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血契の双刃 〜その契約は、愛か呪いか〜  作者: クマハム
第1章:亡国の血と黄昏の誓い
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第55話:灰の選択



「気に食わねえな」


 ブラッドの口から漏れたのは、低く、地を這うような猛獣の唸りだった。


 彼は壁から背を離すと、三日月の瞳を危険な細さへと変化させ、正面の鉄鼠を睨み据えた。懐の帳簿の上から、その無骨な手のひらが微動だにしない。


「この紙切れ一枚のために、あのガキどもがどれだけ血を流したか見てねえとは言わせねえぞ。それを、ただ燃やして終わりにしろってか」


「そうだ」


 鉄鼠は眉一つ動かさず、紫煙を吐き散らした。その濁った瞳は、ブラッドの放つ剥き出しの殺気を、冷徹なまでの合理性で受け流している。


「お前がそれを懐に入れている限り、お前らはいつまでも『死人』になれねえ。地上を動かす猟犬どもはな、中身の数字じゃなく、その紙切れが放つ不穏な匂いを追ってここへ来る。灰にしろ。お前らの青臭い未練ごとだ」


「親父……!」


 レンが二人の間で息を詰まらせた。


 必死の思いで奪い取り、トマスが命を懸けて守り抜いた、仲間たちの犠牲の結晶。燃やしたくない。これが消えれば、あの夜の理不尽を告発する術は永遠に失われる。


 だが、目の前の二人の大人が漂わせている「これを持っていれば確実にハメ殺される」という圧倒的な現実の前に、レンの唇は震えるだけで、声にならなかった。


 泥巣(どぶねず)の空気が、限界まで張り詰めていく。


 ブラッドの指先が、静かに双刃の柄へと触れた。鉄鼠の手もまた、外套のポケットの奥で微かに位置を変える。


 ぽつん、ぽつんと落ちる水滴の音さえも、張り詰めた神経を切り裂く刃物のように感じられる、最悪の沈黙。


 ――その時だった。


「……ブラッド、さん」


 部屋の奥、簡素な寝台の方から、ひび割れた、しかし静かな声が響いた。


 全員が、弾かれたように振り返った。


 白いシーツの上、弱々しく上体を起こしたリーネが、寝汗に濡れた髪の隙間から、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめていた。

 その顔色はまだ痛々しいほどに青白いが、そこに宿る意志の光は、決して衰えてはいなかった。


「リーネさん! 目が覚めたんだね……!」


 レンが縋るように駆け寄る。しかし、リーネはかすかに首を横に振り、レンの手を優しく制すると、視線をブラッドの懐へと向けた。


「聞こえていました……。ブラッドさん、その本を……どうか、燃やしてください」


 ブラッドは眉をひそめ、冷めた声を絞り出した。


「お前、自分がどれだけ命削ってこれを守ったか、本当に分かってんのか」


「分かっています」


 リーネは胸の痛みに耐えるように微かに眉を寄せ、しかし、どこまでも毅然とした微笑みを浮かべた。


「でも……命より大事な証拠なんて、この世界にはありません。レンくんが、トマスさんが、そしてブラッドさんが、今こうして生きている。それ以上の『成果』なんて、私には必要ありません」


 一番に命を削り、一番に地獄を見てきた彼女のその言葉には、誰の論理よりも重い、絶対的な説得力があった。


 ブラッドは数秒の間、リーネの瞳をじっと見つめ返し――やがて、チッと大きく、苦々しい舌打ちを泥巣に響かせた。


 彼は懐から、あの血塗られた帳簿を乱暴に引き抜くと、机の上の古びたオイルランプへと近づけた。


 泥巣(どぶねず)の古びたオイルランプの火が、帳簿の端を舐める。


 ガザリアの密輸ルートの記録が、ギルド本部を揺るがすはずだった汚職の証拠が、そしてあの不気味な最高中枢の紋章が、赤黒い炎に包まれていく。


 レンは拳を握り締め、崩れ落ちていく灰を見つめながら、悔しさのあまり音もなく涙をこぼした。


 ブラッドは、燃え尽きて床に落ちた灰の塊を、ブーツの底で容赦なく踏み潰した。


 その横顔には、折れることのない猛獣の牙が、次なる標的に向けてより昏く、より獰猛に研ぎ澄まされる瞬間が刻まれていた。


「これで満足か、クソ親父」


「上出来だ」


 鉄鼠は外套のポケットに手を戻し、冷酷な眼差しでレンとブラッドを見下ろした。


「今日でお前らは死んだ。二度と『レン』という名の冒険者は存在しねえ。二度と礼拝堂の生き残りも存在しねえ」


 鉄鼠の濁った瞳が、部屋の奥で起き上がったばかりのリーネ、そしてレンへと静かに注がれる。


「地上でお前らが積み上げてきたものは、すべて綺麗さっぱり消えた。……忘れろ」


「……無理だ」


 レンは俯いたまま、掠れた声で、しかし血を吐くような拒絶を返した。


「トマスが死にかけ、礼拝堂の仲間が全員消されて……これを全部なかったことにして忘れるなんて、俺には、絶対に無理だ……!」


 鉄鼠はフッと、紫煙と共に小さく鼻で笑った。


「なら、覚えてろ」


 レンが、ハッと顔を上げる。


「忘れずに、その泥水を一生、腹の中に溜め込んでおけ。だが――今は生きろ。死人は吠えねえ。地上の連中がお前らを忘れるまで、その牙は泥に隠しておけ」


 それが、裏社会を生き抜いてきた老いた鼠が示す、あまりにも苦く、あまりにも冷徹な「生存の戦略」だった。


 ブラッドは何も言わず、踏み潰した灰を見つめていた。レンは唇を噛み締め、ただその理不尽な敗北を受け入れるしかなかった。


 ――その夜。


 泥巣には、いつもと変わらない、ぽつん、ぽつんという冷たい水滴の音だけが響いていた。


 トマスは相変わらず荒い息を立てて眠り、レンもまた、精神的な疲弊の限界を迎えて、パイプ椅子に突っ伏したまま泥のような眠りに落ちていた。

 ブラッドも壁に寄りかかり、静かに息を潜めている。


 静寂の中、リーネだけが、じっと目を開いていた。


 ドクン。


 不意に、胸元――『血契の紋章』

が、肌の奥を針で刺されたかのように微かに疼いた。


 リーネは小さく息を呑み、細い指先で自らの胸元を強く強く、すがるように押さえた。


 気のせいではない。


 泥巣の湿った空気の向こう。遥か遠く、地上のどこかから、幻聴のように重く、冷たい『鐘の音』が響いてくるような気がした。


 彼女の脳裏に、これまで必死に心の奥底へ封じ込めてきた、あの血と白煙に染まった過去の記憶が、濁流となって蘇り始める。


 リーネは青ざめた唇を震わせ、暗闇を見つめたまま、心の中で絶望と共に呟いた。


(来ている……)


(もう、すぐ近くまで、来ている……)

















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