第1話:血の渇きと、欲望の港
――そこは、世界のあらゆる欲望と、生臭い潮の匂いが煮こごりになったような街だった。
自由都市連合アルカディアの玄関口、港町「グランポート」。
三日三晩、揺られ続けた薄汚れた連絡船のタラップを降りた瞬間、ブラッドの鼻腔を突き刺したのは、むっとするような熱気と、腐りかけた魚介、そして何百もの人間が吐き出す息が混ざり合った、特有の饐えた臭気だった。
空を仰げば、東方の祖国では見たこともないような巨大な三本マストの交易船が、何十隻も岸壁に腹を並べている。
クレーン代わりの巨大な魔導滑車が、キィキィと耳障りな金属音を立てて異国の香辛料や鉱石の詰まった木箱を吊り上げ、肌を焦がすような太陽の下、上半身裸の荒くれ者たちが汗を飛び散らせながら、怒号のような声を掛け合ってそれを荷馬車へと積み込んでいく。
「どいたどいた! 命が惜しくねえ奴は、その細い足を馬車に轢かせな!」
荒々しい御者の怒声に、ブラッドは無言で黒いロングコートの裾を翻し、路傍へと身をかわした。
彼が歩く一歩ごとに、背に負った対の双剣――『血喰双刃』が、コートの内側で微かに硬い音を立てる。
周囲の人間は、誰もがこの暴力的な活気に満ちた港の熱に浮かされていた。
だが、ブラッドの周囲だけは、まるでぽっかりと夜の闇が取り残されたかのように、冷徹な静寂が張り付いている。
岸壁を抜け、市街地へと続く大通りに足を踏み入れると、喧騒はさらにその密度を増した。
道の両側には、ひしめき合うようにして色とりどりの天幕を張った露店が並んでいる。
ある店では、氷を敷き詰めた木箱の上に、まだエラをピクピクと動かす、見たこともない斑模様の怪魚や、手のひらほどもある大振りの牡蠣が山積みにされ、店主が包丁の背でまな板を叩きながら客を呼び込んでいる。
その隣では、南方の砂漠王国から運ばれてきたという、燃えるような緋色や黄金色の香辛料が麻袋から溢れんばかりに盛られ、風が吹くたびに目を灼くような辛辣な香りを通りに撒き散らしていた。
「おい、そこの黒コートの兄ちゃん! いい出汁の出たクラーケンの串焼きはどうだ? 一本銅貨二枚でいいぜ!」
「東方の珍しい絹織物だよ! 貴族の奥方へのお土産にいかがかい!」
せわしなく飛び交う商人たちのダミ声。すれ違う人々もまた、雑多の一言に尽きた。
仕立てのいい絹の衣服を纏った肥満体の商人、腰に安物の曲刀をぶら下げた私掠船の船乗り、中には犬や猫の耳をぴくつかせた獣人の姿もある。
誰もが生きるためにギラギラとした目を輝かせ、他人の財布から金を毟り取ろうと躍起になっている。この街において、無防備でいることは死を意味していた。
(生ぬるいな――)
ブラッドは、押し寄せる人波を肩でいなしながら、心の中で冷酷に呟いた。
これほど多くの人間が笑い、怒り、飯を喰うために呼吸をしている。300年前に、ただ一人の魔族によって一晩で消し去られた己の祖国の、あの静まり返った血の海に比べれば、この賑わいは滑稽なほどに脆い砂上の楼閣に見えた。
「――ドク、ク……」
不意に、胸の奥がドクンと嫌な拍動を刻んだ。
全身の血液が急激に熱を帯び、首元のはめ込み式チョーカーが、皮膚をチリチリと灼くような微弱な魔力を放ち始める。
人混みの放つ「生命の熱量」に、体内の呪われた魔族の血が、破壊の衝動となって共鳴しかけているのだ。
ブラッドは深く息を吐き、左手で硬く巻かれた腕のバンデージを上から強く圧迫した。痛覚で意識を強引に引き戻す。ここで暴走すれば、この平和な市場は一瞬にして肉片の散らばる地獄へと変わる。
「まだだ。まだ、俺の血はこんな場所で流せない」
呪詛のような呟きは、隣を通り過ぎた商人の笑い声にかき消された。
通りをさらに進むと、徐々に街の「陰」の側面が顔を覗かせ始める。
まばゆい大通りのすぐ脇には、大人が一人やっと通れるほどの、陽の光が一切届かない薄暗い路地裏が網の目のように広がっていた。
そこからは、ドブ水の臭気とともに、行き場をなくした浮浪者や、濁った目をした密売人たちの視線が、獲物を値踏みするようにブラッドの背中に突き刺さる。
表向きは自由と交易の都。だがその実態は、商会と裏社会が複雑に癒着した、弱肉強食の濁流だ。
やがて、目的の建物がブラッドの視界に現れた。
市場の喧騒がやや落ち着いた、石造りの古い区画。
そこに建つのは、周囲のどの商店よりも頑強で、まるで城塞のような佇まいを見せる三階建ての石造りの巨構だった。
黒ずんだ外壁には、幾多の怪物たちの爪痕や、魔法による焦げ跡が、あえて修復されずにそのまま残されている。それが、この建物の持つ「歴史」と「武力」を何よりも雄弁に物語っていた。
正面の重厚なオーク材の扉の上には、鉄で鋳造された一対の紋章が掲げられている。
――交差する二本の剣と、それを囲むように配置された、生々しい傷跡を持つ大盾。
アルカディア冒険者同盟、グランポート支部。
命の値段を金貨に換え、神の秩序からも国家の法律からも半分ドロップアウトした命知らずたちが集う、亡霊の巣窟。
ブラッドは建物の前で一度足を止め、背の双剣の位置を確かめるように肩を揺らした。
これから向かうのは、英雄への階段などではない。
ただ、己の寿命を削り、一族の仇である血皇ヴァルザークの首へと近づくための、血塗られた這いずり回りの第一歩だ。
青年は、手垢と無数の冒険者たちの汗で黒ずんだ大きなドアノブに、バンデージに覆われた手をかけた。
ギィ、と重苦しい音を立てて、運命の扉が開く。
内側から溢れ出してきたのは、安酒と、硝煙、そして――これから始まる、死の匂いだった。




