権力を持ったメスブタに猛烈に慕われると、金では守れないものまで失いかねないのである。

 そして、何より恐ろしいことに。

 そのメスブタは今、絶世の美貌を持つ伯爵令息となって、俺の隣で幸せそうに微笑んでいるのだ。

「ご主人様」

「……なんだよ」

「わたくし、今日という日を、一生忘れません」

 その声は、いつになく穏やかだった。

 俺は顔を向けた。

 ノエルは、胸元に冊子を抱えたまま、まっすぐ俺を見つめていた。

 そこにあるのは、先ほどまでの浮かれた笑顔ではなかった。

 ただ、長いあいだ待ち続けた相手に、ようやく会えたことを喜んでいる、一人の青年の顔だった。

「……そうか」

 俺は少しだけ笑った。

「俺も、多分忘れねえよ」

 ノエルの頬が、ほんのりと赤くなった。

 そして、嬉しそうに微笑んだ。

「……はい、ご主人様」

 その返事を聞きながら、俺は思った。

 ……ああ。

 こいつ、本当に変わってねえな。

 そのことが、少しだけ嬉しかった。

 そして同時に、俺はまだ知らなかった。

 この再会が、俺の人生最大の醜聞になることを。

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