第57話:影の正体
「何を隠してる」
鉄鼠の低く濁った声が、泥巣の冷たい空気を支配した。
彼はリーネの前に立ち塞がったまま、その細い肩を冷酷に見下ろしている。
沈黙。
リーネは答えない。いや、答えられなかった。
彼女は胸元の銀の聖印を、指が白く変色するほどの力で強く握りしめ、ただ床の一点を見つめて唇を戦慄かせている。その横顔からは、完全に生気が失われていた。
「おい。耳が聞こえなくなったか」
鉄鼠の追及に、焦れたレンが一歩前に出る。
「親父、少しは手加減――」
「黙ってろ、レン」
それを遮ったのは、壁に背を預けたままのブラッドだった。
ブラッドは三日月の瞳を薄く開き、冷めた視線をリーネへと固定している。
鉄鼠はレンを一瞥することすらせず、情報屋が持ってきた紙を指先でトントンと叩いた。
「連中は誰を探してる」
「……」
「街の浮浪者じゃねえ。ガザリアの残党でもねえ。白い外套を着た教会の手先が、ノワール街の泥を嗅ぎ回って探している標的だ」
鉄鼠の声が、一段と低くなる。
「――お前か」
ビクリ、とリーネの肩が大きく跳ねた。
彼女の碧眼から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、床の泥へと吸い込まれていく。
その沈黙と涙こそが、何よりも確実な答えだった。
「まさか……」
レンが息を呑む。
リーネはゆっくりと、折れそうな首を縦に振った。
「……はい」
ひび割れた、消え入りそうな声だった。
「私は……教会に追われています」
「どうしてだよ」
レンが驚愕して声を震わせる。地上の巨大な宗教組織が、なぜこの地下街まで手を伸ばしてくるのか、レンには想像もつかない。
リーネは胸元の聖印を強く握ったまま、唇を震わせた。
「私は……異端です」
その告白を聞いても、鉄鼠の表情は動かなかった。彼は裏社会の人間だ。教会の権威など恐れてはいない。
「教会に追われてる? ……だから何だ」
鉄鼠は鼻で笑い、無造作に新しい煙草に火をつけた。
「破門された神官の小娘一人、捕まえにきた連中だろ。ガザリアの私兵どもと何が違う。ノワール街のドブに沈めてやりゃあ、それでおしまいだ」
いつもの鉄鼠なら、それで片付くはずだった。
だが、その言葉に対する情報屋の反応が、鉄鼠の指を止めさせた。
「い、いや、親父……それが、違うんだ」
情報屋は額の冷や汗を拭いもせず、ガタガタと歯を鳴らしている。
「あいつら、ただの教会の兵隊じゃねえ。街の入り口で、すれ違った浮浪者が少し怯えて目を逸らしただけで……なんの躊躇もなく、その場で腕を叩き折りやがった。ギルドの連中みたいに『隠す』気すらねえんだ。まるで、この街の人間を人間だと思ってねえみたいに……」
鉄鼠の瞳から、一瞬で余裕が消えた。
紫煙が、静止する。
「……待て」
鉄鼠が、初めてそう呟いた。
彼の濁った瞳が、怪しく、鋭く細められる。
部屋の奥、リーネはただ胸元の聖印を強く抱きしめ、絶望の涙を流し続けている。
紫煙だけが、重苦しい沈黙の中をゆっくりと漂った。




