第43話:闇の門頭、見つめる瞳
黄金の都アルノヴァの夜は、欺瞞に満ちていた。
中央の大通りには魔導具の灯火がこれでもかと並び、昼間と変わらぬ狂乱的な活気を見せつけている。
だが、そこから数本、さらに数本と裏路地へ足を踏み入れるごとに、光は急速にその力を失い、街は本来の昏い輪郭を現し始める。
足元は磨かれた大理石から、湿った泥と苔の生えた安山岩へと変わり、鼻を突く悪臭と鉄錆の匂いが漂ってくる。
頭上を覆うようにせり出した古い建物の隙間から、わずかな月光が落ちるだけの薄暗い路地。
ここから先は、ギルドの法律も、都市の衛兵の目も届かないアルノヴァの底――暗黒街『ノワール街』の入り口、すなわち吹き溜まりの境界だった。
「……ブラッドさん、空気が、酷く淀んでいます」
リーネは法衣の裾を小さく引き締めながら、声を潜めて囁いた。
路地のあちこちにある闇の隙間から、無数の「飢えた視線」が自分たちをじっと監視しているのが、血契の繋がりを通じて痛いほどに伝わってくる。
「ふん。どこの街でも、裏通りのドブネズミが考えることは一つさ」
ブラッドはコートのフードを深く被ったまま、歩調を緩めることなく淡々と進む。
彼の手の手の甲にある紋章は、トクン、トクンと冷徹極まりない一定の脈動を刻んでいた。
「獲物を追う時ほど、足元を見ろ」――自らに課した鉄則の通り、彼の五感はすでに、闇の中に潜むわずかな殺気の揺らぎを完璧に捉えていた。
やがて、完全に街灯が途絶えた行き止まりに近い十字路で、彼らの行く手を遮るように複数の影が躍り出た。
「おいおいおい、見ろよ。こんな夜更けのドブ街に、上等な衣服を着た上玉の聖女様と、不審な双剣使いのお出ましだぜ」
品性の下劣な笑い声とともに、総勢五人の男たちが武器を手にして立ち塞がった。
錆びついた短剣や、血の跡がこびりついた片手斧を弄ぶ、裏社会の底辺に這い回る荒くれ者どもだ。
彼らは余所者、それも金目のものを持っていそうな二人をカモにしようと、下卑た目でリーネの身体を舐めるように見つめている。
「大人しくその身ぐるみを剥がされな。命だけは――」
男が最後まで言葉を言い切ることは、なかった。
――ザシュッ。
肉を断つ、酷く静かで短い音が夜の静寂に響いた。
男たちは、眼前の双剣使いがいつ武器を抜いたのかすら、誰一人として視認できていなかった。
ただ、ブラッドの着る黒いコートの裾が、夜風とは違う鋭さで一瞬だけ翻ったように見えた、次の刹那。
先頭で喋っていた男の首が、音もなく綺麗に宙を舞っていた。
「ガ……、あ……?」
残された胴体が大量の鮮血を噴き上げながら地面に崩れ落ちるのと、ほぼ同時。ブラッドはすでに、左側にいたもう一人の男の懐へと滑り込んでいた。
交差するように振るわれた逆手の刃が一閃。右の首筋から左の脇腹へと斜めに肉を断たれた二人目の男が、短い悲鳴と共に床へ転がる。
最初の一太刀から、ものの二秒。
一瞬にして目の前で二人の仲間が肉塊と化したその圧倒的な蹂躙を前に、残された三人の男たちは、恐怖のあまり完全に腰を抜かした。
「ひ、ひぃぃっ……!?」
ガタガタと歯の根を鳴らし、武器を取り落として尻餅をつく三人の荒くれ者。
もはや戦意など一片も残っていない。そのうちの一人が、漏れ出る涙と尿に塗れながら、必死に這いつくばって逃げようとした。
「――待て」
凍りつくような低い声が、その背中に突き刺さる。
逃げようとした男の首筋に、冷たい鋼の感触がぴたりと当てられた。
ブラッドの持つ『血喰双刃』の切っ先だ。わずかにでも動けば、その頸動脈は容易く引き裂かれるだろう。
「誰に雇われた」
ブラッドはフードの奥の三日月のような瞳で男を見下ろし、極めて淡々と、けれど絶対的な死の気配を込めて問いかけた。
「し、知らねえ! 本当に知らねえんだ……ッ!」
男は首筋から血を滲ませながら、狂ったように首を横に振った。
「お、俺たちはただ、宿の近くで見張ってろって言われて……! そ、その、黒い外套を着た仲介屋から、グランポートの奴らが来たら適当に脅して、痛めつけろって金を渡されただけで……! 本当に、黒幕の正体なんて知らねえんだよおぉっ!」
嘘をついている気配はない。血契の繋がりを伝ってくるリーネの感知の網にも、男の言葉にあるのは純粋な「死への恐怖」だけで、偽りの波長は混ざっていなかった。
「……チッ。やっぱりただの下っ端か」
ブラッドはつまらなそうに呟くと、男の首筋から刃を引いた。腰を抜かした三人は、蜘蛛の子を散らすように闇の奥へと這いずりながら逃げ去っていった。
ブラッドが刀身に付着したわずかな血を払い、双刃を鞘に収めようとした、その時だった。
「――ほぅ。いい腕だな、双剣使い」
カサリ、とゴミ溜めの影から、乾いた、けれど不思議と芯の通った声が響いた。
ブラッドの身体が、一瞬で再び戦闘態勢へと戻る。リーネも瞬時に身構え、魔力を研ぎ澄ませた。
完璧に周囲を警戒していたはずの二人の網を潜り抜け、いつからそこにいたのかすら分からぬほどに気配を殺していた存在。
闇の向こうからゆっくりと姿を現したのは、一人の老いた男だった。
酷く擦り切れた灰色の布を纏い、背は低く丸まっている。だが、足元の凄惨な血溜まりを見ても、その老人の瞳には怯えの色など一片もなかった。それどころか、ブラッドの合理的な立ち振る舞いと、二人の手の甲にある血契の紋章を、じっと品定めするように見つめている。
「ただ力に任せて殺すのではなく、生かして情報を引き出すか。若さに似合わぬ冷静な戦いぶりだ。……お前さんたち、手探りでこの深い闇を彷徨うより、“鉄鼠”って男を探しているんじゃないかね?」
老人の口から、唐突に放たれたその名。
ブラッドの瞳が、フードの奥で鋭く細められた。ただの下っ端を脅しつけても出なかった裏社会の案内人の名前を、この出会い頭の老人が正確に口にしたのだ。
いきなり本人に突き当たるよりも、この尋問の直後、すべてを見透かしたように現れた老人の口からその名が出ることで、その“鉄鼠”という存在が、ノワール街においてどれほど底知れない重みを持つ重要人物であるかが、二人の肌に生々しく伝わっていた。
「……あんた、何者だ」
ブラッドが低く問いかけると、老人はただ、不気味な笑みを浮かべて闇の奥へと一歩下がった。
「ついてきな。死にたくなければな、若き冒険者よ」




