第44話:灰色の案内人、裏返る正体
「……あんた、何者だ」
ブラッドの低い問いかけが、血の匂いが漂う薄暗い路地裏に響く。
だが、丸まった背中を揺らす老人は、その問いには答えず、ただ濁った瞳の奥で不気味な笑みを深めるだけだった。
「鉄鼠に会いたい?」
老人は、試すようにそう言った。
その名が出た瞬間、ブラッドの手の手の甲にある『血契の紋章』が、ドクンと小さく、けれど鋭く脈打った。
隣に立つリーネも法衣の下で小さく息を呑み、ブラッドの影に寄り添うように身構える。
この老人が何者であれ、暗黒街の鍵を握る男への確かな伝手を持っていることだけは間違いなかった。
焦る必要はない。獲物を追う時ほど、足元を見ろ。
ブラッドは心の中で自らの鉄則を復唱し、双刃の柄からゆっくりと手を離すと、冷酷な声音のまま短く返した。
「会わせろ」
その言葉を聞くと、老人は満足そうに顔の皺をいっそう深くして笑った。
「そうか。なら案内してやろう」
老人は身を翻すと、驚くほど足音を立てずに闇の奥へと歩き出した。
ブラッドとリーネは、互いの心音を血契の繋がりで同期させ、一寸の油断もなくその灰色の背中を追った。
老人が進む経路は、およそまともな人間の通る道ではなかった。
建物の崩れかけた隙間をすり抜け、錆びついた鉄の梯子を下り、大運河の裏手に隠された、湿った地下水路の脇をひたすら進んでいく。
歩けば歩くほど、上空を覆う建造物の影は濃くなり、アルノヴァの華やかな光や喧騒は完全に遮断されていった。あるのは、ただ滴り落ちる水の音と、泥と硝石の混ざり合った、裏社会特有の鼻を突く匂いだけだ。
時折、通路の物陰から別の不審な視線を感じることもあったが、先頭を行く老人がただの灰色の布の裾を揺らすだけで、その気配たちはまるでモーセの海割りのように、音もなく闇の奥へと引っ込んでいった。
この老人が、このノワール街においてどれほど絶対的な「通行証」であるかを、その光景が何よりも証明していた。
やがて、地下水路の行き止まりにある、一見するとただの腐りかけた木製の扉の前で老人が足を止めた。
老人が特異なリズムで扉を三回叩くと、内側から重い閂が外される音が響き、扉がゆっくりと開く。
中に広がっていたのは、奇妙な静寂に満ちた『秘密の酒場』だった。
地上の賑やかな酒場とは何もかもが違っていた。
客たちは誰もが大振りの外套を深く被り、声を潜めて密談を交わしている。
壁際に並ぶ棚には、ラベルのない怪しげな薬瓶や、出所不明の魔導具の部品が雑然と並び、カウンターの奥では、片目を失った大柄な男が黙々とグラスを拭いていた。
こここそが、法律の届かないアルノヴァの本当の深部。あらゆる陰謀と闇取引が交錯する、ノワール街の心臓部の一つだった。
老人は店内の最奥、周囲から完全に死角となった円卓の席へと、当然のような足取りで歩を進めた。
そして、よっこらしょと声を漏らしながら、年季の入った木製の椅子へと腰掛ける。
ブラッドとリーネは、その正面の席に立ったまま、油断なく老人を見下ろした。
「座りな、若き冒険者たち。地上のギルドのように上等な椅子ではないが、他人に首を撥ねられる心配だけはない場所さ」
ブラッドは無言で椅子を引き、リーネを隣に座らせると、自らも腰掛けた。
卓を挟んで対峙する、灰色の老人と、グランポートから来た二人組。張り詰めた沈黙が流れるなか、老人はカウンターの男に目配せをし、濁った琥珀色の液体が入った三つの杯を運ばせた。
「さて。……ここまで無事についてこれたご褒美だ。改めて名乗ろうか」
老人は、細められた瞳の奥に、先ほどまでの浮浪者のような佇まいとは明らかに違う、昏く、底知れない圧倒的な「支配者」の光を宿らせた。
彼が灰色の布を少しだけ払い、卓の上にその両手を置いた瞬間。
「鉄鼠だ」
老人の口から、静かに、けれど絶対的な重みを持って放たれたその名。
「な……っ!?」
リーネは思わず息を詰め、目を見開いた。
案内人を探すためにこの闇へ足を踏み入れ、その案内を乞うた相手が、まさか、裏社会を牛耳る重要人物その人であったとは。
目の前の盤面が、一瞬にして裏返ったかのような衝撃が彼女を襲う。
だが、ブラッドだけは、驚くどころか、そのフードの奥で不敵に三日月のような瞳を爛々と輝かせた。
「……ハッ。そうかよ。わざわざ大物が直々に出迎えてくれるとはな。随分と歓迎されたもんだ」
「ククク、お前さんのあの無駄のない双刃の冴え、誠に眼福だった。これほどの逸材が、あのガザリアのジジイにいいように使われるのを見るのは、少々忍びなくてねえ」
鉄鼠は杯を干すと、机の上に一枚の、古びた羊皮紙を滑らせた。
そこには、ガザリアが提示した『朱色の封蝋の依頼書』とは全く違う、暗黒街の血の刻印が押されており――




