第46話:影の巡礼、泥濘の揺り籠
秘密の酒場を後にしたブラッドとリーネは、さらに深く、暗黒街『ノワール街』の奥底へと下っていた。
鉄鼠に指示された「古びた地下礼拝堂」へ向かう道すがら、周囲の景色は、ただの薄暗い裏路地から、迷宮じみた巨大な下層回廊へとその姿を変えていく。
頭上を走る何重もの排水管から、絶えず湿った水滴が滴り落ち、足元の泥を濡らしている。
ブラッドはいつも通り、気配を完全に殺して歩調を進めていたが、フードの奥の視線は、通路のあちこちに広がる「異様な光景」を鋭く捉えていた。
「……ブラッドさん、これは……」
隣を歩くリーネが、法衣の袖を握りしめ、驚きに声を震わせた。
回廊の壁際に作られた、粗末な木箱や布切れを組み合わせた小さな天幕。その薄暗い影の中に、無数の幼い子供たちが身を寄せ合って座っていた。
地上の街であれば、身寄りのない孤児など、飢えに狂うか、悪辣な人買いに買い叩かれてそれきりだ。
だが、ここにいる子供たちの瞳には、絶望の混ざった濁りがない。
それどころか、仕立ての古い、けれどもしっかりと修繕された衣服を纏い、配給されたであろう硬い黒パンを静かに分け合っている。
その子供たちの周囲を、大振りの外套を着た物静かな大人たちが、見守るように巡回していた。
衣服の隙間から覗く肌には、裏社会の住人特有の古い傷跡や刺青がある。
だがその手つきは、子供たちの頭を優しく撫でるほどに穏やかだった。
「孤児を保護する、裏の組織か……」
ブラッドは低く呟いた。
ギルドや教国が「間引き」として見捨てた命を、この暗黒街の底が拾い上げ、独自の規律で育て上げている。
それは、地上の法律が如何に不完全であるかを、無言で証明している歪な揺り籠だった。
さらに歩みを進めると、今度は通路の脇で、怪しげな取引を行う者たちの姿が目に入った。
鈍く光る結晶や、紫色の怪しげな液体が入った小瓶が、粗末な敷物の上に並べられている。魔導薬の密売場だ。
しかし、その薬瓶に刻まれた、削り取られかけた紋章を見た瞬間、リーネの顔が凍りついた。
「あの印……中央の、名だたる大商会が独占しているはずの、高位の治癒薬です。なぜ、このような場所に……」
「削り跡が新しいな。地上で『廃棄処分』として処理された品だろ。税を誤魔化すために横流しされたか、あるいは、地上の貴族様が私腹を肥やすために、この街の商人に横流しさせてるのさ」
ブラッドは吐き捨てるように言った。
地上で清廉潔白を謳う大商会や、高潔を気取る貴族たち。
彼らが吐き出した汚物と強欲が、この地下で「密売」という形に姿を変え、生きるための薬として日陰者たちに買い取られている。
光が強ければ強いほど、その裏にある影もまた、深く、醜く広がる。
さらに、その密売所の奥にある酒場の片隅では、身なりの良い、けれどもうつむいたまま顔を上げない年若い少女の姿があった。
その傍らには、彼女を厳重に護衛するノワール街の屈強な男たちが付き従っている。
「……あの衣服の刺繍、貴族の門閥のものです。なぜ、これほど高貴な方が、このような吹き溜まりに……」
「『隠し子』ってやつだろ。表に出せば家名に傷がつく。殺すには忍びないから、金を積んでこの街に匿わせてるのさ。……おい、あっちを見な」
ブラッドが顎で示した先。
回廊の折れ曲がった壁に背を預け、死んだような目で虚空を見つめている男たちがいた。
その腰には、酷く刃こぼれした片手剣と、擦り切れたギルドの階級章がぶら下がっている。
「行方不明として処理された、冒険者たちの成れの果てだ。討伐に失敗して大怪我を負い、戦えなくなって地上を追われた奴らさ。ギルド本部がありながら、この有様だ」
孤児たちの保護、大商会の汚物の受け皿、貴族の醜聞の隠し場所、そして戦えなくなった者たちの最期の行き着く先。
歩けば歩くほど、リーネの胸の奥は激しく揺さぶられていた。
ここに来るまで、彼女の頭の中には「ノワール街=悪人の巣窟」という、地上から押し付けられた大前提があった。
しかし、いま目の前にある現実は、そんな単純な言葉では到底片付けられない、
一つの「完成された社会」そのものだった。
「ノワール街は……ただの犯罪者の集まりでは、ないのですね」
「ああ。地上の綺麗事が溢れさせたドブ水を、全部ここで引き受けてやがる。……そして、この巨大なドブを氾濫させずに、一つの街として管理してる奴がいる」
ブラッドは、先ほど別れたばかりの、あの灰色の老人の姿を脳裏に浮かべた。
鉄鼠。
彼がなぜ、これほどまでに暗黒街で絶対的な力を持ち、ギルド本部の最高幹部であるガザリアすら一目を置く存在なのか。
その理由が、この回廊の景色そのものによって、嫌というほど説得力を持って伝わってくる。
彼は単なる犯罪者ではない。この都市アルノヴァの「裏の統治者」なのだ。
「……見えてきたぞ」
ブラッドの声で、リーネは我に返った。
下層回廊の最奥。湿った大気がひときわ冷たく澱むその場所に、崩れかけた石造りの大きな門構えが、闇の中に静かに佇んでいた。
かつて教国が放棄し、地上の歴史から消し去られた不吉なる遺構――『古びた地下礼拝堂』の入り口が、すぐ目の前に迫っていた。




