第56話:震える聖印
泥巣の朝は、静寂よりも不気味な気配を伴って始まった。
レンがパイプ椅子の上で目を覚ました時、最初に目に飛び込んできたのは、寝台の端に腰掛けたリーネの、異常なほど硬直した背中だった。
長い金髪をゆるやかに下ろした彼女の背は、まるで見えない刃を突きつけられているかのように強張っている。
カチャ、とレンが身体を動かした拍子に、椅子が小さく鳴った。
「っ……!」
リーネの身体が、弾かれたようにびくりと跳ねる。
彼女は怯えた碧眼で部屋の隅々を見回し、窓など一枚もない地下の天井を、まるで「何かの足音」を追うように何度も見上げた。差し出された粗末な食事には、一口も手を付けた形跡がない。
「リーネさん……?」
レンは不審に思い、声をかけながら歩み寄った。
「どこか痛むの? まだ身体が――」
「なんでも、ありません」
リーネは青ざめた唇に、無理やりいつもの穏やかな微笑を張り付けた。
しかし、黒を基調とした神官服の胸元で、銀の聖印を握りしめる彼女の指先は、隠しようもなくガタガタと震えている。
「嘘だ。そんなに震えて……」
「本当に、何でもないのです。少し、体調が悪いだけですから」
リーネは頑なに視線を伏せ、それ以上は何も話そうとしなかった。
泣き叫ぶわけでも、取り乱すわけでもない。ただ、何かを隠すように自らの内に恐怖を押し込めようとする態度が、逆に部屋の空気をじっとりと重くしていく。
レンがそれ以上食い下がれずにいると、背後の壁から、ゆっくりと黒い影が動き出した。
ブラッドだった。
双刃の剣士は三日月の瞳を冷たく細め、怯えるリーネの視線の動きを、静かに、冷徹に観察していた。戦場で何百人もの“追いつめられた兵士”を見てきた男の目が、彼女の指先の震えの正体を、正確に見抜く。
「教会か」
ブラッドの低い声が、泥巣に響いた。
リーネの肩が、目に見えて凍りついた。
「今は……聞かないでください」
リーネは声を絞り出した。銀の聖印を握る指が、白くなるほどに強張る。
「後悔してるのか」
ブラッドの問いは、短く、そして荒かった。
「……していません」
「なら終わりだ」
それだけだった。ブラッドは追及を止め、再び壁に背を預けた。
驚きもせず、慰めもせず、ただ彼女が下した過去の結論だけを事実として受け止める。その冷めた全肯定に、リーネは小さく息を呑み、彼を見つめ返した。
事情の分からないレンだけが、二人の間で張り詰めた空気に押し潰されそうになっていた。
――その日の夕刻。
泥巣の重い鉄扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、外套に身を包んだ鉄鼠。その背後には、息を切らしたノワール街の情報屋が隠れるように続いている。
「親父……」
レンが声をかけるが、鉄鼠はそれを片手で制した。
その濁った瞳には、いつにも増して冷徹な警戒の色が宿っている。
鉄鼠は恐怖を口にするような男ではない。ただ、盤面を冷酷に把握するため、情報屋に向けて淡々と問いを投げかけた。
「そいつら、何人だ」
「……六人です。全員、同じ足並みで動いてやがる」
情報屋は喉を鳴らし、掠れた声で応じる。
「どこまで来てる」
「すでにノワール街の入り口だ。ギルドの残党じゃねえ……白い外套を纏った、教会の武装集団だ。何かの『印』が書かれた紙を持って、街の裏路地を執拗に嗅ぎ回っていやがる」
「誰を探してる」
「それは、まだ……。ただ、あいつらの目が完全に据わってやがる。何を見つけても容赦しねえってツラだ」
白い外套。教会の連中。
その言葉が泥巣に落ちた瞬間、部屋の奥にいたリーネの顔から、完全に血の気が引き、呼吸が止まった。手の甲の『血契の紋章』が、彼女の動揺に呼応するようにドクドクと赤黒く明滅する。
鉄鼠の濁った瞳が、ゆっくりと移動し、部屋の奥で立ち尽くすリーネの異常な変貌を捉えた。
鉄鼠はリーネの前に一歩踏み出し、その細い肩を冷酷に見下ろした。
「おい」
リーネは青ざめた唇を震わせ、迫り来る目に見えない絶望に抗うように、胸元の聖印を強く強く握りしめる。
「何を隠してる」




