第二節 ――メスブタは伯爵令息になっていた
王宮の大広間で巻き起こった騒動は、セシリア殿下の鶴の一声によって、ひとまず収拾がつけられた。
もっとも、収拾がついたのは表面上だけである。
伯爵家の御曹司が平民出身の護衛騎士に向かって「ご主人様」と叫び、あまつさえ自らを「メスブタ」と称したのだ。王宮に仕える貴族たちが、こんな極上の醜聞を見逃すはずもない。
祝宴の演奏が再開されたあとも、俺たちの周囲では好奇の視線が飛び交い、扇の陰に隠れた貴婦人たちの口元が、何やら忙しく動いていた。
俺の評判は終わったかもしれない。
いや、待て。まだ何もしていない。俺は何も悪くないはずだ。それなのに、どうして周囲から向けられる視線が、まるで伯爵家の御曹司にいかがわしい教育を施した変態騎士を見るようなものになっているんだ。
しかも、非常に腹立たしいことに、当のノエルはまったく動じていなかった。
先ほどまで俺に向かって大声でご主人様と叫んでいたくせに、セシリア殿下から静かにするよう言われた途端、見事なまでに礼儀正しい貴公子へ戻ってしまったのである。
貴婦人から挨拶されれば優雅に微笑み、顔見知りの貴族には丁寧に会釈を返し、周囲へ向ける物腰にも一切の乱れがない。
なんだ、その切り替えの早さは。
俺は今にも職務上の信用を失いそうになっているというのに、お前だけ何事もなかったかのような顔をするんじゃない。
しかも、時折こちらを振り返っては、頬を染めながら嬉しそうに微笑んでくる。
やめろ。
そんな顔をするな。
また周囲が妙な勘繰りを始めるだろうが。
そんな俺の苦悩を知ってか知らずか、セシリア殿下は侍従長へ一時的に席を外す旨を伝えると、俺とノエルを王宮の奥にある小客間へ招いた。
俺については、同僚の騎士へ護衛位置を引き継ぎ、扉の外にも警護を配置するという正式な手順を踏んでいる。
さすがはセシリア殿下だ。
どれほど不可解な騒動に巻き込まれても、公務の扱いだけは決して疎かになさらない。
できれば、俺もその冷静さを見習いたかった。
まあ、原因となっている青年が、隣を歩きながら何度も俺の顔を覗き込んでくるので、非常に難しいのだが。
「……なんだよ」
「いいえ。ただ、ご主人様が本当にいらっしゃるのだと思うと、嬉しくて」
「頼むから、もう少し声を落とせ」
「はいっ」
言われたとおり声を落とすところまではよかった。
しかし、その返事があまりにも幸せそうだったため、廊下に控えていた衛兵が一瞬こちらを見た。
……駄目だ。
どこへ行っても逃げ場がない。
* * *
案内された小客間には、上品な調度品が並んでいた。
窓際には季節の花が飾られ、壁に設えられた小さな魔導灯が柔らかな光を放っている。中央の丸卓には侍女が用意した紅茶が湯気を立てており、王族の私的な談話室にふさわしい、静かで落ち着いた空間だった。
普段なら、王女殿下の私的な客間へ通されるなど、平民出身の騎士にとっては相当な名誉である。
しかし、今の俺には処刑台へ連れてこられた気分しかなかった。
「さて」
侍女が退室し、扉が閉められたところで、セシリア殿下が静かに口を開いた。
その声は穏やかだったが、決して気楽な雰囲気ではない。普段から彼女の護衛を務めている俺にはわかる。殿下がこのような調子で話し始めるときは、大抵、誰かが重大な問題を起こしたときだ。
そして今回は、どう考えても俺がその誰かに含まれている。
「まず確認しておきたいのだけれど、ノエル。あなたとロイは、以前から面識があったの?」
「はい、殿下!」
ノエルは満面の笑顔で頷いた。
白銀の髪が肩先で揺れ、澄んだ青い瞳が嬉しそうに細められる。その仕草だけを見れば、久しぶりに幼なじみと再会した貴公子のようで、実に微笑ましい。
ただし、こいつの場合、その微笑ましさが長続きしない。
「とても、とても深いご縁がございます!」
「深いご縁?」
「はい! わたくしにとって、何ものにも代えがたい、大切なお方なのです!」
セシリア殿下の視線が俺へ向いた。
俺は全力で首を横に振った。
「……ロイ?」
「自分は今世において、こちらの御子息と面識を持ったことはございません!」
「今世?」
しまった。
余計なことを言った。
殿下の眉が、わずかに持ち上がる。
「今世というのは、どういう意味かしら?」
「あっ、それは……」
「前世でございます!」
俺がどうにか誤魔化そうとした矢先、ノエルが元気よく答えた。
「わたくしたちは、前世から固く結ばれた主従関係なのです!」
「主従関係……」
「はい! ご主人様と、その忠実なるメスブタとして!」
「お前はちょっと黙ってろおおお!!」
「はいっ」
ノエルは両手を膝の上に揃え、背筋をぴんと伸ばして嬉しそうに微笑んだ。
……駄目だ。
こいつ、まったく変わっていない。
昔からそうだった。少し強く命令するだけで、こちらの意図とは関係なく喜び始める。しかも、ただ従順なだけではない。こちらが困るような言動を平然と繰り返し、その結果として叱られることまで楽しんでいるのだから、厄介極まりない。
もっとも、こうして大人しく座っている姿は、実に育ちのよい貴公子そのものだった。
背筋の伸ばし方も、手を置く位置も、王族と話す際の礼儀として何ひとつ間違っていない。そもそも、その美貌と上品な礼装だけでも十分に絵になるのだ。
それなのに、口を開けばメスブタである。
この落差は、もはや何かの詐欺ではないだろうか。
セシリア殿下は、そんなノエルをしばらく見つめていた。
「……ノエル。ひとつ、聞いてもいいかしら」
「なんでしょう、殿下?」
「あなたは、ロイに何か弱みを握られているの?」
「いいえ?」
「あるいは、何か不当な要求を受けているとか」
「とんでもございません!」
ノエルは心底驚いたように目を丸くした。
「わたくしが、この方をお慕いしているだけです」
「……そう」
「昔から、ずっとお慕いしております」
その答えには、一片の迷いもなかった。
セシリア殿下は少し表情を和らげたものの、まだ納得したわけではないらしい。
彼女にしてみれば、幼い頃から知っている伯爵家の令息が、突然、平民の騎士を主人と呼び始めたのである。何らかの不当な支配関係を疑うのも、無理はなかった。
しかも、王女殿下はノエルの家柄も、その家における立場もよくご存じなのだろう。
自分の意思で行動できる成人男性とはいえ、伯爵家の跡取りが公衆の面前であれほど異様な振る舞いを見せたのだから、単なる私的な問題として片づけるわけにもいかないはずだ。
「では、ご主人様という呼び方は?」
「愛情表現でございます」
「ほう」
「わたくしにとっては、何よりも尊い呼び名なのです」
「なるほど」
「そして、できれば今世でも調教していただきたく」
「ほう?」
「言うなああああ!!」
俺の絶叫が、小客間に響き渡った。
隣の部屋にまで聞こえたかもしれない。
というか、聞こえていたら俺の人生がさらに終わる。
セシリア殿下は紅茶のカップを持ち上げかけた姿勢で固まっていたが、やがて静かに受け皿へ戻すと、俺をまっすぐに見据えた。
「ロイ」
「はっ!」
「そなたは伯爵家の御子息に、いったい何を教えた?」
「何も教えておりません!」
「では、調教とは何だ」
「自分が知りたいです!」
「……先ほどの言い方だと、そなたはその言葉の意味を知っているように聞こえたけれど」
鋭い。
王女殿下、鋭すぎます。
さすがは王国屈指の才媛と謳われるお方だ。部下の発言に含まれる矛盾を、一瞬たりとも見逃してくださらない。
ありがたくねえ!
「そ、それは一般的な言葉の意味としてでございまして!」
「そう。では、一般的な意味を説明してちょうだい」
「……人や動物に、一定の行動を教え込むことかと」
「なるほど。ノエルは、そなたから何を教わりたいの?」
「存じません!」
「ご主人様、わたくしでしたら……」
「頼む! 今だけは本当に黙っていてくれ!」
ノエルが口を閉じた。
そして、少し頬を赤くして微笑んだ。
……ああ、そうだった。
こいつに懇願するのも駄目なんだった。
命令すれば喜ぶし、お願いすれば嬉しそうにする。だからといって放置すれば、勝手にとんでもないことを言い出す。
どうしろというんだ。
「今、ノエルは『今世でも』と言ったわね」
「はい!」
「ということは、以前にも何かあったの?」
「……ございません!」
「ご主人様?」
「お前は黙ってろ!」
「はいっ」
「ロイ。ノエルが喜んでいるわ」
「自分も困惑しております!!」
セシリア殿下は額に指を当て、長い溜息をついた。
彼女は聡明な女性である。政務にも明るく、貴族社会の複雑な人間関係にも精通し、どれほど厄介な揉め事でも冷静に処理してきた。
その王女殿下が、目の前の状況をどう解釈すればいいのかわからず、本気で悩んでいらっしゃる。
当然だろう。
俺だってわからん。
いや、前世の関係を知っている分だけ、俺のほうが状況を理解しているはずなのだが、理解できることと納得できることは別問題なのである。
そもそも、俺はまだ、目の前の青年が本当に前世のあいつなのか、完全には信じられずにいた。
あの性格は確かにそっくりだ。
妙なところで嬉しそうになる癖も、俺に命令をねだるときの表情も、恐ろしいほど一致している。
けれど、それだけで本人だと決めつけるには、あまりにも違いが大きすぎた。
まず、顔が違う。
あいつは、こんな宝石細工のような顔立ちではなかった。
もちろん、前世の彼女も俺にとっては十分に魅力的な女だったが、今のノエルは美しさの方向が違う。あまりにも整いすぎていて、何やら現実味がないのである。
声も違った。
前世のあいつは、もっと柔らかく、高い声で笑っていた。今のノエルの声には青年らしい落ち着いた響きがあり、同じ言葉遣いでも、耳に届く印象がまるで違う。
何より、男なのだ。
女と見紛うほどの美貌を備えてはいるものの、礼装の肩幅や喉元の輪郭には成人男性らしい特徴がある。
前世のあいつは女だった。
俺の記憶に残っている姿と、今のノエルはあまりにも違いすぎる。
……いや、待て。
俺自身だって、前世とは顔も身体も違うじゃないか。
なのに、こいつは俺を見つけた瞬間、ご主人様だと確信していた。
大広間では、俺の騎士服を見て、何かを確かめるような素振りもしていた。
もしかして、前から俺のことを知っていたのだろうか。
そう思うと、ますますわからなくなる。
「……おい、ノエル」
「はい、ご主人様!」
「お前、本当に……あいつなのか?」
俺が尋ねると、ノエルは一瞬だけきょとんとした。
それから、何かを察したように表情を和らげる。
「……まだ、信じていただけませんか?」
「いや、その……」
「そうですよね。こんな姿になってしまったんですもの。ご主人様が驚かれるのも、無理はありません」
ノエルは、少し困ったように微笑んだ。
先ほどまでの浮かれた様子とは違っていた。
嬉しさを隠しきれないような表情はそのままだったが、俺がすぐに信じられないことも、ちゃんと理解しているらしい。
「……実は、わたくしも最初は驚いたんです」
「……最初?」
「はい。十八歳のとき、前世の記憶を取り戻しまして」
俺は思わず顔を上げた。
「十八歳?」
「はい。それまでは、自分が別の世界で生きていたことなど、少しも知りませんでした。突然、知らないはずの場所や人の顔を思い出してしまって、最初は何が起きたのかわからなかったんです」
「……そうだったのか」
「ですから、ご主人様をお探しし始めたのも、それからでございます」
ノエルは小さく微笑んだ。
「もう、四年になります」
四年。
その数字を聞いて、俺は少しだけ言葉を失った。
俺は幼い頃に前世の記憶を取り戻している。だから、あの頃の出来事は、今ではずいぶん遠い過去のように感じられることもあった。
だが、ノエルにとっては違うのだろう。
十八歳まで伯爵家の御曹司として生きてきたところへ、突然、別の人生の記憶が戻ってきた。
そして、その記憶の中に俺がいた。
……四年間も、探していたのか。
俺を。
ノエルは膝の上に揃えた手へ視線を落とし、しばらく考えるように黙っていた。
やがて顔を上げると、静かな声で話し始めた。
「ご主人様は、甘いものがお好きでしたよね」
「……は?」
「特に、駅前の洋菓子店で売っていた苺のショートケーキ。いつも『甘いものなんて女の食い物だ』なんておっしゃるくせに、わたくしが買って帰ると、誰よりも嬉しそうに召し上がっていました」
「お、おい……」
「それから、冷蔵庫に入れていたプリンを、ご主人様が勝手に召し上がってしまったこともありましたね」
……うっ。
「わたくし、あのときは本当に怒ったんですよ。ちゃんと名前まで書いておいたのに、ご主人様ったら、蓋の裏なんて見るはずがないって……」
「……ああ」
「でも、次の日には二つ買ってきてくださいました」
ノエルが楽しそうに笑った。
「ご主人様、あのとき少しだけ不服そうなお顔をなさっていましたけれど、わたくしが喜んでいるのを見て、最後には笑ってくださいましたよね」
……まさか。
そんなことまで覚えているのか。
あのプリン事件は、俺たち二人しか知らない出来事だった。
しかも、わざわざ覚えておくような話でもない。
ただの日常の、どうでもいいような出来事だ。
それなのに、ノエルは昨日のことのように話している。
胸の奥で、何かが小さく動いた。
「……それから、雷も苦手でした」
「待て。それは……」
「大きな雷が鳴る夜は、いつもわたくしより先に窓を閉めてくださって。『雨が吹き込むからだ』なんておっしゃっていましたけれど、本当はわたくしが怖がらないようにしてくださっていたんですよね?」
言葉が出なかった。
確かに、俺は雷が苦手だった。
子供の頃から大きな音が嫌いで、雷鳴が響くたびに、つい肩をすくめてしまう癖があった。
だが、あいつが怖がっている手前、自分まで怯えるわけにはいかないと思っていたのだ。
俺は主人だったのだから。
もっとも、今になって考えれば、そんな妙な意地を張る必要もなかったのだろう。
「……お前、気づいてたのか」
「もちろんです」
ノエルは、少し得意そうに微笑んだ。
「ご主人様は、ご自分が怖がっていることを隠すのが、あまりお上手ではありませんでしたから」
「……うるせえ」
「ふふっ」
ノエルは小さく笑った。
俺はもう、叱る気になれなかった。
あの夜の雷。
慌てて閉めた窓。
雨粒のついたガラス。
そんな景色が、今になって鮮明に思い出される。
しかも、あいつは知っていたのだ。
俺が平気なふりをしていたことを。
……まったく。
主人の威厳も、あったものじゃない。
「それから、お仕事でお疲れになって帰っていらしたときは、いつも温かい飲み物を用意してお待ちしていました。ご主人様は、何も言わずに飲んでくださることが多かったですけれど……」
そこで、ノエルは少しだけ照れくさそうに笑った。
「たまに『うまい』っておっしゃってくださるのが、わたくし、とても嬉しかったんです」
俺は、思わず息を止めた。
あの部屋が、ふいに思い出された。
狭い台所。
古びた食卓。
窓の外を走る電車の音。
仕事でくたくたになって帰宅すると、彼女はいつも笑顔で迎えてくれた。
俺が玄関で靴を脱いでいる間に飲み物を用意し、何も聞かずに隣へ座ってくれた。
あの頃の俺は、そんな時間がずっと続くものだと思っていた。
当たり前のように帰る場所があって、そこには自分を待っている誰かがいる。
それがどれほど幸せなことだったのか、失って初めて気づいたのだ。
「……お前」
喉の奥が、少しだけ詰まった。
目の前にいるのは、美しい伯爵令息だった。
前世の彼女とは、顔も声も、身体も違う。
けれど、今こうして話していると、そんな違いが少しずつ遠のいていくような気がした。
ノエルが何かを思い出すたびに、俺の中にある前世の記憶も、同じ景色を映し出す。
プリンをめぐる馬鹿馬鹿しい喧嘩も、雷の夜の小さな見栄も、仕事で疲れ果てた俺の隣に座っていてくれた時間も。
どれも、俺たち二人だけの記憶だった。
そして、その記憶を覚えている人間は、もうこの世界にはいないと思っていた。
……違った。
いたんだ。
ここに。
「……本当に、お前なのか」
「はい」
ノエルは、嬉しそうに微笑んだ。
「ただいま戻りました、ご主人様」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず立ち上がりかけた。
もう二度と会えないと思っていた。
あの夜、最後に伸ばした手が届いたのかどうかさえ、覚えていなかった。
彼女が本当に幸せだったのか、それとも最後の瞬間には怖い思いをしていたのか。そんなことさえ確かめられないまま、俺は別の世界で二十年以上を生きてきたのである。
前世のあいつは、確かに死んだはずだった。
俺も死んだ。
だから、もう会えるはずがないと思っていた。
それなのに、今、目の前にいる。
姿は変わってしまった。
声も、身体も、名前さえも。
けれど、あいつは生きている。
あの夜の向こう側で、ちゃんと別の人生を歩んできたのだ。
「……そうか」
ようやく、それだけ言えた。
「お前も、こっちに来てたんだな」
「はい……!」
ノエルの瞳が、わずかに潤んだ。
俺も、胸の奥に込み上げてくるものを抑えきれなかった。
もしここにセシリア殿下がいなければ、思わず抱きしめていたかもしれない。
それくらい、嬉しかった。
ただ、そのときの俺は、ノエルが四年間も俺を探していたという言葉の重さを、まだ十分に理解していなかったのだと思う。
自分が再会できて嬉しいことばかりが先に立ち、こいつがどんな思いで今日まで過ごしてきたのか、深く尋ねる余裕さえなかった。
それでも。
あの夜からずっと胸の奥に残っていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
……ああ。
よかった。
本当に、よかった。
俺はそう思った。
思ったのだが。
「ですから、ご主人様!」
「……ん?」
「さっそく何か命令してください!」
「断る!」
「では、まずは叱ってください!」
「いい加減にしろ!」
「はいっ」
「だから喜ぶなって言ってんだろ!!」
感動を返せ。
俺の感動を返せえええ!!
ノエルは頬を染め、両手を胸元でぎゅっと握りしめながら、まるで長年の夢が叶ったかのように幸せそうな顔をしている。
さっきまでのしんみりした雰囲気はどこへ消えた。
いや、もちろん嬉しいんだぞ。
前世のあいつに再会できて、俺は本当に嬉しかった。胸が熱くなったし、もう一度会えてよかったと心から思った。
しかし、それとこれとは話が別である。
あいつが生きていてくれたことと、俺が今世でもご主人様を務めることの間には、越えなければならない問題が山ほどある。
まず、そもそも俺は男だ。
そして、こいつも男だ。
しかも伯爵家の御曹司で、俺より遥かに身分が高い。
こんな状況で、前世と同じ関係を再開できるわけがないだろうが。
「お前なあ! 再会したばかりなんだから、もう少し普通の会話をしろ!」
「普通の会話、でございますか?」
「そうだ! こう、久しぶりだなとか、元気だったかとか、そういう話があるだろ!」
「では、改めまして……」
ノエルは姿勢を正し、優雅に微笑んだ。
その仕草は完璧だった。
王族の御前で育ちのよさを感じさせる、実に洗練された貴公子の振る舞いである。
「お久しぶりでございます、ご主人様。今世でも立派なメスブタとしてお仕えできるよう、精一杯頑張ります」
「普通の会話って言っただろうがあああ!!」
「まあ、ロイ様。そんなに怒鳴られますと……」
「なんだよ!」
「わたくし、嬉しくなってしまいます」
「知ってるよ!!」
もう駄目だ。
こいつには何を言っても無駄なのかもしれない。
いや、待て。
今、何かおかしくなかったか?
俺は、ふとノエルの顔を見た。
「……お前、今、なんて呼んだ?」
「はい?」
「いや、その……」
「ロイ様、でしょうか?」
「……ああ」
そうだ。
ロイ。
俺の今世の名前だ。
前世のあいつは、当然ながら俺をロイとは呼んでいなかった。
そもそも、ロイ・フェルナーという人間は、この世界で生まれた俺なのだから。
それなのに、ノエルは何の違和感もなく、俺を今世の名前で呼んだ。
「……お前、俺の名前を知ってたのか」
「もちろんです!」
「……いつから?」
ノエルは一瞬だけ口を開きかけ、それから何かを思い出したように微笑んだ。
「そのお話も、あとでゆっくりさせてくださいませ」
「……なんだよ、それ」
「ふふっ。ご主人様をお探ししていた四年間については、少々お話ししたいことが多くございますので」
そう言われると、無理に問い詰める気にもなれなかった。
四年間。
俺が知らないところで、こいつは何をしていたのだろう。
どうやって俺のことを探していたのだろう。
そして、どうして大広間で俺を見つけた瞬間、あれほど迷いなくご主人様だと確信できたのだろう。
聞きたいことは山ほどあった。
しかし、今すぐそのすべてを問いただすわけにもいかない。
なにしろ、俺たちの目の前には、先ほどから黙って話を聞いていらっしゃる王女殿下がいるのだから。
「……ロイ」
そのセシリア殿下が、静かに口を開いた。
「はっ!」
「ひとまず、そなたたちが以前から知り合いだったことは理解したわ」
「恐れ入ります……」
「前世という話については、正直なところ、まだ半信半疑だけれど」
「ごもっともでございます」
「ただ、ノエルがそなたを慕っていることだけは、疑いようがないようね」
殿下はそう言って、ノエルへ視線を向けた。
ノエルは嬉しそうに頷いている。
「はい! わたくし、ご主人様のことが大好きです!」
「……そう」
「世界で一番、大好きです!」
「よくわかったわ」
「愛しております」
「ノエル。そこまでで結構よ」
王女殿下にまで制止されている。
相当だぞ、お前。
それにしても、セシリア殿下の態度は、先ほどとは少し変わっていた。
最初は、俺がノエルへ何らかの不当な影響を与えているのではないかと警戒していたはずだ。
だが、今はノエル本人の言葉を聞き、その表情を確かめながら、俺たちの関係を判断しようとしている。
幼なじみだからこそ、ノエルが普段どのような人間なのかもよく知っているのだろう。
ノエルが嘘をついているのか。
何かを恐れているのか。
それとも、本当に自分の意思で俺を慕っているのか。
その違いを、慎重に見極めようとしているようだった。
「……ノエル」
「はい、殿下?」
「あなたは、今の生活に不満があるの?」
「不満、でございますか?」
「ええ。エヴァレット伯爵家の御子息として、何か困っていることがあるのなら、遠慮なく相談してちょうだい」
ノエルは少し驚いたように目を丸くした。
「とんでもございません。父上も母上も、わたくしを大切にしてくださっておりますし、家の仕事についても、少しずつ学ばせていただいております」
「そう。それならよかったわ」
「セシリア殿下にも、幼い頃から大変お世話になっておりますもの。わたくしは、今の人生にも十分満足しております」
ノエルは穏やかに微笑んだ。
その姿は、先ほどまでの浮かれた青年とは別人のようだった。
自分の家族について語るときの言葉遣いも、伯爵家の務めについて話すときの落ち着きも、俺が知っている前世のあいつとは少し違っている。
当たり前のことなのかもしれない。
こいつは、この世界で二十二年間も生きてきたのだから。
前世の記憶を取り戻したのは十八歳。
それ以前にも、ノエル・フォン・エヴァレットという人間の人生があったのだ。
俺はそのことを、ようやく少しだけ実感した。
「では、ロイを慕う気持ちも、今のあなた自身の意思なのね?」
「もちろんでございます」
ノエルは、今度こそ真剣な表情で答えた。
「前世の記憶があるからというだけではありません。わたくしは、もう一度あの方にお会いしたいと、自分で望んだのです」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
ノエルは、まっすぐセシリア殿下を見つめていた。
甘えるような笑顔はない。
ただ、自分の気持ちを説明しようとする、成人した一人の青年の顔だった。
セシリア殿下は、しばらく黙ってその表情を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……わかったわ」
殿下は少しだけ安堵したように微笑むと、今度は俺へ視線を向けた。
「ロイ。そなたは、ノエルに不当な要求をしているわけではないのね?」
「天地神明に誓って!」
「少なくとも、今のところはそういうことなのでしょうね」
「今後とも、そのような予定はございません!」
「予定の有無を確認しているのではないわ」
ごもっともである。
「ただし、ロイ。ひとつだけ覚えておきなさい」
「はっ!」
「ノエルは伯爵家の嫡男であり、そなたは私の護衛騎士よ。互いの私的な関係が、王宮の職務や伯爵家の責務へ影響を及ぼすようなことは、決して望ましくありません」
「承知しております」
「ノエルもよ」
「はい、殿下」
ノエルは、素直に頭を下げた。
セシリア殿下は満足そうに頷いたが、そのあと、何かを思い出したように俺たちを交互に見比べた。
「それで、そなたたちは今後、どうするつもりなの?」
…………。
俺は黙った。
ノエルが顔を輝かせた。
嫌な予感がした。
というか、嫌な予感しかしなかった。
「ご主人様!」
「……なんだよ」
「ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……内容による」
ノエルは、少しだけ姿勢を正した。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「ご主人様は、今世でもわたくしのご主人様でいてくださいますか?」
何気ない調子で投げかけられた問いだった。
だが、その内容を理解した途端、俺は言葉を失った。
前世では、俺が主人だった。
あいつは俺を慕い、自分から望んで従者という立場を選んでいた。俺たちは互いの合意のもとで、その関係を楽しんでいたのである。
しかし、今は違う。
俺は平民出身の護衛騎士であり、ようやく王女殿下の信頼を得られるようになったばかりの、一介の軍人にすぎない。
一方、ノエルはエヴァレット伯爵家の嫡男だ。
名門貴族の跡取りであり、領地と財産を受け継ぐ立場にある。王女殿下とも幼少期から親交があり、その社会的な地位は俺などとは比べものにならない。
今のノエルがその気になれば、俺のような平民騎士を私的な随行者として雇うことも、伯爵家の仕事へ協力させることも、相応の手続きを踏めば不可能ではないだろう。
つまり、社会的な立場は完全に逆転しているのだ。
それなのに。
「ご主人様?」
ノエルは、昔と変わらない笑顔で俺を見つめていた。
伯爵家の跡取りとしての威厳も、貴族としての矜持も、今この瞬間だけはどこかへ消え失せている。あるのは、かつて俺の隣で笑っていた女と、まったく同じ眼差しだった。
……本当に、どうしたものか。
社会的な地位が逆転したというだけでも頭が痛いのに、こいつは俺との関係を前世のまま続けられると、本気で思っているらしい。
いや、待て。
ノエルにとっては、単に以前と同じ呼び方をしているだけなのかもしれない。
だが、俺にとってはそう簡単な話ではなかった。
こちらの世界で二十八年間を生き、騎士という仕事を手に入れ、ようやく自分の人生を築いてきたのだ。
前世の関係が大切だったからといって、それを今世へそのまま持ち込めるわけではない。
それに、ノエルだって同じはずだった。
伯爵家の人間として生きてきた二十二年間があり、家族や友人がいて、これから果たすべき責任もある。
こいつの人生は、前世の俺を探すためだけに存在しているわけではないのだから。
「……とにかく」
俺は額を押さえながら、どうにか言葉を絞り出した。
「その話は、今すぐ決められるようなことじゃない」
「そうなのですか?」
「当たり前だろ! お前は伯爵家の嫡男で、俺は騎士なんだぞ。昔とは立場が違うんだよ!」
「ですが、わたくしにとって、ご主人様はご主人様です」
「だから、そういう問題じゃ……」
「身分が変われば、お慕いしてはいけないのですか?」
俺は口を閉じた。
ノエルは不思議そうに首を傾げている。
責めるような口調ではなかった。ただ、本当にわからないといった様子で、俺の答えを待っていた。
そんな顔をされると、困る。
前世から、こいつはそうだった。
妙なところで大胆なくせに、時折、こちらが返答に窮するほど真っ直ぐな言葉を投げかけてくる。
俺は、別にこいつから慕われるのが嫌なわけではない。
再会できて嬉しかったのも本当だ。
むしろ、あの夜に失ったと思っていた相手が、こうして元気に笑っているのだから、これ以上ありがたいことはないはずだった。
ただ、その喜びと、前世の関係を再開することは、同じではない。
「……嫌だとは言ってないだろ」
「では!」
「待て! まだ何も許可してない!」
「はいっ」
「その返事も信用できねえ!」
ノエルは楽しそうに笑った。
だが、その瞳の奥には、俺が先ほど答えを濁したことへの小さな戸惑いが残っていた。
それに気づいてしまい、俺は何とも居心地が悪くなった。
……くそっ。
こいつが本気で俺を慕ってくれていることは、もう疑いようがない。
なのに、俺はその気持ちをどう受け止めればいいのか、まだわかっていないのだ。
「……二人とも」
セシリア殿下が、静かに口を挟んだ。
「ずいぶんと複雑な事情があるようだけれど、ひとつだけ確認させてちょうだい」
「はっ」
「はい、殿下」
「ノエル。あなたは、ロイを慕っているのね?」
「もちろんでございます!」
「そしてロイ。そなたは、ノエルを嫌っているわけではないのね?」
「……はい」
俺は、少しだけ言葉を選んだ。
「嫌っているわけではございません。ただ、突然のことで、どう接すればよいのか判断できずにおります」
「そう」
セシリア殿下は、ゆっくりと頷いた。
「ならば、急いで結論を出す必要はないでしょう」
「……はい」
「二人とも成人なのだから、互いの意思を尊重して、落ち着いて話し合いなさい。相手が望んでいるからといって、何でも受け入れる必要はないし、反対に、相手の気持ちを確かめずに決めつけるのもよくないわ」
見事な正論だった。
何ひとつ反論できない。
さすがはセシリア殿下だ。こんな理解不能な状況でも、きちんと公平な判断を下してくださる。
俺は心から感謝した。
ところが。
「では、ご主人様!」
ノエルが勢いよく顔を上げた。
「殿下のお許しもいただけましたし、改めて主従関係についてご相談を!」
「待て待て待て!」
「まずは毎日の命令回数から決めましょうか」
「そんなもの決める必要はない!」
「では、お仕置きの頻度について……」
「もっと必要ねえ!!」
セシリア殿下が、静かに紅茶のカップを置いた。
「……ノエル」
「はい、殿下?」
「私が許可したのは、二人で話し合うことよ」
「はい!」
「主従関係を再開することを許可したわけではないのだけれど」
「承知しております!」
「本当に?」
「もちろんです! ですから、ご主人様のご希望を伺いながら、少しずつ今後の生活を整えていこうと思っております!」
……ん?
待て。
今、何かおかしなことを言わなかったか?
「……ノエル」
「はい、ご主人様!」
「今後の生活って、なんだ?」
「もちろん、わたくしたちの新しい生活でございます!」
…………。
俺は、ゆっくりとセシリア殿下を見た。
殿下も、ゆっくりと俺を見た。
何とも言えない沈黙が、小客間に流れる。
その間にも、ノエルは胸の前で両手を組み、実に幸せそうに微笑んでいた。
「ご主人様と再会できたときのために、いろいろと準備してまいりましたので!」
「……準備?」
「はい! 四年間、少しずつ計画を立てていたんです!」
「……四年間?」
「もちろんです! いつお会いできるかわかりませんでしたけれど、だからこそ、いつでもご主人様をお迎えできるようにしておきたかったのです!」
ノエルの笑顔には、何の曇りもなかった。
ああ。
そうか。
こいつは四年間、俺を探していた。
そして、その四年間という時間を、ただ俺を探すことだけに使っていたわけではなかったらしい。
再会できたあとのことまで、考えていたのだ。
……いや。
待て。
その計画とやらの中身を、俺はまだ一つも聞いていないぞ。
「……セシリア殿下」
俺は半ば泣きそうになりながら、王女殿下へ助けを求めた。
しかし、セシリア殿下はすでに紅茶のカップを持ち上げており、俺の視線に気づくと、困ったように微笑むだけだった。
「ロイ」
「はっ!」
「……頑張りなさい」
「何をですかああああ!!」
ノエルが、嬉しそうに笑った。
セシリア殿下も、とうとう堪えきれなくなったのか、扇で口元を隠しながら小さく笑っている。
俺だけが笑えなかった。
前世のメスブタは、伯爵家の美しい御曹司になっていた。
身分も、性別も、容姿も、何もかも変わっていた。
それなのに、俺を見つめる眼差しだけは、昔のままだった。
しかも、こいつは今でも、俺をご主人様と呼ぶことに何の疑問も抱いていないのである。
……ああ、わかった。
ようやく理解した。
この世界に転生したのは、俺に第二の人生を与えるためなどではなかったのかもしれない。
きっと神様は、前世で散々楽しんだ俺に、何かとんでもない罰を与えようとしているのだ。
なにしろ、今度の相手は伯爵家の御曹司である。
権力がある。
財力がある。
家柄がある。
そして、恐ろしく美しい顔まで持っている。
そんな男が、俺の前でだけ嬉々としてメスブタを名乗り、今日も元気に調教をねだってくるのだ。
しかも、本人は四年間もかけて、俺との新生活の準備まで整えているらしい。
……待て。
待て待て待て。
準備って、なんだ?
いったい何を準備した?
その問いに答えるかのように、ノエルが足元の革鞄へ手を伸ばした。
伯爵家の紋章が銀糸で刺繍された、見るからに高価そうな鞄だった。
ノエルはその留め具を外しながら、嬉しそうに微笑んだ。
「実は、ご主人様にお会いできたときのために、あるものを用意してまいりました!」
……神様。
もう一度だけ、お願いする。
今からでも遅くない。
こいつの鞄の中身を、どうにかして普通のものに変えてくれ。
書物でもいい。
菓子でもいい。
せめて、伯爵家の御曹司が持っていて不自然ではないものにしてほしい。
だが、そんな俺の祈りが届くはずもなかった。
ノエルは、まるで宝物を取り出すかのように、鞄の中から分厚い革表紙の冊子を持ち上げた。
その表紙には、優美な金文字が輝いていた。
俺は、まだ中身を読んでいない。
読んでいないのに、すでに嫌な予感しかしなかった。
俺の平穏な第二の人生は、どうやら本日をもって終了したらしい。
しかも、人生最大の悪夢は、まだ始まったばかりだった。




