第3話:死に急ぐ地下の闇
――ガサリ、と無骨な指先が掲示板の羊皮紙を剥ぎ取った。
周囲の冒険者たちが、息を呑んでその様子を凝視している。
新米の鉄プレート(Eランク)を首に下げたばかりの男が、誰もが避けていたDランクの討伐依頼――『港裏の旧下水路に巣食う、凶暴化した「がしゃ泥」(マッド・ウルフ)の群れ』を迷わず選んだからだ。
「おい、正気かよ、あのガキ……」
「ソロであそこへ潜る気か? 死体すら上がってこねえぞ」
せせら笑うような、あるいは憐れむような囁きが背中に突き刺さるが、ブラッドは一度も振り返らなかった。
ミレイアの引き止める声を背中で聞き流し、ただ事務的に手続きを済ませると、再びあの重苦しいオークの扉を押し開けてギルドを後にした。
華やかな大通りの喧騒が、遠ざかっていく。
ブラッドが向かったのは、港町の最果て、網の目のように入り組んだスラム街のさらに奥にある、誰も近寄らない古い石造りの昇降口だった。
錆びついた鉄格子を抉るようにこじ開け、垂直に伸びるハシゴを一段ずつ降りていく。
陽の光が、上空の四角い穴へと遠ざかり、やがて完全に消失した。
カツン、とブーツの底が湿った泥を踏みしめる。
そこは、太陽の慈悲から完全に見捨てられた、暗黒の迷宮だった。
天井からはドロドロとした汚水が絶え間なく滴り、ゴォ、と不気味な風の音が反響している。
むっと立ち込めるのは、ヘドロの悪臭と、生物の死骸が腐敗した生臭い硝煙の残り香。
普通の人間であれば、松明の灯りなしには一歩も進めない漆黒の空間。
だが、ブラッドは明かりを灯さなかった。暗闇での灯火は、魔物に「喰うべき獲物の位置」を教える自殺行為でしかないからだ。
ブラッドは深く息を吸い込み、首元のはめ込み式チョーカーに指を触れた。
「――チッ、ドク、ドク、ドク」
血気術『脈動感知』
自身の血流を強制的に跳ね上げることで、五感を限界を超えて拡張する。
途端に、耳の奥で自分の心音がうるさいほどに鳴り響き、こめかみの血管が破裂しそうなほど脈打ち始めた。
チョーカーが暴走を抑え込もうとパチパチと音を立て、首筋の皮膚をジリジリと灼くような熱が襲う。
だが、引き換えにブラッドの脳内には、暗闇の景色が不気味なほど鮮明な立体図となって浮かび上がってきた。
壁の向こうを流れる汚水の微動。そして――。
「……いたな」
前方、数十メトール先の通路。泥と同化し、濁った眼球だけを光らせている巨大な影が蠢いていた。
背丈ほどもある狼の群れ。それも、計五匹。
「グルルルル……!」
侵入者の気配、あるいはその身から漂う異質な血の匂いを察知したのか、狼たちが低い唸り声を上げ、ヘドロを激しく跳ね上げながら一斉に牙を剥いて飛びかかってきた。
ブラッドは無言のまま、背後から対の双剣――『血喰双刃』を鋭く引き抜いた。
まだ血を吸わせていない、冷徹な鉄の刃が闇の中でギラリと鈍い光を放つ。
手首のバンデージを解くことも、禁忌の血を流すこともない。
300年前、最強と謳われた六魔将の軍勢と渡り合ってきた一族の剣技――その生身の冴えだけで、この程度の雑魚を屠るには十分すぎる。
「ガアアッ!」
先頭の狼が、引き裂かれた泥の波を超えて躍り出る。
青年は微塵の動揺も見せず、ただ冷酷に双剣を構え、迎え撃つべく影となって前方へと踏み込んだ。




