第52話:残火の泥巣(どぶねず)
煤と埃にまみれた教国の地下逃走路を這い進み、ようやく辿り着いたのは、ノワール街の最深部近くにある、レンたちの隠れ家――古びた地下の貯水槽を改造した、通称『泥巣』と呼ばれる潜伏先だった。
重い鉄扉が閉まり、ひとまず地上の追手が来ない安全が確保された瞬間、若者たちは一斉に冷たい床へ崩れ落ちた。
「トマス……! しっかりしろ、トマス!」
レンが血塗れの、剥がれかけた爪で仲間の肩を揺さぶる。
トマスはリーネの応急処置で解呪と最低限の止血は済んでいたものの、顔色は青白く、呼吸は浅い。
無理やり塞いだ傷口の奥からは、まだじわじわと不吉な血が滲み出ていた。
「レン、くん……どいて、ください……」
か細い、だが拒絶を許さない声が響く。
リーネだった。彼女の足元はガクガクと震え、口元を拭った袖口は自身の吐血で赤黒く汚れていた。
二術同時行使の代償で、彼女の魔力と生命力はとっくに底を突いている。今すぐ横にならなければ、いつ気絶してもおかしくない状態だった。
「リーネさん!? だめだ、あなたはもう休んで――」
「いいえ、まだ……この方の命の火が、消えかけています……」
リーネはレンの制止を優しく、しかし毅然とした力で拒むと、トマスの傍らに膝を突いた。
彼女は迷わず両手をトマスの胸にかざす。
手の甲の『血契の紋章』が、再び赤黒く明滅した。それはリーネ自身の残った命を、文字通り削り取って絞り出すような光だった。
ゴボリ、とリーネの喉が鳴り、再び血の味が口内に広がる。それでも彼女は、トマスの傷口が完全に塞がるまで、祈るような微笑みを絶やさずに自らの血気を注ぎ込み続けた。
トマスの呼吸が、深くて安定したものに変わる。それを見届けて、リーネの身体が今度こそ糸の切れた人形のように傾いた。
「おい」
床に激突する寸前、その身体を、無骨で冷たい腕がガシッと受け止める。
ブラッドだった。
「言わんこっちゃねえ。お前は本当に、底抜けの馬鹿だな」
ブラッドの声はどこまでも冷ややかで、呆れ果てていた。
だが、リーネを抱き上げるその手つきは、驚くほど慎重で、乱暴さは一片もない。
「すみません、ブラッドさん……でも、間に合って、よかったです……」
ブラッドの胸の中で、リーネは満足そうに、小さな子供のような顔で、そのまま深い意識の闇へと沈んでいった。
「レン。こいつをそこのベッドに寝かせる。動かせる布と、あと水を持ってこい。……お前のそのボロボロの手も、ついでに洗え」
「あ……うん、分かった!」
ブラッドはリーネを簡素な寝台に横たえると、彼女の手の甲にある紋章に、そっと自分の手を重ねた。
自らの血気を、契約の経路を通じて少しだけ彼女の中へ還流させる。これもまた、効率的に彼女を回復させるための、彼なりの実務的な『手当て』だった。
若者たちが安堵の息を漏らし、静まり返った泥巣の片隅。
木製の粗末な机の上に、ブラッドは懐から取り出したあの帳簿を、重々しく叩きつけた。
「さて……ガキ。お前の命懸けの成果だ。じっくり見せてもらうぞ」
レンはまだ手の震えが止まらないまま、ブラッドの対面に腰掛けた。
爪の剥がれた指先を痛ましそうに見つめながらも、その瞳には先ほど獲得した「覚悟」の光が燻っている。
「……ガザリアの密輸ルートの帳簿だ。これは間違いない、本物だよ。ギルド本部と貴族の汚職、海王種の魔核の横流しの記録が全部入ってる。だけど……」
レンは自身のボロボロの手を握り締め、言い知れぬ恐怖を吐き出すように呟いた。
「どうしてあいつらは、副ギルド長の汚職を隠すためだけに、地下礼拝堂をあそこまで派手に爆破したんだ? 証拠を回収するにしても、やり方が異常すぎる。僕たちみたいな街の若者を根絶やしにするためだけに、あんな軍隊みたいな私兵を動かすなんて……」
「身の丈に合わねえ真似をするからだ」
ブラッドは鼻で笑い、帳簿の最終頁をめくってレンの前に突きつけた。
そこにあるのは、血に滲んだ一つの奇妙な紋章。
「これを見ろ」
「え……? 紋章、だけど……ガザリアの印じゃない。これ、どこかで……」
「今日、俺がギルド本部を訪れた際、最高幹部室の扉に刻まれていたものと同じだ」
ブラッドの言葉に、レンの顔線がさらに一段と青ざめた。
「そんな馬鹿な……じゃあ、ガザリアよりも上の、ギルド上層部が黒幕だったってこと? ギルドそのものが僕たちを……」
「そこまでは分からねえ」
ブラッドは背もたれに体を預け、三日月のような瞳を昏く光らせた。
「だが、あの黒装束の動きは、ガザリアが金で雇えるような私兵のそれじゃねえ。命令に対して一切の躊躇がない、完全に『消すためだけ』に訓練された専門家だ。それに、ガザリア個人の裏金を管理する帳簿に、なぜ最高中枢の承認印が押されてる?」
ブラッドは低く、乾いた声で続ける。
「お前らが追ってたのは、本当にガザリアっていうトカゲの尻尾だけだったのか?
――この帳簿は本物だ。だが、お前らが考えてる以上に、この紙切れはヤバすぎる地雷だぞ」
レンは息を呑んだ。自分たちはガザリアという悪党を告発するための証拠を掴んだと思っていた。
だが、その裏には、ブラッドですら明確な言語化を避けるような、もっと深くて不気味な大人の事情が潜んでいる。
「……じゃあ、どうすればいいんだ。僕たちは、このままここで怯えて、隠れてるしかないのか?」
「隠れてりゃ、そのうち巣ごと燻り殺されるだけだ」
ブラッドは帳簿を再び懐へと仕舞い込み、獣のような昏い笑みをその唇に刻んだ。
「隠れてても死ぬ。動いても死ぬ。――なら、外から足音が聞こえなくなる前に、仕掛けた張本人の顔を拝みに行くのが一番マシな選択だ」
その時。
泥巣の重い鉄扉の向こうから、近づいてくる足音が響いた。
コツ、コツ、コツ。
それは暗殺者のような気配を消した足音ではない。
かといって、怯える若者たちのものでもない。あまりにも堂々と、この地下の静寂を踏み荒らす、重厚な革靴の音。
ブラッドの視線が、一瞬で鋭い殺気を孕んで扉へと向けられる。
彼が双刃の柄に手をかけた瞬間、鉄扉が内側から、前触れもなくゆっくりと押し開けられた。
現れたのは、仕立ての良い、しかしどこか血の匂いが染み付いた外套を羽織った初老の男。
ノワール街の顔役であり、レンの父親――『鉄鼠』だった。
鉄鼠の鋭い眼光が、部屋の惨状と、ベッドに横たわるリーネ、誠にブラッドを一瞥する。
その視線が、最後に机の上に向けられた。ブラッドの懐から覗く、あの帳簿の端を、彼は見逃さなかった。
鉄鼠の顔色から、一瞬にして、あらゆる感情が消え失せた。
彼は無言のまま歩を進め、ブラッドの目の前まで来ると、低く地を這うような声で言った。
「……誰に見せた」
その声音に含まれた圧倒的な重圧に、レンは息を詰まらせながらも、絞り出すように答えた。
「ブラッド、さんだけだ。他には、誰も……」
鉄鼠は数秒の間を置き、深く、重い息を吐き出した。
「そうか」
男は外套のポケットに手を突っ込んだまま、閉ざされた鉄扉の向こう、地上の闇を見つめるように目を細めた。
「なら、まだ間に合う」




