第53話:盤面の毒・鼠の爪
泥巣の湿った空気が、一瞬で凍りついた。
現れたノワール街の顔役――『鉄鼠』は、外套のポケットから手を取り出すと、ブラッドの懐から覗いていたあの帳簿を、無造作にひったくるように奪い取った。
レンは息を呑み、ブラッドは三日月の瞳を細めて男の動きを凝視する。
誰もが、この裏社会の巨頭が帳簿を精読し、そこに隠された驚愕の真相を語り出すのだと思った。
だが、違った。
鉄鼠は帳簿をパラパラと、わずか数秒めくっただけで、すぐにパタンと音を立てて閉じた。そして、それを躊躇いもなくブラッドの胸へと投げ返した。
「……親父?」
レンが呆然とした声を上げる。
「読まないのかよ? そこにはガザリアの密輸ルートの証拠が全部――」
「読む必要はねえ」
鉄鼠は低く、砂を噛むような声で切り捨てた。
「は……? 何を言って――」
「問題は中身じゃねえ」
鉄鼠はレンを見ようともせず、ただ部屋の奥、寝台で横たわるリーネや負傷した若者たちへと視線を向けた。
「それを奪い返しに来た連中の規模だ。……地下礼拝堂を火薬で丸ごと吹き飛ばしたそうだな」
ブラッドだけが、何も言わずに黙って鉄鼠を見つめていた。
その野生の直感が、この老いた鼠の放つ異常な警戒の匂いを敏感に察知している。
「何がそんなにヤバいんだよ」
レンが食い下がる。「僕たちは証拠を掴んだんだ。ギルドの汚職を公にすれば――」
「お前らはまだ生きてる」
鉄鼠が、遮るように言った。
泥巣に、不気味な沈黙が降りる。
「……それが、どうしたんだよ」
「それが一番おかしい」
鉄鼠の濁った瞳が、初めてレンを真っ正面から射抜いた。
「地上の専門家が、本気で証拠と証人を消しに来て、天井を爆破してまで、お前らガキどもを一人も殺せずにとりこぼした。――そんなヘマを、あの連中がし続けると思うか?」
レンの背筋に、冷たい汗が伝った。
生き残れたのはリーネの命懸けの盾と、ブラッドの異常な戦闘力があったからだ。
だが、鉄鼠の視点はそこにはない。敵の本気の殺意に対して、自分たちが生きているという結果そのものが、一時的な不自然に過ぎないと告げているのだ。
「連中は必ずやり直す。今度はもっと確実に、跡形もなくな」
「なら……戦うのか」
「違う」
「逃げるか」
ブラッドが、低く言葉を挟んだ。
「それも違う」
鉄鼠は静かに首を横に振った。
「まず――消える」
「消える……?」
「この泥巣を捨てる。仲間との連絡を一切絶ち、あらゆる情報網を閉じろ。お前らも、トマスたちも、全員が地上の爆発で『死んだこと』にするんだ」
「待てよ! 忘れろって言うのかよ!」
レンが声を荒げる。
「トマスが死にかけたんだ! 礼拝堂の仲間だって……! 忘れられるかよ!」
「だからお前はまだガキなんだ」
地を飛うような鉄鼠の低い声が、レンの熱情を容赦なく圧殺した。
「名前を知ろうとするな。その時点で、お前の命は完全に終わる」
鉄鼠はそう言うと、ブラッドの懐から再び帳簿の端を指先でつまみ、今度はその最終頁――血塗られたあの「紋章」のページを、ゆっくりと開いた。
鉄鼠の視線が、その紋章に落ちる。
一瞬だけ、泥巣の時間が完全に止まった。
鉄鼠は無言のまま、ゆっくりと帳簿を閉じた。
いつも通り、感情の読めない冷酷な大人の顔のまま、外套のポケットから煙草の箱を取り出そうとして――
ほんの、わずか。
指先が、不自然に止まった。
レンはその微かな違和感に気づき、息を呑む。
ブラッドの三日月の瞳が、さらに細められた。
鉄鼠は何事もなかったかのように煙草を指に挟み、火を灯すと、紫煙の向こうから低く呟いた。
「……面倒な相手に見つかったな」
「誰の紋章だ」
ブラッドが問う。
「これはガザリアじゃねえ」
鉄鼠は鉄扉の向こう、地上の闇を睨み据えた。
「あの馬鹿は――もう死んでる」




