プロローグ
――その夜、世界は文字通り、緋色に溶けていた。
東方の最果てに佇む島国。昼間までは美しく咲き誇っていたはずの彼岸花も、燃えるような紅葉も、今や大地を埋め尽くす夥しい死骸が流した、生暖かい血の海に没している。
鼻腔を突き刺すのは、内臓が焼ける悍しい臭気と、強烈な鉄錆の匂い。
「滑貢献だな。人間という生き物は、これほど容易く、等しく赤い液体を流す」
頭上から、鼓膜を凍らせるような声が降ってきた。
天を覆う黒雲の隙間、凍てつく月を背に立っていたのは、男の形をした「厄災」
――第六魔将、血皇ヴァルザーク。
彼が白磁のような指先をかすかに震わせる。それだけで、泥に塗れた無数の死体から、どす黒い血が意志を持つ蛇のように這い出し、虚空へと吸い上げられていった。空中に吸着し、巨大化していく血液の球体は、まるで国を呪うもう一つの太陽のように狂おしく拍動している。
「防衛線を死守せよ! 皇子を……未来を、一人でも遠くへ逃がすのだ!」
絶叫が響く。だが、一族の精鋭たちが誇りとした白銀の鎧は、ヴァルザークが放つ「呪血の針」に紙のように穿たれ、次の瞬間には、体内の血が沸騰して内側から破裂していった。
肉を裂く音。骨が砕ける音。悲鳴すら上げる間もなく、命がただの肉塊へと変わっていく。圧倒的な「個」の蹂躙を前に、人間の命はあまりにも軽すぎた。
「おのれ……おのれ、化け物め……!」
本陣の奥深く、引き裂かれた同胞の肉塊に腰掛けた一族の長老は、血に濡れた手で一本の禍々しい器を握りしめていた。
器の中に満ちているのは、先ほど命と引き換えに討ち取った高等魔族の、どす黒く脈打つ心臓の血だ。
魔族の血を取り込む。それは魂を汚し、理性を捨て、人間であることを辞めるに等しい禁忌。しかし、掠り傷一つ付けられぬ絶対的な絶望を前に、彼らにはもう、魂の純潔を誇る余裕など残されてはいなかった。
「我が血の同胞よ、聞け。我らは今日、人たる道を捨てる」
長老の呪詛に満ちた声が、生き残った僅かな戦士たちの胸を打つ。
「奴らの血を啜り、奴らの魔を喰らい、この身を呪いの器とせよ! 緋の国を滅ぼした怨嗟の記憶、末代に至るまでその血脈に刻み込め!」
ゴクリ、と長老が魔族の血を飲み干した。
直後、彼の全身の血管がどす黒く浮き上がり、眼球が割れんばかりに血走る。
――ミシ、ミシ、ミシ。
肉が裂け、骨が軋む激痛の中、皮膚の裂け目から溢れ出た血が、まるで生き物のように己の腕に巻き付き、一本の「血の刃」へと変貌していく。
肉体を内側から焼き焦がすような熱量。脳髄を直接掻き回すような暴走の衝動。
それこそが、憎しみと絶望の最果てに産み落とされた禁忌の技――『血気術』の誕生だった。
「おおおおおおお!」
異形へと成り果てた戦士たちが、自らの命を、血液を燃料として爆発させ、地を蹴った。
使えば使うほど、確実に自らの死へと近づく自滅の刃。だが、死に物狂いの一閃は確かに、これまで無傷だったヴァルザークの頬を浅く切り裂いた。
一滴の、黒い血がヴァルザークの頬を伝う。
魔将は、自らの指先でそれを拭うと、酷く退屈そうに、しかし愉快そうに口元を歪めた。
「ほう。我らの血を混ぜて、ようやくその程度か。面白い。だが、身の程を知れ、羽虫ども」
それが、緋の国の最後の記憶。
激昂した血皇の怒りは、一晩で島国を文字通り地図から消し去った。大地は引き裂かれ、生きとし生けるものはすべて肉塊へと変えられた。
生き残ったのは、わずかに「魔族の血」を濃く引き継ぎ、呪いを受け入れた一族の、ほんの一握りの子供たちだけだった。
――◇――
――300年後。
喧騒と活気に満ちた港町「グランポート」。その光から取り残された、薄暗い路地裏。
レンガの壁に背を預け、一人の青年が激しく肩を上下させていた。
「……ハァ、ハァ……、くそ、書くな……!」
ブラッドはバンデージに覆われた己の手で、強く胸元を掻きむしった。
ドク、ドク、ドク、と不快なほどに激しい心音が、首元の鈍色に光るチョーカーを揺らす。全身の血液が、まるで沸騰した湯のように熱い。戦ってもいないのに、身体の奥底から「すべてを破壊せよ」という悍ましい本能が、脳髄を内側から突き刺してくる。
黒を基調とした、擦り切れたロングコート。その内側に縫い込まれた魔術回路が、彼の暴走を抑え込もうと、鈍い光を放ちながら皮膚をジリジリと灼いていた。
――血気術の暴走。
戦うたびに彼を化け物へと近づける、死のカウントダウンが、今も確実に彼の命を削り取っている。
「まだだ……まだ、俺の心臓は止まれない……」
ブラッドは、背に背負った対の双剣の柄に、触れるか触れないかの手で指をかけた。
刃の表面に刻まれた不気味な溝――ブラッドチャネルが、主の飢餓感に呼応するように、かすかに鳴いた気がした。
彼の瞳に宿るのは、未来への希望でも、生きることへの執着でもない。ただ一つ、己の国を滅ぼし、この身体に呪いを刻み込んだ男――血皇ヴァルザークへの、決して消えることのない漆黒の憎悪だけ。
「待っていろ、ヴァルザーク。この血が枯れ果てる前に、必ずお前の首を――」
青年は、自らの人間性を削り落とす復讐の旅路へ向かうべく、大勢の人間が行き交う、まばゆい市場の雑踏へと足を踏み入れた。
血は宿命を刻む。
だが、何のためにその血を流すかは、自分で決められる。




