第6話:黄昏の路地裏、金の髪
潮の匂いが薄れ、代わりにドブとカビの悪臭が色濃くなる。
グランポートの華やかな表通りから数本折れた先にあるスラム街は、陽が落ちると同時に、まともな人間なら足を踏み入れない無法地帯へと姿を変える。
ブラッドは懐の銀貨の手触りを確かめながら、錆びついた街灯がまばらに灯る薄暗い路地を進んでいた。
目指すのは、一杯の苦いスープと、硬いベッドが提供される最底辺のボロ宿だ。
「おい、待ちやがれって言ってんだろ、聖女様よぉ」
「大人しく俺たちの言う通りにすりゃあ、そのガキどもの命だけは助けてやるって。なぁ?」
不意に、前方の行き止まりの路地裏から、下卑た笑い声と、怯えた子供たちの小さな泣き声が漏れてきた。
ブラッドが視線を向けると、そこには数人の下劣なゴロツキどもが、一人の少女と子供たちを壁際に追い詰めている光景があった。
ゴロツキたちの手には、鈍く光るナイフや鉄パイプ。対する少女は、この薄汚れた泥の街にはあまりにも不釣り合いな、清廉な黒い神官服を纏っていた。
夜の闇の中でも一際目を引く、燃えるような金の髪。
彼女は怯える小さな孤児たちを背中に庇い、自らも震える身体を必死に押し殺しながら、ゴロツキどもを毅然とした瞳で睨みつけていた。
「……この子たちは、あなたたちの道具ではありません。退いてください」
凛とした、しかしどこか幼さの残る少女の声。
ブラッドは、その光景を一瞥した。
そして、何事もなかったかのように、そのまま通り過ぎようと足を動かした。
――関わる理由がない。
今のブラッドは、復讐のためだけに生きる亡霊だ。
誰かを救う正義の味方になるつもりもなければ、見ず知らずの人間と馴れ合う気も毛頭ない。
ここで誰が死のうが、誰が売られようが、己の目的には一切関係のないノイズだった。
だが。
「あぁん? 何見てんだよ、てめえ」
ブラッドの存在に気づいたゴロツキの一人が、苛立った様子でナイフの刃先をこちらに向けて歩み寄ってきた。
酒臭い息を吐きながら、ブラッドの胸元で揺れる最底辺の『Eランク』の鉄プレートを見て、鼻で笑う。
「おいおい、新米の冒険者サマが、格好つけて助けにでも入る気か? あ? 邪魔するってなら、そのナマ白い顔に風穴を開けて――」
ブラッドは、小さくため息をついた。
「……退け。お前たちに用はない」
「あぁ!? ナメやがって、死ね!」
逆上したゴロツキが、ブラッドの喉元を目がけてナイフを突き出してきた。
背後の少女が「危ない!」と悲鳴を上げる。
しかし、ブラッドは眉一つ動かさなかった。
――ガツッ!
肉を断つ音ではない。硬い木と、人間の骨が衝突する鈍い音が路地に響いた。
ブラッドは刃を抜きすらしていなかった。背後から引き抜いた双剣は、未だ漆黒の鞘に収まったまま。
その鞘の先端を、突き出されたナイフの手首へと、電光石火の速さで正確に叩き込んだのだ。
「が、あぁッ!?」
手首の骨を砕かれ、ナイフがカラランと地面に転がる。
ブラッドはそのまま流れるような動作で一歩踏み込み、悶絶するゴロツキの顎へ、容赦のない膝蹴りを叩き込んだ。
脳を揺らされた男が、白目を剥いてレンガの床へと崩れ落ちる。
「な、んだと……!? てめえら、やっちまえ!」
仲間が文字通り一瞬で沈められたのを見て、残りの3人が色めき立ち、一斉に襲いかかってきた。鉄パイプが容赦なくブラッドの頭部へと振り下ろされる。
ブラッドは最小限の身のこなしでそれをかわすと、すれ違いざまに、鞘に収まったままのもう一本の刃の柄で、男の鳩尾を深く抉った。
さらに、迫る2人の攻撃を流れるような体術でいなし、互いの身体を衝突させる。
バランスを崩したゴロツキたちの膝の裏へ、容赦のないローキックを叩き込み、次々と地面へ這いつくばらせていった。
わずか、数秒。
血気術はおろか、刃を交えることすらなく、4人のゴロツキは全員、骨を折られ、あるいは意識を失って泥の中に転がっていた。
圧倒的な、暴力の格差。
ブラッドはふぅと息を吐き、一度も抜かなかった双剣を背中へと戻した。
最初から、ただの羽虫を払っただけと言わんばかりの冷淡さだった。
「ひっ……、あ……」
背後の壁際では、救われたはずの孤児たちが、ゴロツキたち以上の恐怖を浮かべてブラッドを見上げていた。
無理もない。あまりにも冷酷で、あまりにも圧倒的な力を見せつけられたのだ。
彼らにとっては、目の前の黒いコートの青年もまた、別の怪物に見えているに違いなかった。
ブラッドは子供たちには目もくれず、用は済んだとばかりに、再びボロ宿の方へと歩き出そうとする。
「あ……あの! 待ってください!」
その背中に、凛とした、しかし震える声がかけられた。
振り返ると、金の髪を揺らした少女――リーネが、驚愕と、それ以上の強い光を宿した瞳で、真っ直ぐにブラッドを見つめていた。




