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血契の双刃 〜その契約は、愛か呪いか〜  作者: クマハム
第1章:亡国の血と黄昏の誓い
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第54話:死人の朝・泥の沈黙



 ぽつん、と冷たい水滴が床に落ちる音が、静まり返った地下に響いていた。


 泥巣(どぶねず)の朝は、地上のような光をもたらさない。

 ただ、濁った空気の中に、リーネの処置に使った苦い薬草の匂いと、微かな血の臭いが停滞しているだけだった。


 レンは、一睡もできなかった。


 パイプ椅子に身を預けたまま、自分のボロボロになった両手を見つめる。

 爪の剥がれた指先は、泥巣にあった気休めの包帯で巻かれているが、触れずとも脈打つような痛みが引かない。


 だが、肉体の痛みなどどうでもよかった。


 レンの頭の中では、昨夜、親父が放った言葉が幾度も幾度も不吉な残響を立てて渦巻いていた。


『面倒な相手に見つかった』


『名前を知ろうとするな。その時点で、お前の命は完全に終わる』


『ガザリアは――もう死んでる』


 意味が分からなかった。自分たちは街を牛耳る巨悪の尻尾を捕まえたはずだった。


 汚職の帳簿を突きつければ、すべてがひっくり返るはずだった。


 なのに、なぜガザリアが死んでいる。なぜ親父は、あの夜、煙草を持つ指を一瞬だけ硬直させたのか。


 あの鉄鼠を本気で戦慄させた盤面の正体が、レンにはあまりにも巨大すぎて、輪郭すら掴めなかった。

 ただ、部屋の奥で泥のように眠り続けるリーネとトマスの寝息だけが、荒い息遣いと共に響いている。


 カチャリ、と重い鉄扉の鍵が回る音がした。


 レンの身体がびくりと跳ねる。


 入ってきたのは、鉄鼠――そして、その背後に佇む、ノワール街の顔馴染みの情報屋だった。

 情報屋の顔は、幽霊でも見たかのように青ざめている。


「……親父。地上の様子は?」


 レンが、掠れた声で立ち上がった。


 鉄鼠は何も答えず、ただ顎で情報屋を促した。

 情報屋は喉を鳴らし、懐から取り出した数枚の裏覚えの手記(メモ)を読み上げる。その声は微かに震えていた。


「……地下礼拝堂の崩落事故についてだ。ギルド本部の公式発表が出た。ガザリア副ギルド長を暗殺した『ノワール街の過激派一味』が潜伏していたため、ギルドの治安部隊が突入。激しい抵抗の末、過激派が礼拝堂の火薬庫を暴発させ自滅――」


 そこまで読んで、情報屋はレンを一瞬だけ見て、視線を落とした。


「現場の崩落は凄まじく……生存者は、なし。全員の死亡が確認された、と。地上は今、その一色だ」


「――は?」


 レンの口から、間の抜けた声が出た。


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。


「生存者なし……? 何を言ってるんだよ。俺たちはここにいる。トマスだって、リーネさんだって生きてる! なのに、全員死んだことになってるって、どういうことだよ!」


「そういうことだ」


 鉄鼠が、短く言葉を挟んだ。男は煙草に火を灯し、紫煙を吐き出す。


「だから都合がいい」


「何が都合がいいんだよ!」


 レンの感情が、ついに決壊した。怒りと理不尽さで、包帯の巻かれた拳を固く握りしめる。


「ふざけるな! 俺たちは生きているのに、あいつらの都合で死んだことにされて、それで終わりなのか!? 礼拝堂を吹き飛ばした奴らも、ガザリアを殺した奴らも、全部野放しにして、俺たちは死人として泥の中に隠れてろって言うのかよ!」



「逃げるのかよ……!」


 レンの悲痛な叫びが、泥巣の冷たい壁に虚しく跳ね返る。


「逃げる奴は追われる」


 低く、地を這うようなブラッドの声が、レンの怒号を遮った。


 壁に寄りかかっていた双刃の剣士が、ゆっくりと三日月の瞳を開く。


「だが、死んだことになってるなら話は別だ」


 レンが、すがるように顔を上げる。


「ブラッドさん……」


「気に食わねえがな」


 ブラッドはちっと激しく舌打ちした。

 その瞳の奥には、どす黒い凶暴な殺意がギラギラと燻っている。


「本来なら今すぐ地上に出て、あの黒装束どもの首を一人ずつ刎ねて回りてえ」


 鉄鼠が紫煙の向こうから、鼻で笑った。


「だからお前は短命なんだ」


「だが今は違う」


 ブラッドは鉄鼠の嘲笑を無視し、自身の双剣の柄を指先でリズミカルに叩いた。


「獲物の顔も知らねえまま、目隠しで喧嘩売るほど馬鹿じゃねえ。……確実に殺すために、今は死んでおいてやる」


 鉄鼠は煙草をくわえたまま、ブラッドをじっと見つめた。


 生き残るために消えようとする鼠と、次に喉笛を噛みちぎるために気配を消す狼。


 二人の思想はどこまでも平行線だったが、提示された「死人になる」という結論においてだけは、冷徹に合致していた。


 レンは拳を握り締めたまま、ただ俯いた。


 誰も何も言わない。自分たちの存在が世界から消去される理不尽。しかし、二人の強者がそれを受け入れている以上、今の自分にできることなど何もない。


 泥巣には、再び冷たい水滴の音だけが響き始める。


 ぽつん。


 ぽつん。


 その時だった。


 鉄鼠が、不意に、しかし有無を言わせぬ重圧を伴って口を開いた。


「……あと一つ」


 レンがビクリと顔を上げる。


 鉄鼠は深く紫煙を吐き出し、その鋭い眼光をブラッドの懐へと向けた。


「その帳簿」


 部屋の空気が、一瞬で張り詰める。


「明日までに処分しろ」


 ブラッドの三日月の瞳が、危険な細さへと変化した。


 鉄鼠は表情一つ変えず、冷酷に続けた。


「燃やせ」












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