第60話:泥の底
地下水路の天井は低く、煉瓦の隙間からは常にどろりとした地下水が滴り落ちていた。
肩を濡らす泥水は氷のように冷たい。足を踏み出すたび、ぬかるんだ土が靴底を吸い込み、剥がすたびにクチャリと陰鬱な音が鳴る。
松明の灯りなどない。ブラッドは闇に慣れた目で、崩れかけた壁の亀裂や、足元の澱みを鋭く判別しながら前へと進んでいた。
背後で、泥巣のどこかがまた一つ崩落する鈍い音が響いた。空気が震え、頭上の煉瓦がパラパラと砂を落とす。
リーネの呼吸は荒かった。
狭い水路に籠もる腐臭と、肺を刺す冷気。肩で息をするたび、彼女の吐息が暗闇の中で白く揺れ、すぐに湿気に溶けていく。
「……っ」
リーネの足が深く泥に沈んだ。体勢を崩し、膝まで汚泥に埋まる。聖印を握る彼女の指先は、冷え切り、泥の色に染まっていた。
ブラッドは振り返らない。
ただ無言で立ち止まり、彼女の細い腕を掴むと、泥に吸い付く身体を力任せに引き上げた。泥水が周囲に飛び散り、静かな水面に波紋が広がる。
「……すみません」
「歩け」
ブラッドの短い声だけが、煉瓦の壁に反響した。
彼自身の足取りも重い。衣服に染み込んだ泥水が体温を奪い、重い鎧のように身体に纏わりついている。しかし、歩みを止めることはできない。背後から追ってくるはずの、規則正しい金属音――異端審問官の歩調だけが、唯一の現実感としてこの空間を支配していた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
水路の湿度は上がり、次第に腐敗した水溜まりが足首まで迫るようになった。
リーネは一度だけ、ふらりと後ろを振り返った。その瞳には、かつていた街の灯りも、温もりも、もう何もない。ただ、深い闇と、重苦しい煉瓦の壁が続いているだけだ。
リーネは何も言わずに前を向き直った。
「……どこへ行くんですか」
暗闇の中で、彼女の小さな声が響いた。
ブラッドは足を止めない。その横顔は闇に溶け、表情は何も読み取れない。
「知らん」
リーネが息を呑む。
ブラッドは泥水を蹴りながら、短く付け加えた。
「追われなくなるまで歩く」
二人の足音だけが、永遠に続くかのような地下水路の奥へと響き渡る。
闇は深かった。




