第51話:深き迷宮の導線、大いなる影
「――標的、依然として戦闘能力を維持。第二陣、前へ」
黒装束の暗殺者が無感情に告げると同時に、崩落した天井の穴から、さらに三人の影が音もなく舞い降りた。
細身の短剣が、冷たい月光を浴びて不吉な銀色の軌跡を描く。
ブラッドは左肩の傷から血を滴らせながらも、その三日月のような瞳を一切曇らせてはいなかった。
だが、確実に包囲網は狭まっている。狭い信徒室で、これ以上大人数を相手に防戦を続けるのは限界に近かった。
「ブラッド、リーネ! 帳簿を持って僕に続け! 地下通路がある!」
背後から響いたのは、先ほどまで恐怖に震えていたはずの、レンの声だった。
少年は口元の血を手の甲で手荒く拭い去り、しっかりと帳簿を胸に抱えながら、祭壇のさらに奥、壁面に隠された重い鉄扉を指差していた。
「教国がかつて、有事の際に地上へ逃れるために作った隠し通路だ。だけど、奥の連動仕掛けが狂って、崩落しかけてる。……僕が先に行って仕掛けを動かす! だから、僕があの扉を開けるまで、時間を稼いでくれ!」
「違う!」
ブラッドが鋭く声を放つ。
「俺が前を歩く。お前は俺の後ろに隠れて案内だけしてろ」
「断るっ!」
レンはブラッドの冷徹な眼差しを真っ正面から睨み返し、叫んだ。
「仕掛けの狂った暗号盤の動かし方は、僕にしか分からない! 突っ立って守られてるだけの時間は、もう終わりだ。僕が僕たちの居場所を守るために、この手で道を拓く!」
その言葉に、ブラッドは一瞬だけ、フードの奥で口元を歪めた。
青臭い。どこまでも無鉄砲だ。だが――その瞳にあるのは、もうただの理想論に縋るガキのそれではない。命を張る覚悟を決めた、一人の男の目だった。
「……三分だ」
ブラッドは短く言い、双刃を低く構え直した。
「三分以内に扉を開けろ。それ以上は、あの世で親父に泣きつきな」
「二分で十分だ!」
レンは踵を返し、トマスたち仲間を促しながら、鉄扉の奥へと続く暗い階段へと猛然と駆け出していった。
「――標的が逃走を図った。これ以上の遅延は許されない。全個体、突撃」
黒装束の集団が一斉に動き出す。その刃が、階段へ向かおうとするレンたちの背中に迫った。
「行かせない……っ!!」
その行く手を遮るように、可憐な、しかし果てしなく強固な意志を秘めた影が滑り込んだ。
リーネだった。
彼女は両手を前に突き出す。手の甲にある血契の紋章が、悍ましいまでの赤黒い光を放って裂けた。
ドォン! と大気が鳴動し、階段の入り口を塞ぐように、血の魔力で編み上げられた半透明の防壁が展開される。
殺到した暗殺者たちの短剣が防壁に衝突し、激しい火花を散らした。
だが、地上の暗殺者たちも精鋭だ。容赦のない連撃が防壁に叩きつけられ、またたく間に赤い壁にピキピキと無数のひび割れが走る。
「く、あ……っ!」
リーネの口元から、一筋の血が伝った。
防壁を維持しながら、彼女はもう片方の手で、床に倒れていたトマスの傷口へと自らの血気を流し込み、無理やり傷を塞いでいた。
二つの呪術の同時行使は、リーネの生命力をゴリゴリと削り取っていく。彼女の身体が、限界の負荷で激しく震えていた。持っても、あと数分。
だが、その命懸けの盾が、確実な戦機を作り出した。
「上出来だ、リーネ」
ブラッドの身体から、爆発的な血のオーラが立ち上る。
リーネが防壁で通路の過半数を塞いでくれたおかげで、敵の侵入経路は、狭い一本の隙間に完全に絞られていた。
囲まれない狭い地形で、正面の敵だけに集中できる。
ならば、ここから先は――血路を拓く時間だった。
「さあ、地上の犬ども。誰から終わりにする?」
影が跳ねた。
狭い通路に殺到せざるを得なくなった暗殺者たちの隙を突き、ブラッドの『血喰双刃』が暗闇の中で赤い軌跡を描いて踊る。
地形の優位を得た血気術士の刃は、暗殺者たちの洗練された連携を、感情の一片すら交えぬ冷徹な手際で、確実に、ただ淡々と間引いていった。
「開いたぞ! 来てくれ!!」
地下の奥底から、レンの張り詰めた叫びが響いた。
見れば、奥の頑強な鉄扉が、重々しい金属音を立てて完全に開放されている。レンは爪が剥がれ、手が血に染まるのも構わずに暗号盤を動かし、見事に脱出路を抉り開けてみせたのだ。
「リーネ、下がるぞ!」
「はい……っ!」
ブラッドは迫る敵をまとめて一閃で薙ぎ払うと、限界を迎えて崩れ落ちかけるリーネの身体を抱きとめ、鉄扉の奥へと飛び込んだ。
レンがすぐさま内部のレバーを引き、背後の鉄扉がズゥンと音を立てて閉塞する。火薬の爆発でも破れないであろう教国の遺物。これで、地上の追手との距離は完全に引き離された。
水音が響く、古びた地下の逃走路。
息を荒くしながら進む若者たちを率い、先頭を歩くレンの姿には、確かな成長の兆しがあった。
歩きながら、ブラッドはレンから預かった例の帳簿を、懐から取り出してパラパラとめくった。
だが、ブラッドの視線が、ある場所でピタリと止まる。
最終頁の隅。
血で滲んだ、一つの奇妙な紋章。
それを見た瞬間だけ、ブラッドの表情から、それまでの不敵な笑みが完全に消え失せた。
「……どうしたんですか?」
ブラッドの腕の中で、少しだけ呼吸を落ち着かせたリーネが、怪訝そうに問いかける。
ブラッドは無言で、パタンと帳簿を閉じた。
「まだ分からねえ」
そう答えながらも、彼の胸の奥では、これまでにないほど激しい警鐘が鳴り響いていた。
その血塗られた紋章には、はっきりと見覚えがあった。
今日。ギルド本部を訪れた際、確かに目にしたものだ。
だが、副ギルド長ガザリアの印ではない。
もっと上。もっと深い場所にいる「何か」の影が、そこには確かに刻まれていた。




