第59話:継承
誰も口を開かなかった。
鉄鼠が揉み消した煙草の先から、細い紫煙だけが静かに立ち昇っている。
その時だった。
どこか遠くで、鈍い音が響いた。
ゴン――。
鉄鼠の眉がわずかに動く。
ゴン。
再び。今度は誰の耳にもはっきり届いた。
「……何だ?」
レンが顔を上げる。
次の瞬間だった。
隠れ家の床が、凄まじい轟音と共に激しく揺れた。
教会の異端審問官たちは、もはや隠密などという生易しいものではなかった。彼らは物理的に、この地下迷宮の支柱を一つずつ破壊しながら突き進んでいる。
天井から舞う砂塵が視界を遮り、泥巣の歴史を支えてきた古い構造が、断末魔のような軋み声を上げた。
鉄鼠は入り口に立ち、肉斬り包丁を肩に担いで仁王立ちしていた。
その背中は、レンが憧れ、追い求めた『街の王』そのものだった。
「行け」
短く、しかし拒絶を許さない言葉だった。
「嫌だ!」
レンが叫ぶ。ブラッドが逃げ道の確保を急ごうとレンの肩を掴むが、レンは地を蹴って踏み留まった。
「親父を一人にするなんて、そんなの泥巣のやり方じゃない! 俺だって剣は握れる。二人で……二人でここを守るんだ!」
必死の抗いに、鉄鼠は大きな手でレンの顔を覆った。
押しつぶすような力ではなく、父のように優しく、しかし確固たる拒絶の重さ。
「じゃあ聞くが」
地鳴りが部屋を包む中、鉄鼠の声はどこまでも低く、沈着だった。
「俺がいなくなった後、この泥巣は誰が守る」
その問いに、レンは答えに詰まった。
「それは……そんなの、親父が……」
「ブラッドは旅人だ。明日にはこの街を出ていく」
鉄鼠は背後に控える護衛を一瞥する。「その小娘もそうだ。あいつらにとって、この街はただの避難所に過ぎねえ。だが、お前は違う」
鉄鼠はレンの肩を掴み、その視線を無理やり自分に向けさせた。
「この街で生まれ、この街の泥を食って育った。……レン、この街は誰の街だ」
レンは唇を噛みしめた。鉄鼠の真っ直ぐな瞳が、レンの心に深く刺さる。
「……親父の街だ。ずっと、そうだった」
「違う」
鉄鼠は首を振った。
「俺の街じゃねえ。お前らの街だ。俺がいなくなったあと、誰がこの街の住人を守る? 誰がこの街の誇りを繋ぐ? 旅人にそれを背負わせる気か?」
外から響く教会の怒号と、崩れゆく屋根の音が、レンの決断を急かしている。
レンは歯を食いしばった。悔しさが込み上げる。
しかし、自分の背後には、かつて鉄鼠が守ってきた、そして自分が愛している街の住人たちがいる。ブラッドたちについていくのは、逃げではない。だが、ここに残ることは、紛れもなく「継承」だった。
レンは震える拳を握りしめ、ゆっくりとブラッドの肩から手を離した。
「……くそっ」
漏れたのは、未熟な少年の本音だった。
鉄鼠は満足そうに口端を吊り上げ、レンの背中を、まるで鋼鉄のように力強く叩いた。
「行け、ブラッド。その小娘を連れて、今すぐここから消えろ」
ブラッドは深く一礼し、リーネを連れて隠し通路へと足を踏み出す。
レンは、一度だけ振り返った。
「親父」
「何だ」
「……絶対戻ってこい」
数秒の沈黙が落ちた。鉄鼠はニヤリと、悪党のように笑った。
「……さあな。だが、俺の街を勝手に潰すなよ」
レンはもう二度と振り返らなかった。
自分が背負うべき重圧と、誇りを抱きしめ、彼は泥巣の暗闇へと走り出した。
隠れ家に一人残った鉄鼠は、迫り来る白い外套の群れを見据える。
「さて……俺の街の空気は、随分と汚れてるらしいな」
その背後で、若き後継者の足音は泥巣の深淵へと遠ざかり、代わりにブラッドたちの逃走音だけが、遠く地下水路の彼方へと消えていった。




