第49話:潜伏の理由、穿たれる聖域
「……それを先に言え」
ブラッドの放ったあまりにも実利的な一言に、信徒室の空気は一瞬だけ奇妙に凍りついた。
世界を変えるだの、父親の支配がどうのだの、そうした崇高な思想を並べ立てていた少年――レンや周囲の若者たちは、目の前の双剣使いが「理想」などという不確かなものに一片の興味も示さず、ただ自身の掲げた「証拠」という対価だけを値踏みしてきたことに、完全に毒気を抜かれたのだ。
だが、レンはすぐに小さく首を振ると、昏い瞳に再び鋭い光を宿らせた。
「……いいだろう。お前が親父の使いだろうが、ただの雇われだろうが関係ない。これが、僕たちが命を懸けてここに隠れている理由だ」
レンは部屋の隅、教国の古い聖像が置かれた祭壇の裏手へと歩み寄り、床の隠し蓋を跳ね上げた。
そこから引き出されたのは、頑強な鉄帯が巻かれた小さな石箱だった。
レンが石箱の鍵を開け、中から一冊の古びた、けれどもしっかりと分厚い帳簿を取り出す。
「見なよ」
卓の上にドサリと置かれた帳簿。
ブラッドは無言で歩み寄り、革手袋の指先でその頁をめくった。
リーネもその背後から、食い入るように中身を覗き込む。
頁に並んでいたのは、およそ一介の少年が手に入れられるはずのない、生々しい数字と紋章の列だった。
頁の端々には、今日ギルド本部で見た『副ギルド長ガザリア』の私印。それに並ぶように、都市を牛耳る『大商会』の隠し印。そして、それらの取引を裏から公認し、法的な追及から守っている『貴族街』の有力門閥の署名。
何より、直近の頁には、ブラッドたち自身が命懸けで持ち帰った『海王種の魔核』に関する不審な流通経路と、それに伴う莫大な金の流れが、極秘の暗号文で克明に記録されていた。
「これは……」
リーネが小さく、戦慄に満ちた声を漏らす。
レンは帳簿を指差し、血を吐くような声音で言葉を重ねた。
「表向きは『劣化による廃棄処分』として処理された、高位の魔導薬。ギルドの帳簿から不自然に消えた、高難度任務の討伐報酬。そして、それらの不正に気づき、あるいは口封じのために『行方不明』として処理された、大勢の冒険者たち。……全部、繋がってるんだ」
少年は拳を固く握りしめた。
「親父のノワール街は、この汚い金の流れの中継点だ。地上で不都合になった品や人間を、親父が裏で『処理』し、その見返りに暗黒街の自治権を得ている。……そんなものは、ただの共犯だ。僕は、そんな汚れた鎖を断ち切りたい」
少年の熱を帯びた独白。
だが、頁をめくるブラッドの指は、どこまでも冷淡に動いていた。一通り目を通すと、ブラッドは容赦なく帳簿を叩いた。
「帳簿だけじゃ弱いな」
「な……っ!?」
レンが目を見開く。
「こんなもの、ギルドの最高幹部や貴族が『偽造された偽物だ』と言い張ればそれまでだ。公の場に出した瞬間、お前たちは証拠隠滅のために握りつぶされ、ただの反逆者として首を吊られる。……実物の証拠が足りねえ」
「だから、まだ集めてるんだ!」
レンは悔しげに歯を食いしばりながら、ブラッドに詰め寄った。
「この礼拝堂の地下通路は、ギルド本部の地下倉庫の真下に繋がっている。そこから、実際に横流しされている物ザや、連中が交わした本物の書状を盗み出す計画だった。あと一歩……あと一歩で、すべてが揃うはずだったんだ!」
――ブラッドが帳簿の最後の頁を閉じようとした、まさにその時だった。
ピタリ、とブラッドの動きが止まる。
「……待て」
低く、地を這うような声音。
その一言に含まれた、あまりにも濃密な戦慄の気配に、レンたち若者はおろか、リーネさえも背筋に冷たいものを感じて身を硬くした。
「ブラッドさん……?」
「静かすぎる」
ブラッドのフードの奥、三日月のような瞳が、天井の暗闇へと向けられる。
数秒前まで聞こえていた、地下水路の遠い水の音、風の鳴き声。そのすべてが、まるで世界から切り離されたかのように、不自然に途絶えていた。
直後、リーネの手の手の甲にある『血契の紋章』が、これまでにないほど激しく、狂ったような拒絶の脈動を刻み始める。
血契の網を通じて、ブラッドの五感と同期したリーネの脳裏に、津波のような「害意」が流れ込んできた。
(――上だ!)
地下礼拝堂の外、上階の地上回廊。そこを埋め尽くさんばかりの、洗練され、統率された、容赦のない無数の殺気。
鉄鼠の放った追手ではない。これは、この帳簿の存在を知り、少年たちを根絶やしにするために送り込まれた、本物の「私兵」の気配だった。
レンたちが掴みかけていた情報は、すでに黒幕側の逆鱗に触れていたのだ。
「伏せろっ!!」
ブラッドが怒号を放った、次の瞬間。
――ズ、ドオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
鼓膜を破らんばかりの爆音と共に、地下礼拝堂の天井が大きく炸裂した。
魔導爆薬による凄まじい衝撃波が狭い信徒室を駆け抜け、強固な石壁が轟音を立てて崩落する。
凄まじい粉塵と爆煙が視界を完全に覆い尽くし、若者たちの悲鳴が響き渡った。
「ゲホッ、ウ、嘘だろ……!? なんでここが……!」
レンが瓦礫の影で激しく咳き込みながら、絶望の声を上げる。
崩落し、地上へと吹き抜けた天井の穴から、煙を割って、影たちが音もなく舞い降りてきた。
その数、十有余。
全員が、光を反射しない特殊な黒装束を纏い、顔を不気味な鉄の面で覆っている。
その手に握られているのは、ギルドの正規冒険者たちが使うような大振りな武器ではなく、確実に急所を穿つために鍛え上げられた、暗殺用の細身の短剣と、魔導弩だった。
「――標的を確認」
鉄面の奥から、感情の一片も混ざらない、冷酷な機械のような声が響く。
「証拠(帳簿)を回収しろ。生存者は一人残らず処分だ」
地上の権力者が、その絶対的な秘密を守るために放った闇の軍勢。
崩れかけた異端の祭壇を舞台に、今、黄金の都の本当の闇が、牙を剥いて彼らへと襲いかかろうとしていた。




