第7話:光と闇の境界線
「う……、うう……っ」
静まり返った路地裏に、一人の孤児の小さな呻き声が響いた。
ゴロツキどもに突き飛ばされた際、レンガの角で足を深く挫いてしまったらしい。
ブラッドがそのまま歩み去ろうとした、その時だった。
「大丈夫ですよ。今、痛みを取ってあげますからね」
金の髪を揺らし、黒い神官服の裾を泥で汚しながら、リーネが素早くその子の前に膝をついた。
彼女は胸元の銀の聖印にそっと手を当てる。しかし、その口から紡がれたのは、神への祈りの言葉ではなかった。
「――『ペイン・イーター』」
少女の指先から溢れ出たのは、暖かな光ではない。夜の闇に溶け込むような、仄暗い影の魔力だった。
その影が子供の腫れ上がった足首を包み込むと、たちまち少年の顔から苦悶の色が消え去り、「……痛くない」と目を丸くした。
治癒ではない。ただ痛みという感覚だけを、闇の術理で強引に食い尽くしたのだ。
「みんな、先に教会へ戻っていなさい。私はすぐに行きますから」
リーネが穏やかに微笑むと、子供たちは頷き、蜘蛛の子を散らすように路地の奥へと走っていった。
子供たちの足音が完全に遠ざかるのを見届けてから、リーネは静かに立ち上がり、背後に佇む黒いコートの青年へと向き直った。
お礼を言おうと、彼女が小さく唇を開きかけた瞬間――。
――ヒュッ、と硬質な風切り音が鳴り、冷たい漆黒の鞘の先端が、寸分の狂いもなくリーネの喉元へと突きつけられた。
あと一分(数ミリ)でも進めば、喉笛が砕ける正確無比な間合い。
「……何者だ」
ブラッドの瞳には、一切の感情が宿っていなかった。
「その黒い神官服と胸の聖印は、神聖教国ルクスリアのものだ。だが、今お前が使ったのは、教国が最も忌み嫌い、異端として処刑対象にする『闇魔法』の術理。神官の皮を被った魔族の回し者か」
喉元に硬い鞘を突きつけられ、生殺与奪の権を完全に握られている。
普通の人間であれば恐怖に腰を抜かす状況。しかし、リーネは澄んだ碧眼をわずかに揺らしただけで、真っ直ぐにブラッドの視線を受け止めた。
「私はリーネ・アストレア。元……神官です。人を救うために力を使った結果、そこを追い出されました」
物腰はどこまでも丁寧で柔らかい。だが、その声の奥には、決して折れない鉄のような芯があった。
リーネは喉元の鞘を見つめ、それから、ブラッドの身体から立ち上る異質な気配へと視線を移した。
生身のままでこれほどの武力を誇る男。だが、彼の魂の奥底からは、あまりにも深く、ドロドロとした『危険な力』の残滓が漂ってくる。
それは彼女が知る教国の光とも、自身の手に入れた闇とも違う、ひどく禍々しく、そして自滅的な何か。
(この人は……危険な力を抱えている。それに、この酷く冷たい目は……)
本能が告げていた。放っておけば、この青年は遠からず、自らの力に焼き尽くされて死ぬのだと。
「……勝手にしろ。教国の内情など俺には関係ない。二度と俺の前に現れるな」
ブラッドは吐き捨てるように言うと、突きつけていた双剣の鞘を引き、今度こそ完全に背を向けて歩き出した。名すら名乗る気はない。馴れ合いは、歩みを鈍らせるだけだ。
「待って、あなた――」
リーネの呼びかけを無視し、黒いコートの亡霊は、夜のスラムの闇へと溶けるように消えていく。
残されたリーネは、彼が去った暗闇をいつまでも見つめていた。その胸には、彼が纏っていた圧倒的な孤独と、消えない背中の残像が、深く、強く焼き付いていた。




