↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血契の双刃 〜その契約は、愛か呪いか〜  作者: クマハム
第1章:亡国の血と黄昏の誓い
54/61

第53話:盤面の毒・鼠の爪



 泥巣(どぶねず)の湿った空気が、一瞬で凍りついた。


 現れたノワール街の顔役――『鉄鼠』は、外套のポケットから手を取り出すと、ブラッドの懐から覗いていたあの帳簿を、無造作にひったくるように奪い取った。


 レンは息を呑み、ブラッドは三日月の瞳を細めて男の動きを凝視する。


 誰もが、この裏社会の巨頭が帳簿を精読し、そこに隠された驚愕の真相を語り出すのだと思った。 


 だが、違った。


 鉄鼠は帳簿をパラパラと、わずか数秒めくっただけで、すぐにパタンと音を立てて閉じた。そして、それを躊躇いもなくブラッドの胸へと投げ返した。


「……親父?」


 レンが呆然とした声を上げる。


「読まないのかよ? そこにはガザリアの密輸ルートの証拠が全部――」


「読む必要はねえ」


 鉄鼠は低く、砂を噛むような声で切り捨てた。


「は……? 何を言って――」


「問題は中身じゃねえ」


 鉄鼠はレンを見ようともせず、ただ部屋の奥、寝台で横たわるリーネや負傷した若者たちへと視線を向けた。


「それを奪い返しに来た連中の規模だ。……地下礼拝堂を火薬で丸ごと吹き飛ばしたそうだな」


 ブラッドだけが、何も言わずに黙って鉄鼠を見つめていた。

 その野生の直感が、この老いた鼠の放つ異常な警戒の匂いを敏感に察知している。


「何がそんなにヤバいんだよ」


 レンが食い下がる。「僕たちは証拠を掴んだんだ。ギルドの汚職を公にすれば――」


「お前らはまだ生きてる」


 鉄鼠が、遮るように言った。


 泥巣に、不気味な沈黙が降りる。


「……それが、どうしたんだよ」


「それが一番おかしい」


 鉄鼠の濁った瞳が、初めてレンを真っ正面から射抜いた。


「地上の専門家が、本気で証拠と証人を消しに来て、天井を爆破してまで、お前らガキどもを一人も殺せずにとりこぼした。――そんなヘマを、あの連中がし続けると思うか?」


 レンの背筋に、冷たい汗が伝った。


 生き残れたのはリーネの命懸けの盾と、ブラッドの異常な戦闘力があったからだ。


 だが、鉄鼠の視点はそこにはない。敵の本気の殺意に対して、自分たちが生きているという結果そのものが、一時的な不自然に過ぎないと告げているのだ。


「連中は必ずやり直す。今度はもっと確実に、跡形もなくな」


「なら……戦うのか」


「違う」


「逃げるか」


 ブラッドが、低く言葉を挟んだ。


「それも違う」


 鉄鼠は静かに首を横に振った。


「まず――消える」


「消える……?」


「この泥巣を捨てる。仲間との連絡を一切絶ち、あらゆる情報網を閉じろ。お前らも、トマスたちも、全員が地上の爆発で『死んだこと』にするんだ」


「待てよ! 忘れろって言うのかよ!」


 レンが声を荒げる。 


「トマスが死にかけたんだ! 礼拝堂の仲間だって……! 忘れられるかよ!」


「だからお前はまだガキなんだ」


 地を飛うような鉄鼠の低い声が、レンの熱情を容赦なく圧殺した。


「名前を知ろうとするな。その時点で、お前の命は完全に終わる」


 鉄鼠はそう言うと、ブラッドの懐から再び帳簿の端を指先でつまみ、今度はその最終頁――血塗られたあの「紋章」のページを、ゆっくりと開いた。


 鉄鼠の視線が、その紋章に落ちる。


 一瞬だけ、泥巣の時間が完全に止まった。


 鉄鼠は無言のまま、ゆっくりと帳簿を閉じた。


 いつも通り、感情の読めない冷酷な大人の顔のまま、外套のポケットから煙草の箱を取り出そうとして――


 ほんの、わずか。


 指先が、不自然に止まった。


 レンはその微かな違和感に気づき、息を呑む。


 ブラッドの三日月の瞳が、さらに細められた。


 鉄鼠は何事もなかったかのように煙草を指に挟み、火を灯すと、紫煙の向こうから低く呟いた。


「……面倒な相手に見つかったな」


「誰の紋章だ」


 ブラッドが問う。


「これはガザリアじゃねえ」


 鉄鼠は鉄扉の向こう、地上の闇を睨み据えた。


「あの馬鹿は――もう死んでる」






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。