序幕 ――伯爵令息が俺を「ご主人様」と呼んだ」
世の中には、知らないほうが幸せなことがある。
他人の秘密。貴族の醜聞。酒場の厨房事情。
そして、自分の前世だ。
俺、ロイ・フェルナーは、そのことを誰よりもよく理解しているつもりだった。
少なくとも、今日までは。
アルフェルト王国の王宮では、近隣諸国の使節を招いた親善祝宴が開かれていた。
天井から吊るされた巨大な魔導灯が大広間を照らし、磨き抜かれた大理石の床には、貴族たちの華やかな衣装が映り込んでいる。楽団の奏でる優雅な旋律に混じって、談笑する声やグラスの触れ合う音が響き、香水と料理の匂いが広い空間を満たしていた。
そんな華やかな場所で、俺は第一王女セシリア・アルフェルト殿下の背後に控えていた。
もちろん、遊びに来たわけではない。
俺の仕事は王女殿下の護衛であり、どれほど豪華な料理が並んでいようと、どれほど着飾った貴婦人が微笑みかけてこようと、気を抜くわけにはいかない。
もっとも、平民出身の一介の騎士に声をかける貴婦人など、そうそういるものではないのだが。
貴族の祝宴というのは、見た目ほど気楽な場所ではない。招待客は事前に身元を確認されているものの、各国の思惑が入り乱れる外交の場では、ちょっとした行き違いが大きな問題に発展することもある。まして、王族に近づく人物については、身分の高低にかかわらず注意を払わなければならなかった。
俺は殿下へ挨拶する客人の動きに目を配りながら、広間の出入口や警備にあたる同僚たちの位置を確認していた。窓際には二名、正面扉には四名。給仕の動線も確保されているし、今のところ不審な動きは見当たらない。
こう見えて、俺は仕事には真面目なのだ。
剣の腕だけで王女殿下の護衛になれるほど、王宮の人事は甘くない。長年の訓練と実績を積み重ね、ようやく任された名誉ある仕事である。何があろうと、職務だけは疎かにするつもりはなかった。
「ロイ。あまり怖い顔をしないでちょうだい」
隣から、セシリア殿下の涼やかな声がした。
「護衛任務中ですので」
「存じています。でも、あなたがそんな顔で睨んでいたら、お客様が怖がってしまうわ」
「自分は睨んでいるつもりはありません」
「では、生まれつきなのね」
ひどい。
これでも愛想は悪くないほうだと思っているのだが、王女殿下からの評価はどうやら違うらしい。
「少しは笑顔を見せたらどう?」
「……努力いたします」
「そんなに真剣な顔で努力しなくてもいいのよ」
いったいどうしろというんだ。
俺が表情を緩めようと努力していると、広間の入口付近がにわかに騒がしくなった。
貴婦人たちの視線が一斉に集まる。
新たな客人が到着したらしい。俺は習慣的に相手の人数と随行者の有無を確認し、それから、その中心にいる人物へ目を向けた。
思わず、息を呑んだ。
美しい青年だった。
腰のあたりまで流れる白銀の髪は、魔導灯の光を受けて淡く輝き、澄んだ青い瞳には宝石を思わせる透明感がある。整った顔立ちは女性と見紛うほど繊細でありながら、すらりと伸びた背筋や礼装の肩回りには、成人男性らしい端正な輪郭が感じられた。
年齢は二十代前半だろうか。
白を基調とした礼装には控えめな金糸の刺繍が施され、襟元には伯爵家の紋章を象った装飾品が輝いている。華美になりすぎない衣装の選び方にも育ちのよさが表れており、その立ち居振る舞いには、幼い頃から宮廷の礼儀作法を叩き込まれてきた人間特有の自然な気品があった。
まるで宮廷画家が、理想の貴公子をそのまま描き出したかのようだった。
「あら、ノエル様ですわ」
「エヴァレット伯爵家のご嫡男でしょう?」
「相変わらず、お美しいこと……」
「まだ正式なご婚約のお話はないとか」
周囲の令嬢たちが、頬を染めながら囁き合っている。
なるほど。あれが噂に名高い、エヴァレット伯爵家の美貌の御曹司か。
確かに、あれだけの容姿なら騒がれるのも無理はない。顔が綺麗なだけでなく、周囲へ向ける微笑みや会釈の仕方まで、いちいち洗練されている。近づいてきた貴婦人へ優雅に礼を返す姿など、男の俺から見ても素直に感心するほどだった。
もっとも、俺には関係のない話である。
男の美貌に見惚れている場合ではないし、何より今は勤務中だ。俺が守るべき相手は、隣にいらっしゃる王女殿下なのだから。
そう考えて、視線を戻そうとした。
そのときだった。
ふと、妙なことに気づいた。
青年は、貴婦人たちとの挨拶を終えると、広間の奥へ視線を巡らせていた。
王族を探しているのなら、別に珍しいことではない。エヴァレット伯爵家は王家とも親交が深く、セシリア殿下と御曹司が幼なじみだという話も聞いたことがある。
だが、青年の視線は王族の席ではなく、その周囲に控える騎士たちへ向けられていた。
一人、また一人。
まるで、誰かを探しているかのように。
……知り合いでもいるのか?
俺がそう思った直後、青年と目が合った。
「…………」
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、確かめるように俺の顔をじっと見つめる。その視線がわずかに下がり、騎士服の胸元に留まった。そこには王国騎士団の徽章と、俺の所属を示す小さな標章がついている。
青年は何かを見つけたように唇を開いた。
そして、見る見るうちに頬を紅潮させたかと思うと、信じられないほど嬉しそうな笑顔を浮かべた。
……ん?
なんだ?
俺の顔に何かついているのか?
青年は胸元に両手を当て、感極まった様子で小さく震えている。
その表情には、先ほどまでの洗練された貴公子らしい落ち着きが、どこにもなかった。
まるで、長いあいだ探し続けていた宝物を、ようやく見つけた子供のような顔だった。
……いや、なんで俺を見てそんな顔をするんだ。
俺たち、初対面だろ?
少なくとも、この世界では。
そんなことを考えていると、青年が突然こちらへ駆け出した。
おい、待て。
ここは王宮の大広間だぞ。
伯爵家の御曹司ともあろう人物が、人前でそんなに走っていいのか?
それに、進行方向を考えろ。
お前が向かっているのは、第一王女殿下のいらっしゃる場所だ。
俺は反射的に半歩前へ出た。
同時に、右手を低く掲げ、近くにいた護衛騎士へ合図を送る。青年の手には武器らしいものはなく、後方に控える随行者にも不審な動きはない。礼装の裾を乱しながら走ってくる姿は、どう見ても暗殺者のそれではなかった。
だが、相手の身分がどれほど高くても、王族へ無断で駆け寄る行為を見過ごすわけにはいかない。
俺は青年の進路を遮る位置に立ち、できるだけ穏やかに制止しようとした。
「エヴァレット卿、恐れ入りますが、殿下へのご挨拶は……」
言い終える前だった。
「ご主人様ぁぁぁぁぁ!!」
王宮に、場違いにもほどがある歓声が響き渡った。
楽団の演奏が止まった。
貴族たちの会話も止まった。
給仕が運んでいた銀盆の上で、グラスが小さく音を立てた。
俺も止まった。
というか、心臓まで止まりかけた。
……何?
今、なんて?
王女殿下への挨拶ではないのか?
ご主人様?
ご主人様って言ったか?
誰に?
俺に!?
青年は俺の目の前で立ち止まると、両手を胸の前で組み、うっとりとした表情で見上げてきた。
「やっと……やっとお会いできました! わたくしのご主人様! ずっと、ずっとお探ししていたんです!」
「…………」
「お会いしとうございましたぁ!」
なんだ、この状況は。
なんなんだ、この美少年は。
いや、美少年と呼ぶには成人しているだろうが、そんな細かいことはどうでもいい。
俺は王女殿下への接近を制止するつもりで前へ出た。
なのに、なぜか俺自身が標的になっている。
しかも、相手は伯爵家の嫡男だ。
平民出身の護衛騎士である俺が、不用意に腕を掴んだり、身体を押し返したりしていい相手ではない。もちろん、王女殿下の安全が脅かされれば話は別だが、目の前の青年には、俺を襲う意思も殿下へ危害を加える意思も見受けられなかった。
ただ、異常なほど嬉しそうなのである。
……どうする。
剣は必要ない。
応援も必要ない。
必要なのは、おそらく医者だ。
できれば俺にも一人つけてほしい。
「……人違いです」
俺は精一杯の冷静さを保って答えた。
そうだ。人違いに決まっている。
いくらなんでも、こんな美しい貴公子にご主人様などと呼ばれる覚えはない。
……今世では。
「そんな! その冷たいお言葉! 間違いありません!」
「人違いだと言っている!」
「もっと冷たくしてください」
「喜ぶな!!」
しまった。
つい怒鳴ってしまった。
しかも青年は怒鳴られたことがよほど嬉しかったらしく、ますます頬を赤くして、幸せそうに身をよじっている。
おかしい。
明らかにおかしい。
この反応には覚えがある。
ものすごく覚えがある。
というか、忘れたくても忘れられない。
いや、待て。
そんなはずはない。
俺の知っているあいつは女だった。
こんな白銀の髪をした美青年ではなかったし、ましてや伯爵家の御曹司などでは断じてなかった。
そもそも、ここは異世界だぞ。
前世の知り合いが、都合よく同じ世界へ転生しているなんてことが……。
「ご主人様、その凛々しいお姿! その鋭い眼差し! そして、わたくしを叱ってくださる素晴らしいお声! ああ、間違いありません! 間違えるはずがありません!」
「お、お前……まさか……」
青年は嬉しそうに頷いた。
「はいっ」
その笑顔を見た瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
知っている。
俺は、この顔を知っている。
いや、顔そのものは初めて見る。
だが、この、叱られているにもかかわらず世界で一番幸せそうに笑う、救いようのない表情には、恐ろしいほど見覚えがあった。
そして青年は、周囲に大勢の貴族がいることなどまったく気にせず、それはもう見事な笑顔で胸を張った。
「ご主人様の忠実なるメスブタでございます」
「男だろうがあああああ!!」
今度こそ、大広間が完全に静まり返った。
しまった。
まずい。
非常にまずい。
だが、驚くべきことに、俺の絶叫よりもさらにまずい発言が、続けざまに飛び出した。
「はい! 今世では立派な男の子になりました!」
「見ればわかる!!」
「ですが、ご安心ください! 中身は以前と少しも変わっておりません!」
「安心できる要素が一つもねえ!!」
周囲の貴族たちが、いよいよ本格的にざわめき始めた。
伯爵家の嫡男が、平民出身の護衛騎士を主人と呼んでいる。
しかも、自分をメスブタと称している。
さらに、その騎士は青年の意味不明な言動に対して、妙に慣れた調子で怒鳴り返している。
「……あの方、エヴァレット伯爵家の……?」
「ええ、ノエル様ですわ。間違いございません」
「しかし、今、ご主人様と……」
「メスブタとも聞こえましたが……」
「しっ! 声が大きいですわ!」
いや、もう遅い。
本人が大声で宣言したんだぞ。
今さら囁いたところで、何の意味があるんだ。
近くにいた年配の貴族など、何か非常に理解しがたいものを見てしまったらしく、手にしたグラスを口元へ運びかけたまま固まっている。
その隣の夫人は、扇で顔を隠していた。
ただし、扇の上からこちらを覗き込む目が、恐ろしく輝いている。
やめろ。
そんなに興味津々な顔をするな。
俺にはわかる。
お前たち、今、ものすごく下世話なことを考えているだろう。
しかも困ったことに、目の前の青年は、自分が何を言ったのかまるで理解していない様子だった。
「ご主人様? どうかなさいましたか?」
「どうかなさいましたか、じゃねえよ!」
「まあっ お叱りのお言葉まで、前世と同じでございます!」
「だから、その話をするな!」
「ですが、ご主人様! せっかく再会できたのですから、わたくしたちの関係も、皆様にきちんとご説明したほうが……」
「絶対にするな!!」
危なかった。
もう少しで、王宮の親善祝宴が、俺とこいつの前世の性癖を発表する会場に変わるところだった。
いや、すでに相当手遅れな気もするが。
どう説明しても誤解される未来しか見えない。
それにしても、何なんだ、こいつは。
前世では女だったくせに、今世では男になっている。
しかも、よりによって伯爵家の跡取りだ。
貴族としての立ち居振る舞いは完璧だったのに、俺を見つけた途端、ありとあらゆる礼儀作法をかなぐり捨ててしまった。
いや、捨てるな。
拾え。
今すぐ拾ってくれ。
そのとき、背後から小さな音がした。
ぱちん。
セシリア殿下が、手にしていた扇を静かに閉じた音だった。
「……ロイ」
ぞくりとした。
背筋が凍りつくような、美しくも恐ろしい声である。
先ほどまで、俺の生まれつきの顔が怖いと仰っていた王女殿下が、今は俺の人生そのものを凍りつかせようとしていらっしゃる。
「はっ!」
「説明しなさい」
「自分にも説明してほしいところです!!」
王女殿下の視線が、俺から青年へ、そして再び俺へと移る。
「エヴァレット伯爵家のご嫡男が、なぜそなたをご主人様と呼んでいるのかしら?」
「存じません!」
「では、メスブタとは?」
「自分の口からは到底申し上げられません!」
「……ロイ」
「はい!」
「そなた、私の知らないところで、いったい何をしているの?」
「何もしておりません!!」
正確には、今世では何もしていない。
断じてしていない。
それだけは天地神明に誓って断言できる。
だが、俺の必死の弁明を聞いても、セシリア殿下は納得してくださらなかった。
当然だろう。
俺だって、王女殿下の立場なら信じない。
だいたい、俺自身が目の前の光景を信じられていないのだから。
「ノエル」
セシリア殿下が青年へ呼びかけた。
「はい、殿下!」
ノエルは、それまでの浮かれた様子から一転して、実に優雅な一礼を披露した。
背筋はまっすぐ。
頭を下げる角度も申し分ない。
声の調子まで、先ほどとは別人のように落ち着いている。
……おい。
できるじゃねえか。
ちゃんと貴族として振る舞えるじゃねえか、お前。
「久しぶりね、ノエル。元気そうで何よりだわ」
「ありがとうございます、セシリア殿下。殿下もますますお美しくなられて、わたくし、嬉しゅうございます」
「ありがとう。ところで、一つ尋ねてもいいかしら」
「何なりとお申しつけくださいませ」
「あなたは、そこの護衛騎士を知っているの?」
「はい!」
ノエルの顔が、ぱっと輝いた。
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
「わたくしの、最愛のご主人様でございます」
「だからああああ!!」
俺は頭を抱えた。
なんということだ。
この男、王女殿下への礼儀作法は完璧なのに、俺に関する質問だけは一瞬で台無しにする。
しかも、本人にはまったく悪気がない。
セシリア殿下は、しばらくノエルを見つめていた。
その表情には驚きもあったが、それ以上に、幼い頃から知っている相手の思いがけない一面を目撃してしまった困惑が浮かんでいた。
「……そう。随分と、親しい関係なのね」
「はい! それはもう、言葉では言い尽くせないほどに!」
「言い尽くさなくて結構です!!」
「まあ、ご主人様ったら」
「喜ぶな!」
もはや、何を言っても無駄だった。
俺は必死に平静を取り戻そうとしたが、隣に控える同僚の護衛騎士が、ほんのわずかに目を逸らしたことに気づいてしまった。
……おい。
お前まで、変な想像をしてるんじゃないだろうな。
頼む。
俺を信じてくれ。
俺はこれまで、真面目に働いてきただろう。
訓練だって欠かさなかったし、遅刻もしていない。王女殿下への忠誠を疑われるようなことだって、一度もしていないはずだ。
なのに、どうして今、同僚から「そういう趣味だったのか」という目で見られなければならないんだ。
俺は護衛騎士だぞ。
王女殿下をお守りするために、ここに立っているんだぞ。
それが、どうして。
「ご主人様」
……ああ、くそ。
原因が目の前で笑ってやがる。
セシリア殿下は、とうとう小さく溜息をついた。
「……ロイ。ノエル。ここでは落ち着いて話ができそうにないわね」
「はっ。仰るとおりでございます」
「別室を用意させます。二人とも、あとで事情を聞かせてもらいますからね」
「承知いたしました!」
ノエルは嬉しそうに頷いた。
……待て。
なんでお前は嬉しそうなんだ。
王女殿下から事情聴取を受けるんだぞ。
普通なら、少しは緊張するところだろうが。
「ご主人様と、殿下の御前で二人きりのお話を……!」
「三人だ! 殿下を数に入れろ!!」
「まあっ」
「だから喜ぶなあああ!!」
再び大広間がざわめいた。
その様子を見て、セシリア殿下が静かに目を閉じる。
俺は悟った。
今日という日は、どうやら俺の騎士人生において、最も長い一日になるらしい。
しかも、まだ祝宴は始まったばかりなのである。
……神様。
もし、この世界に神様というものが存在するのなら、一つだけ聞かせてほしい。
俺は、いったい何をしたというんだ。
いや、前世では確かに、いろいろした。
自分でも少々特殊だったという自覚はある。
だが、それは互いに納得したうえでの話だったし、まさか転生したあとまで、その責任を追及されるとは思っていなかった。
何より。
目の前にいる、この青年。
あの笑顔。
あの声。
あの、叱られれば叱られるほど嬉しそうになる、救いようのない性格。
外見こそ何もかも違うが、間違いない。
こいつは、あいつだ。
俺には、どうしても忘れられない前世の記憶がある。
それは、誰にも話さず、墓場まで持っていくつもりだった記憶だ。
ところが今、その記憶の中でも最も他人に知られたくない存在が、性別を変え、伯爵家の美しい御曹司となって俺の目の前に立っていた。
そして、よりにもよって王女殿下の御前で、俺をご主人様と呼んでいる。
……神様。
もう一度だけ聞かせてほしい。
どうして、よりによってこいつを男にした。
いや、そもそも。
どうしてこうなった。
話は、俺たちが前世で死んだ、あの馬鹿馬鹿しい夜まで遡る。
パイロット版として執筆しました。
おもしろかったら、評価やブックマークをいただけると、ムーンライトでBL連載版を書こうかなと思っています。




