第42話:正統の洗礼、鉄鼠の足跡
宿の一階にある酒場は、夜が更けるにつれてアルノヴァの冒険者や商人たちで膨れ上がっていた。
天井から吊るされた魔導ランプの橙色の光が、琥珀色の麦酒が注がれた無数の木樽のジョッキを照らし、肉を焼く香ばしい匂いと喧騒が狭い空間に充満している。
ブラッドとリーネは、壁際の最も薄暗い角の席に陣取っていた。
フードを深く被ったまま、ブラッドは酒には触れず、ただ一杯の水が入った杯を弄びながら、鋭い視線だけで店内の様子を観察していた。
隣のリーネも、都会の冒険者たちの醸し出す独特の空気に気圧されぬよう、静かに気配を殺している。
見渡す限り、ここにいる者たちの質はグランポートのそれとは明らかに違っていた。
誰もが手入れの行き届いた上質な武器を帯び、その身のこなしには相応の修羅場を潜り抜けてきた者特有の、無駄のない鋭さがある。
だが、そんな実力者たちの口から漏れ聞こえてくるのは、歓迎とは程遠い、酷く不愉快な噂話だった。
「……おい、聞いたか? グランポートの田舎ギルドから、いきなりBランクに飛び級昇格したっていう二人組の話」
「ああ、今日本部に現れたって奴だろ。なんでも、教国を追放された曰く付きの聖女と、出所不明の怪しい双剣使いらしいぜ」
「海王種の魔核を運んできたって触れ込みだが、どうせ現地の上級の隊が命懸けで削った獲物を、後ろから漁夫の利でかっさらっただけだろ。田舎のギルド長が身内に手柄を握らせたってのが、本部の見方さ」
冷やかしと、侮蔑の混ざった笑い声。
リーネは思わず膝の上で拳を握りしめ、身を硬くした。
事実を歪められた悔しさよりも、ブラッドの命を削るような戦いまで冒涜されたことに、胸の奥がキリキリと痛む。
(ブラッドさん……)
血契の繋がりを通して、リーネは恐る恐るブラッドの波長を探った。
だが、彼は怒るどころか、退屈そうに小さく欠伸を噛み殺していた。
「獲物を追う時ほど、足元を見ろ」――自ら課したその鉄則の通り、周囲の雑音など彼の心を一ミリも揺らしはしない。
しかし、その悪評の輪に、凛とした、だが酷く傲慢な男の声が割り込んだ。
「そこまでに高説を垂れるなら、君たちがその『漁夫の利』とやらをやってみせたらどうだ? 海王種を前にすれば、君たちは後ろから近づくことすらできず、その威圧だけで海の藻屑になるだろうがね」
一瞬で、悪口を叩いていた者たちが凍りついた。
酒場の入り口から歩いてきたのは、場違いなほどに洗練された四人組の男女だった。
先頭を歩くのは、まばゆい白銀の軽甲冑を纏い、腰に一本の美しい長剣を下げた、端正な容姿の聖騎士の男。
その背後には、冷徹な美貌を誇る、仕立ての良い藍色の長衣を着た綺麗な女魔術師。
その後ろを、巨大な錫杖を持った小柄で寡黙な神官の少年と、全身に幾つもの暗器を隠し持った、油断のない目付きの斥候の男が静かに従っている。
彼らが大理石の床を踏みしめるたび、周囲の冒険者たちが一斉に道を譲り、畏敬の念を込めてその名を囁いた。
「……っ、A級の猛者、『暁の天秤』……!」
「中央の、本物の正統派だ……」
実力、格式ともにアルノヴァの最高峰に位置する、中央の寵児たち。
聖騎士のリーダーの男は、怯む周囲の者たちにはもう目もくれず、真っ直ぐに店内の最奥――ブラッドたちのテーブルへと歩み寄ってきた。
「見苦しい噂話を聞かせてしまったね、グランポートの英雄たち。私はレオン。君たちが運んできた魔核が、この街にどれほどの波紋を呼んでいるか、本人たちにも自覚してほしくてね」
レオンと名乗った男は、爽やかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には一寸の油断もない、本物の強者の光を宿していた。
その後ろに立つ女魔術師が、冷ややかな視線でブラッドとリーネを値踏みするように見下ろす。
彼女の周囲の魔力が、攻撃系の術士特有の鋭利な弾け方をして、空気の温度を僅かに下げていた。
「……用がないなら失せろ。名乗られても覚える気はねえよ」
ブラッドは杯を持ったまま、視線すら合わせずに冷たく言い放った。
そのあからさまな拒絶に、レオンの後ろの斥候の男が「おい、A級を前にしてその口の利き方は――」と一歩前に出ようとしたが、レオンが手を挙げてそれを制した。
「相変わらず尖っているね、双剣使い。だが、Bランクへの飛び級が本物かどうか、中央の連中はみんな疑っている。僕たちは君たちの力を疑ってはいないが……あまり無茶をして、その器に合わない闇に首を突っ込まないことだ。この街の影は、君たちが思っている以上に深い」
レオンの言葉は、一見すれば親切な忠告のようだった。だが、それは同時に「中央の席は自分たちのものだ」という、格上からの絶対的な優位と牽制の洗礼でもあった。
「……器、ねえ」
ブラッドは初めて杯を置き、ゆっくりと立ち上がった。
コートの裾が揺れ、フードの奥から覗く三日月のような瞳が、レオンの白銀の甲冑を冷酷に射抜く。
「器がどうとか興味ねえ」
ブラッドはゆっくり立ち上がった。
「ただ一つだけ言っとく」
「深い影だろうが何だろうが、俺は今までそこから這い上がってきた」
「だから忠告は要らねえ」
ゾリ、と酒場の空気が物理的に擦れるような、ドス黒い殺気の波長がブラッドの全身から放たれた。
血契を通じて、リーネの魔力もまたいつでもブラッドの背後を守れるよう、カチリと噛み合う。
レオンの瞳が、初めて驚愕に微かに揺れた。
後ろの女魔術師も、無意識に杖を握る手に力を込める。
軽い衝突のつもりだったのだろうが、ブラッドの放つ気配は、彼らが今まで対峙してきた「正統派」のどれとも違う、あまりにも容赦のない、死線そのものの匂いがしていたからだ。
「……そこまでにしときな、双方とも」
一触即発の空間を破ったのは、カウンターの奥から響いた、宿の主人の野太い声だった。
レオンはしばしの沈黙の後、ふっと小さく息を吐き、ブラッドから視線を外した。
「いい眼だ。……引き際を弁えているのも、一流の条件さ。また本部の戦場で会おう」
レオンたちはそれだけ言い残すと、美しく身を翻し、嵐のように酒場を去っていった。
周囲の冒険者たちがホッと息を漏らすなか、ブラッドは「チッ」とつまらなそうに元の席へと腰掛けた。
しばらくして、店内が元の喧騒を取り戻した頃。ブラッドはカウンターへと歩み寄り、店主にいくつかの金貨を滑らせながら、低く問いかけた。
「おい、親父。昨夜、俺たちを襲った連中が『ノワール街』の仲介屋の名前を出してた。あの暗黒街への入り方と、仕切ってる奴の名前を教えろ」
金貨の鈍い音を聞いた瞬間、酒場の主人はピタリと手を止め、顔をしかめて周囲を盗み見た。
「……ノワール街を知りたいだと?」
主人は声を限界まで潜め、苦虫を噛み潰したような顔でブラッドを睨みつけた。
「死に急ぐんじゃねえよ、兄ちゃん。あそこは中央のギルドの法律も通じねえ、本当の吹き溜まりだ。……どうしても行くってんなら、まず、“鉄鼠”って男を探しな。あそこの案内人だ。生きて戻ってこれるかは、お前さんらの運次第だがね」




