第一節 ――俺たちは幸福の絶頂で死んだらしい
俺の前世は、ごく普通の日本人男性だった。
仕事をして、給料をもらい、スーパーの特売に一喜一憂し、休日には昼過ぎまで寝ている。これといって人様に誇れるような経歴もなければ、世界を変えるような偉業を成し遂げたこともない。
会社では上司に頭を下げ、取引先には愛想笑いを浮かべ、月末になると銀行口座の残高を見て溜息をつく。そんな、どこにでもいる社会人だった。
ただ一つ、普通ではなかったことがある。
俺には、メスブタがいた。
いや、待ってくれ。そこで読むのをやめないでほしい。これは決して家畜を飼育していたという話ではないし、ましてや犯罪行為に手を染めていたという話でもない。
俺には当時、親密な関係にあった成人女性がいた。
彼女は少々特殊な趣味を持っており、俺たちは互いの同意のもとで、ご主人様と性奴隷という主従関係を楽しんでいたのである。
彼女の希望する呼び名が、メスブタだった。
うん。
自分で説明していても、どうかしていると思う。
そもそも、最初にその呼び名を提案されたとき、俺は本気で聞き間違いを疑った。
メスブタ。
性奴隷。
ご主人様。
どれもこれも、普通の恋人同士が交わす会話には、なかなか登場しない単語である。
しかも、それを提案してきた当の本人は、何やら重大な決意を固めたような顔で俺を見つめていた。あの真剣な眼差しを前にして、いったいどう返事をすればよかったのか、今でも正解がわからない。
少なくとも、初めて彼女の口から「わたくしをメスブタとお呼びください」と言われたときには、自分の耳がおかしくなったのかと思ったものだ。
ちなみに、そのあと俺が「お前、本気で言ってるのか?」と尋ねたところ、彼女は頬を染めて「はいっ!」と答えた。
そのときの俺は、まだ知らなかった。
こいつの性癖は、俺が想像していたより遥かに根深かったのである。
もちろん、彼女は本当の奴隷ではない。
普段は仕事もしていたし、自分の財布で買い物をするし、俺が料理を焦がせば普通に文句だって言った。嫌なことは嫌と言えるし、二人の間には守るべき約束もあった。
どちらかが気乗りしないときは、無理をしない。
嫌だと言われたら、そこでやめる。
相手が本当に困っているときは、ふざけるのをやめる。
俺たちにとっては、そういう当たり前のことが、何より大切だった。
まあ、問題は最後の一つである。
彼女の場合、本当に困っているのか、それとも叱られることを期待して困ったような顔をしているのか、時々まったく区別がつかなかったのだ。
ただ、ひとたびご主人様と呼び始めると、何かが猛烈な勢いでおかしくなるのである。
「ご主人様! 本日もわたくしを厳しくご指導ください!」
「お前、まず脱ぎっぱなしの靴下を片づけろ」
「はいっ」
「それから昨日の食器も洗っておけ」
「はいっ、ご主人様」
「……なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「ご主人様に命令していただけるなんて、幸せです!」
こうして振り返ってみると、俺がしていたのは単なる家事の指示ではなかったのだろうか。
いや、本人が幸せならそれでいいのかもしれない。
実際、彼女は俺から何かを命じられるたびに頬を染め、それはもう花が咲いたような笑顔を浮かべていた。
ちなみに、食器洗いを命じた翌日には、台所が見違えるほど綺麗になっていた。
俺は思わず感心したのだが、彼女はその成果を誇るどころか、何やら物足りなさそうな顔をしている。
「……どうした?」
「ご主人様。ほかに、ご命令はございませんか?」
「いや、もう十分だろ」
「ですが、まだお役に立てます!」
「そうか。じゃあ、ゆっくり休め」
「…………」
「……おい。なんで不満そうなんだ」
「それは、ご命令でしょうか?」
「そうだよ!」
「はいっ」
満面の笑顔で寝室へ向かっていった。
……休めと命じられて、そこまで喜ぶ人間を、俺はほかに知らない。
筋金入りのドMというやつである。
しかも、なかなか加減が難しかった。
「お前は少し落ち着け」
「はいっ、ご主人様」
「だから喜ぶな!」
「もっと叱ってください!」
「叱られたいからって、わざと怒られるようなことをするな!」
「はぅっ! ご主人様、今日も素敵です!」
「人の話を聞けえええ!」
こんな調子で、日常会話ひとつまともに成立しないことも珍しくなかった。
しかし、ここで誤解してほしくないことがある。
彼女は、何でも俺の言うとおりになる女だったわけではない。
たとえば、俺が冷蔵庫に残しておいたプリンを勝手に食べたときなどは、猛烈に怒られた。
「ご主人様! あれはわたくしのプリンです!」
「いや、名前が書いてなかっただろ」
「書いてありました!」
「……蓋の裏に?」
「はい!」
「そんなところ、見ねえよ!」
「言い訳は結構です! 明日、同じものを二つ買ってきてください!」
「なんで二つなんだよ!」
「ひとつはお詫びで、もうひとつは精神的苦痛に対する慰謝料です!」
「お前、主人に向かって慰謝料を請求する奴隷がどこにいるんだ!?」
「プリンを奪われた奴隷は、ここにおります!」
こういうときの彼女は、まったく従順ではなかった。
そして俺も、結局は翌日にプリンを二つ買って帰るのである。
どちらが主人なのか、よくわからない関係だった。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
彼女は普段からよく笑う女だったし、俺が疲れて帰ってくれば温かい飲み物を用意してくれた。風邪をひけば心配してくれるし、仕事で嫌なことがあった日には、俺が話し始めるまで黙って隣に座っていてくれた。
ある日など、取引先から無理な要求を押しつけられ、残業まで重なって、ひどく疲れ果てて帰宅したことがあった。
玄関を開けると、彼女がいつものように出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
「……ただいま」
「本日もお仕事、お疲れ様でございました!」
彼女は嬉しそうに頭を下げたが、俺の顔を見ると、すぐに表情を変えた。
「……どうかなさいましたか?」
「いや、ちょっと疲れただけだ」
「そうですか」
それ以上、何も聞かなかった。
彼女は台所へ向かい、温かい飲み物を用意してくれた。俺が上着を脱いで食卓へ腰を下ろすと、湯気の立つカップが静かに差し出された。
「どうぞ」
「……ありがとな」
「はい」
そのときばかりは、ご主人様とも、メスブタとも言わなかった。
俺が飲み物を口に運ぶ間、彼女は隣に座り、ただ黙って待っていてくれた。
やがて俺が仕事の愚痴をこぼし始めると、彼女は相槌を打ちながら最後まで話を聞いてくれた。
別に、何か立派な助言をしてくれたわけではない。
俺だって、解決策を求めていたわけではなかった。
ただ、帰る場所があって、そこに自分の話を聞いてくれる相手がいる。
それだけで、少し救われた気分になったのだ。
「……うまいな、これ」
飲み終わる頃になって、俺がそう言うと、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか?」
「ああ。ありがとな」
「……えへへ」
彼女は照れくさそうに笑った。
そのあと、なぜか急に姿勢を正し、いつもの調子に戻った。
「では、ご主人様! 本日のお疲れを癒やすため、ぜひわたくしにご命令を!」
「せっかくいい雰囲気だったのに台無しにするな!」
「はぅっ」
「だから喜ぶなって!」
まったく、どうしようもない女だった。
でも、俺はそんな彼女が好きだったのだと思う。
彼女が嬉しそうにしていると、自分まで楽しくなった。相手が喜ぶことをしてやりたいと思ったし、あいつが俺の隣で笑っていることが、いつしか当たり前になっていた。
もちろん、俺だって彼女を大切にしていたつもりだ。
もっとも、あの頃の俺たちは、互いの関係に名前をつけることを避けていた。
恋人なのかと聞かれれば、少し違う気がする。かといって、単なる遊び相手だったのかと聞かれれば、それも違う。
生活の中には恋人同士と変わらない時間があり、二人きりのときには主従関係という特別な約束があった。
俺は彼女の主人で、彼女は俺のメスブタ。
そんな説明で二人とも納得してしまっていたのだから、今になって考えてみれば、なかなか奇妙な関係だったと思う。
それに、もしかすると俺たちは、その呼び名に少し頼りすぎていたのかもしれない。
ご主人様だから。
メスブタだから。
そんな言葉があれば、互いの気持ちをいちいち確かめなくても、何となく通じ合っているような気がしていた。
実際、あの頃の俺は、彼女が何を望んでいるのかを知っているつもりだった。
彼女もまた、俺のことなら何でもわかっているという顔をしていた。
それが間違いだったのかどうか、今でもわからない。
ただ、あの時間が幸福だったことだけは、疑いようがなかった。
そして、そんな俺たちにも、終わりの日が訪れた。
それは特別な記念日でもなければ、何か大きな事件が起きた日でもなかった。
いつもと同じ夜だった。
* * *
部屋には間接照明の柔らかな光が灯り、窓の外では雨が降っていた。
ベッド脇のデジタル時計は午後十一時を少し過ぎた時刻を示しており、翌日が休日だった俺たちは、時間を気にすることなく二人きりの夜を楽しんでいた。
その晩、彼女はいつにも増して上機嫌だった。
「ご主人様、今日はとっても幸せです!」
「お前は毎回そう言ってるだろ」
「だって、本当に幸せなんですもの!」
頬を染めて笑う彼女を見て、俺もつられて笑ったことを覚えている。
具体的に何をしていたのかについては、ここで詳しく語るつもりはない。
そもそも、他人に聞かせるような話ではないし、説明したところで俺の社会的な評価が下がるだけだろう。
というか、すでにメスブタだの性奴隷だのと言ってしまった時点で、相当な損害を被っている気もする。
これ以上、自分の尊厳を切り売りする必要はない。
とにかく、俺たちはいつもどおり、互いの希望を確かめながら、二人だけの時間を過ごしていた。
彼女は嬉しそうだったし、俺も楽しかった。
そこまでは、確かにいつもと同じだったのだ。
しかし、途中から少しずつ、何かがおかしくなっていった。
最初に気づいたのは、部屋の暑さだった。
暖房をつけていたわけでもないのに、妙に空気が重たい。窓の外では雨が降り続いているというのに、身体の内側から熱がこもっていくような感覚があり、いつもより呼吸が速くなっていることにも気づいた。
もっとも、そのときの俺は、単に夢中になりすぎているのだと思っていた。
彼女もまた、いつも以上に興奮している様子だったからだ。
「ご主人様……!」
「……ん?」
「わたくし、本当に幸せです……!」
「……そうかよ」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
ベッド脇の時計が、視界の端に映る。
赤い数字が、妙に滲んで見えた。
……あれ?
おかしいな。
俺は一度、瞬きをした。
だが、数字の輪郭ははっきりしなかった。
それどころか、耳の奥で心臓の音がやけに大きく響き始めている。
どくん、どくんという鼓動が、自分の身体の中からではなく、すぐそばの壁を叩いているかのように聞こえた。
……待て。
なんだ、これ。
少し息苦しい。
俺は身体を起こそうとした。
しかし、思っていたように力が入らない。
いつもの疲労とは違う。
何か、妙だ。
「……おい」
「はい、ご主人様?」
「ちょっと待て。これ、本当に大丈夫か?」
彼女は俺の顔を見つめ、不思議そうに小首を傾げた。
「ご主人様! 幸せです!」
「いや、そうじゃなくて! なんか俺、変なんだけど!?」
「……変、ですか?」
「そうだよ! 心臓が、なんかすげえことになってる!」
「まあ……!」
彼女は感極まったように両手を胸の前で組んだ。
「ご主人様も、そんなにお幸せなのですね!」
「そりゃ幸せだけど! 幸せなんだけど、なんか死にそうなんだが!?」
今にして思えば、あの時点で俺は相当混乱していたのだろう。
なにしろ、自分の身体に異変が起きているというのに、その説明として真っ先に出てきた言葉が「幸せだけど死にそう」だったのだから。
ただ、あの瞬間の俺には、それ以外の言い方が思いつかなかった。
心臓が激しく脈打っている。
呼吸がうまく整わない。
部屋の明かりが妙に遠く感じられ、雨の音さえ、厚い壁の向こうから聞こえてくるようだった。
「ご主人様……?」
彼女が、少しだけ眉を寄せた。
それまでの嬉しそうな表情が、ようやく変わった。
「……大丈夫ですか?」
「いや、わかんねえ。とにかく、ちょっと待て。いったんやめよう」
「……はい」
彼女は素直に頷いた。
それから俺の顔を覗き込み、何かを確かめるように手を伸ばしてきた。
「ご主人様、わたくしも……少し、変な感じがします」
「……お前も?」
「はい。でも……」
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
「一緒なら怖くありません」
「そういう問題じゃねえ!」
思わず怒鳴ってしまった。
だが、いつもなら嬉しそうに頬を染めるはずの彼女は、今度は笑わなかった。
それを見た瞬間、背筋が冷たくなった。
……まずい。
何か、本当にまずいことが起きている。
俺だけじゃない。
こいつもおかしい。
そう気づいた途端、それまでどこか現実味のなかった身体の異変が、急に恐ろしく感じられた。
「おい、待ってろ。水でも……いや、救急車か?」
俺は慌てて立ち上がろうとした。
だが、足元に力が入らない。
視界がぐらりと傾き、身体の感覚が急速に遠のいていく。
……なんだ、これ。
こんなこと、初めてだぞ。
いくらなんでも、幸福のあまり死ぬなんて馬鹿げた話があってたまるか。
もしそんな死因が認められるのなら、世の中の恋人たちは安心して愛し合うこともできなくなってしまう。
そもそも、そんな理由で死んだとして、いったい誰が死亡診断書を書いてくれるんだ。
いや、書いてはくれるんだろうが。
遺族に何と説明するつもりだ。
……待て。
今、死亡診断書の心配をしている場合か?
俺はまだ生きてるだろうが!
そんな馬鹿げた考えが頭をよぎったが、次の瞬間には、どうでもよくなった。
彼女が、俺の名前を呼んだからだ。
いつもの甘えた声ではなかった。
かすかに震えた、不安そうな声だった。
「……ご主人様」
俺は顔を向けた。
彼女は、こちらに手を伸ばしていた。
その指先が小さく震えている。
さっきまで、あんなに幸せそうに笑っていたのに。
俺と一緒なら怖くないと言っていたのに。
今、こいつは怖がっている。
「……おい、大丈夫か」
「はい……ご主人様……」
「無理するなよ……」
どうにか手を伸ばした。
彼女の指先が、すぐそこにある。
ほんの少し身体を動かせば、届くはずだった。
なのに、どうしても思うように腕が動かない。
俺は、もう一度彼女の名前を呼んだ。
返事が聞こえたような気がした。
だが、それが本当に彼女の声だったのか、それとも俺の記憶が勝手に作り出したものなのか、今でもわからない。
最後に覚えているのは、こちらへ伸ばされた彼女の手だった。
あいつもまた、俺に触れようとしていた。
俺は、その手を握りたかった。
せめて、怖がっているあいつのそばにいることだけでも、伝えたかった。
だが、指先が触れたのかどうかも確かめられないまま、視界が暗くなっていった。
それが、前世での最後の記憶だった。
そして。
俺たちの意識は、そこで途切れた。
* * *
……死んだ。
らしい。
いや、俺だって納得していない。
人間は幸福の絶頂でも死ぬことがあるらしいが、本当にそんなことがあるのかどうかは知らん。心臓に問題があったのかもしれないし、何か別の原因があったのかもしれない。そもそも俺たちが同時に意識を失った理由からして、まともに説明できる気がしない。
医学的な説明を求められても困る。
死んだ本人が一番困惑しているのだから。
というか、あれは一体何だったんだ?
何かの病気か?
事故か?
それとも、本当に幸福の絶頂というやつが、何らかの形で人間の生命活動を停止させることがあるのか?
誰か教えてくれ。
いや、教えてくれと言われても困るだろうが。
なにしろ、俺自身が何もわかっていない。
しかも、俺はそのまま別の世界に転生してしまった。
これでは死因を調べようにも調べられないし、誰かに話したところで信じてもらえるはずがない。幸せな夜を過ごしていたら意識を失い、気がつけば剣と魔法の世界で第二の人生を送ることになっていたなど、どこの三流小説の設定だ。
せめて馬車に轢かれたとか、暴漢から誰かを守ったとか、もう少し人に説明できる死に方はなかったのだろうか。
いや、死なないのが一番だったのだが。
それに、仮に俺たちの死因を誰かが解明したところで、その結果を聞くのもなかなか勇気がいる話である。
もし本当に、二人で幸せな時間を過ごしていたことが原因だったとしたら。
……嫌だぞ。
そんな死因、絶対に嫌だ。
葬式で親戚がどんな顔をすればいいんだ。
会社の同僚には何と説明するんだ。
そもそも、両親に合わせる顔がない。
いや、もう死んでいるんだから、合わせる顔も何もないのだが。
……ああ、くそ。
考えれば考えるほど、馬鹿馬鹿しくなってくる。
それでも、笑って済ませられることばかりではなかった。
俺はこの世界で生まれ育ち、幼い頃に前世の記憶を取り戻した。
最初は自分がおかしくなったのかと思ったが、やがて、この世界が前世とはまったく異なる場所であることを理解した。
ここには魔法があり、王国があり、貴族がいる。
かつての日本とは文化も常識も違うし、前世で当たり前だったものの多くが存在しない。
それでも、人々が暮らし、働き、家族を持ち、毎日を懸命に生きていることに変わりはなかった。
俺は、今度こそ自分の人生をきちんと歩もうと思った。
平民の家に生まれた以上、何もせずに高い地位を得られるわけではない。だから剣術を学び、身体を鍛え、読み書きや礼儀作法を身につけ、王国騎士団の入団試験を突破した。
入団してからも努力を重ね、ようやく第一王女殿下の護衛を任されるまでになったのである。
今の俺は、ロイ・フェルナーという一人の騎士だ。
前世の記憶は持っているが、今世の人生をその代わりにしているつもりはない。
こちらの世界で生まれ育ち、家族に支えられ、自分の意思で選んだ仕事に就いている。
それが、今の俺なのだ。
前世のことを忘れたわけではないが、いつまでも過去に囚われているつもりもなかった。
ただ。
あの女のことだけは、どうしても忘れられなかった。
俺が前世の記憶を取り戻したとき、真っ先に思い浮かんだのは、あいつの笑顔だった。
冷蔵庫のプリンを食べられて怒る顔。
俺から何かを命じられて嬉しそうに頬を染める顔。
疲れて帰宅した俺の隣に座り、黙って飲み物を差し出してくれる顔。
そんな、どうでもいいような日常の一つ一つが、妙にはっきりと残っていた。
そして、その記憶の最後には、必ずあの夜があった。
雨の降る窓。
滲んだ時計の数字。
震えながら、こちらへ伸ばされた手。
あいつは最後まで、幸せだと言っていた。
俺と一緒なら怖くないとも言っていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
最後に聞いた声は、いつものような明るいものではなかった。
あいつは、怖がっていた。
それなのに俺は、手を握ってやることさえできなかったかもしれない。
もちろん、俺たちが命を落とした原因はわからない。
互いに望んで一緒にいたのだし、どちらか一方に責任があったと決めつけることもできない。
それでも、もしあのとき、もう少し早く異変に気づいていたら。
もし、あいつの様子をもっとよく見ていたら。
あの夜は、違う結末になっていたのではないか。
そんなことを、何度も考えた。
もっとも、考えたところで答えなど出るはずもない。
死んだ人間が、死んだあとのことを知る方法などないのだから。
俺は、あいつがあの夜をどう思っていたのかさえ、確かめることができなかった。
俺たちは確かに幸せだった。
だが、それだけですべてを理解し合えていたのだろうか。
俺はあいつが喜ぶことを知っていたし、あいつも俺の好みをよく理解してくれていた。
けれど、あいつが何を怖がり、何を我慢していたのか。
俺に言わずに飲み込んでいたことが、本当になかったのか。
今となっては、もう尋ねることもできなかった。
もう一度会えたなら、今度こそ確かめてみたい。
そんなことを、考えた夜もあった。
もし会えたなら、何を話そう。
前世のことを覚えているかと尋ねるべきだろうか。
それとも、何も言わずに抱きしめてやるべきだろうか。
俺は多分、あいつが元気でいるとわかっただけで、十分嬉しいと思う。
そして、もしあいつが前世のことを覚えているのなら、聞いてみたい。
俺たちが過ごした時間は、本当に幸せだったかと。
最後の夜、怖い思いをさせなかったかと。
もっとも、もし本当に再会できたなら、あいつのことだ。
そんな俺の真剣な問いかけなどお構いなしに、またご主人様と呼びながら飛びついてくるかもしれない。
……いや。
さすがに、そんな都合のいいことが起きるはずはない。
そう思っていた。
……思っていたのだが。
だからといって、神様。
いくらなんでも、これはないだろう。
あいつが伯爵家の御曹司になっているなんて、誰が予想できるというんだ。
しかも、前世の記憶をそっくりそのまま持ち越したうえに、あの性格まで健在とは。
人生をやり直したからには、せめて今度こそ平穏に暮らしたい。できれば真面目に働き、いつかは気立てのよい女性と家庭を築き、穏やかな老後を迎えたいと思っていた。
そのために努力してきたし、今の生活にもそれなりに満足していた。
それなのに。
目の前に現れたのは、絶世の美貌を持つ伯爵令息。
白銀の髪。
澄んだ青い瞳。
女性と見紛うほど美しく、それでいて、どこからどう見ても成人男性である青年。
しかも、俺の顔を見るなり、大勢の貴族がいる前でご主人様と叫び、自らをメスブタと名乗ったのだ。
……いや、待て。
前世でも、あいつは人前ではもう少し慎み深かったはずだぞ。
転生したことで、何か大切なものを失ったんじゃないだろうな。
羞恥心とか。
常識とか。
できれば、そのあたりは持ち越してほしかった。
しかし、残念ながら、失われているのは俺の平穏な人生のほうだったらしい。
なにしろ。
あの美しい伯爵令息の正体は。
俺のメスブタだった。
……神様。
頼むから、一つだけ教えてくれ。
俺は確かに、もう一度あいつに会いたいと願ったことがある。
だが、俺は一度だって、美しい男になって帰ってこいとは頼んでいない。
ましてや、王女殿下の御前で、前世の性癖を暴露してほしいなどと願った覚えは断じてない。
それなのに、どうしてこうなった。
今度の人生では、俺はいったい何を試されているんだ?
……いや。
その答えを考えるのは、あとにしよう。
今、俺にはもっと差し迫った問題がある。
王宮の別室で、セシリア殿下から事情を聞かれることになっているのだ。
しかも、その席には、あの伯爵令息も同席するらしい。
……ああ、くそ。
あいつ、絶対に余計なことを言うぞ。
俺にはわかる。
前世からの付き合いだからこそ、断言できる。
あの笑顔を浮かべているときのあいつは、何を言い出すかわからない。
それも大抵、俺にとって非常に都合の悪いことを。
……神様。
第二の人生くらい、もう少し穏やかに過ごさせてくれてもよかったんじゃないだろうか。
せめて。
せめて、前世のあいつを男に転生させた理由だけでも、教えてほしい。
俺は、女が好きだったんだぞ!?




