第2話:亡霊の品定め
――ギィ、と重苦しい音を立ててオークの扉が開いた瞬間、ブラッドの全身を襲ったのは、地上の潮風とは似ても似つかない、どす黒く澱んだ「獣たちの熱気」だった。
鼻腔を容赦なく蹂躙するのは、安物の強烈な葉巻の煙と、数日洗われていない革鎧の汗臭さ。
そこに、床に溢れたドロドロの安酒と、酒場の奥の厨房から漂う、仕留められたばかりの魔獣の肉を焼く生臭い油の匂いが混ざり合い、一つの強烈な悪臭となって空間にのしかかっている。
「ガハハハ! 見ろよこの傷、昨日の大トカゲにやられたんだ!」
「おい、明日の討伐、前衛の頭数が足りねえぞ。誰か手頃な奴はいねえか!」
何十人もの命知らずたちが、卓を叩き、怒鳴り合い、笑う。
壁には、いつの時代に討ち取られたかもわからない、巨大なワイバーンの剥製が黒ずんだ顎を開いて飾られ、石造りの柱には、剣の刃こぼれを研いだときについたと思われる無数の荒々しい傷跡が刻まれていた。
ここは、神の法律も、国家の秩序も届かない、ただの「暴力」と「金」だけが絶対の天秤。
そんな喧騒の渦中へ、黒いロングコートを纏ったブラッドが、一歩、足を踏み入れた。
――ピキリ、と。
水面に冷たい氷が張るように、ブラッドの歩みに合わせて、周囲の荒くれ者たちの笑い声が外側から順に消えていった。
一歩、また一歩と、ブラッドの硬いブーツの音がレンガの床を叩く。
青年の身体から発せられる空気は、ただの「強者」のそれではない。300年分の怨嗟をその身に宿し、復讐のためだけに命を削り続ける亡霊が放つ、凍てつくような「純粋な殺気」。
卓に肘を突いていたベテランの冒険者たちが、本能的な悪寒からか、無言で腰の剣の柄に手をかけ、目を細めてブラッドの背中を睨みつける。
すれ違う者たちが、まるで疫病神を避けるかのように、明確に道をあけていった。
(どいつもこいつも、生温かい命をぶら下げていやがる――)
ブラッドは、周囲の突き刺さるような視線を一切無視し、真っ直ぐに受付カウンターへと向かった。
酒場の最奥、一際大きな黒檀の机に座り、隻眼の目を光らせていた大男――ギルドマスターのガルドが、低く鼻を鳴らしてブラッドを品定めするように見つめていたが、それすらもブラッドにはどうでもいいことだった。
「……冒険者の新規登録を」
カウンターに両手を突き、ブラッドは低く、掠れた声を出した。
受付の椅子に座っていた茶髪の受付嬢――ミレイアは、一瞬、心臓を直接冷たい手で掴まれたかのように身体を強張らせた。
いつもなら、新しいカモを歓迎するような営業用の笑みを浮かべる彼女だったが、目の前の青年の前では、その顔を引きつらせることしかできない。
ミレイアの視線が、ブラッドの首元を硬く締め付ける鈍色の『心拍制御チョーカー』と、衣服の隙間から覗く、痛々しいほど幾重にも巻かれた腕のバンデージに釘付けになる。
その奥から、かすかにドク、ドク、と、普通の人間のものとは思えないほど重く激しい拍動が伝わってくるのを、彼女の鋭い勘が察知していた。
「あ、はい……新規の、ご登録ですね。では、こちらの書面に、お名前と……お使いになる武器、戦闘職をご記入、またはご申告ください」
ミレイアは震えそうになる指先を抑え、羊皮紙を差し出した。
「名はブラッド。職は――剣士。武器は双剣だ」
ブラッドは、コートの内側に隠された『血喰双刃』の存在を隠すように、ただ短く告げた。血気術などという禁忌の名を、こんな場所で晒すつもりはない。
「ブラッド様、ですね……。武器は、双剣。……失礼ですが、身元を保証できるような書類や、他国での活動記録などは……」
「ない。流れ者だ。問題を起こせば即座に追放すればいい、それがここのルールだろう」
突き放すような冷淡な言葉に、ミレイアは唾を飲み込み、「……分かりました」と書類に素早くペンを走らせた。
このギルドにおいて、訳ありの過去など珍しくもない。死ねばそれまでの使い捨ての戦力。それが冒険者だ。
ミレイアはカウンターの奥から、ずっしりと重い、一枚の無骨な鉄のプレートを取り出した。
そこには、グランポート支部の紋章と、最底辺の階級を示す文字が刻まれている。
「こちらが、ブラッド様の身分証になります。ランクは『E』――新米からのスタートとなります。依頼はあちらの掲示板にある、E、またはDランクのものからお選びください。死傷、行方不明、すべて自己責任となりますが……よろしいですね?」
ブラッドは何も答えず、差し出された鉄のプレートを乱暴に掴み取った。
手のひらに伝わる、冷たい鉄の感触。
これが、英雄への階段などではない。己の命を削り、体内の呪われた血液を燃料に変えて、血皇ヴァルザークの首へと這い寄るための、血塗られた第一歩の証だ。
「……ドク、ク……」
プレートを握りしめた瞬間、胸の奥で再び、沸騰するような熱い拍動が跳ね上がった。チョーカーがジリジリと火花を散らし、首筋に鋭い警告の痛みを走らせる。
ブラッドはそれを噛み殺し、顔を上げた。
視線の先には、無数の依頼書がピンで留められた、巨大な木製の掲示板。
そこには、血の匂いと、金の匂い、そして己の人間性を捨て去るための、次なる死線が待っていた。




