第35話:密室の境界線、揺れる旅
翌朝、グランポートを包む朝霧は、海からの冷たい風に吹かれて白く揺れていた。
ギルド裏手の馬場には、ミレイアが手配した、冒険者同盟公式の紋章が刻まれた堅牢な幌馬車が、静かに夜明けを待っていた。
御者台には、ギルドが信頼を寄せるベテランの御者、ヨハンがすでに座り、手綱を握っている。
「……本当に行くのね、あなたたち」
見送りに現れたミレイアは、いつもの気の強さは鳴りを潜め、どこか寂しげな、けれど決意を秘めた瞳でブラッドとリーネを見つめていた。
その隣には、偏屈なドワーフ職人、オルセンが、煤にまみれた腕を組んで不機嫌そうに立っている。
「くだらん未練を口にするな。約束通り、火種は首都へ届けてやる。……さっさと終わらせて、俺たちは自由に生きる」
トクン――。
ブラッドはぶっきらぼうに吐き捨て、ポケットに手を突っ込んで顔を背けた。
言葉は冷淡だ。けれど、彼の胸の奥で、ドクン、と少しだけ重く、名残惜しいかのような心音が跳ね上がったのを、リーネは血契の繋がりを通じて感じ取っていた。
(あ……。ブラッドさんも、本当は……)
リーネは小さく胸を弾ませ、彼に気付かれないように、そっと口元を綻ばせた。
「ミレイアさん。本当に、何から何まで……ありがとうございました。私、この街でのことは、一生忘れません」
「ふふ、リーネ。そんなに深刻な顔をしないで。あなたなら大丈夫よ。新しい装備だって、オルセンさんが命を削って仕上げたんだから」
「ふん。お嬢ちゃん、その胸当てを傷つけでもしたら、地の果てまで追いかけてぶっ殺してやるからな。……あと、そっちのバケモノ」
オルセンはブラッドを睨みつけ、汚れた手で自身の顎髭を弄った。
「そのお嬢ちゃんの魔力、これからもっと暴れるかもしれねえ。お前さんの血だか何だか知らねえが、しっかり制御してやれよ。……死ぬんじゃねえぞ」
「……うるさい。爺こそ、酒の飲みすぎでくたばるなよ」
「はっ! 誰がくたばるか! ……行くぞ!」
ブラッドはふいっと背を向け、先に馬車の荷台へと飛び乗った。リーネはもう一度、ミレイアとオルセンに深く頭を下げ、オルセンが用意してくれた足場を使って、馬車の中へと滑り込んだ。
「よし、出発だ! ハッ!」
ヨハンの掛け声とともに、馬車がガタゴトと揺れ、ゆっくりと動き出した。
グランポートの石畳を離れ、街道へと差し掛かる。朝霧の向こうに、自分たちを守り、導いてくれた始まりの街が、少しずつ小さくなっていくのを、リーネは幌馬車の後ろの隙間から、いつまでもいつまでも、見つめ続けていた。
グランポートを立ち、アルノヴァへと続く『大河の街道』は、アルカディア連合の主要な交易路の一つだ。
ガタゴトと、絶え間なく揺れる馬車。幌に包まれた荷台の内部は、外の喧騒が遮断された、暗く狭い密室空間だった。
リーネは、自分の膝元にある金属製の小さな箱に視線を落とした。
厳重に魔導封印が施された、海王種の魔核の一部。この国中を揺るがす火種が、今、自分と彼の間に置かれている。
箱を挟んで向かい合って座っているブラッドは、300年前から伝わる不気味な黒みを帯びた双刃を膝に置き、常に周囲の殺気や魔力を警戒して張り詰めていた。使えば使うほど、戦場で血を吸うほどにその威力を増していくという呪われた業物。
ブラッドはその漆黒の柄にそっと指をかけ、一瞬たりとも油断を見せない。
ドクン、ドクン、ドクン――。
ブラッドの、張り詰めた、鋭い緊張の心音が、血契の繋がりを通じてリーネの胸の奥へ直接流れ込んでくる。
具体的な思考は聞こえない。けれど、彼が今、どれほど周囲の気配を警戒し、いつ襲撃されてもいいように体内の血気を練り上げているのかが、その刺すような魂の波長から伝わってきた。
(ブラッドさん……すごく、緊張してる……)
リーネも、自然と身体が硬くなった。新装備『聖闇の法衣』によって魔力は安定しているものの、この箱を狙う敵がいつ現れるか分からない。
その緊張が、今度はブラッドの胸の奥へ還っていった。
お互いの緊張が、心音を通じて増幅し合い、密室の空気は、張り詰めた一本の糸のようになった。
どちらも言葉を発しない。ただ、馬車の揺れと、お互いのドクン、ドクンという、同期した速い心音だけが、暗闇の中で重なり合っていた。
何時間、その緊張に耐えていただろうか。
急に、馬車が大きく跳ね上がった。街道の急な段差に、ヨハンが手綱を強く引いたのだ。
「――っ!?」
身体が宙に浮くほどの衝撃。
リーネの身体が、馬車の大きな揺れに耐えきれず、箱を挟んで向かいのブラッドの方へ大きく傾いた。
「おい、何を――」
ブラッドの声。
だが、その声よりも先に、二人の身体は、暗闇の中で触れ合っていた。
リーネの纏う白銀の胸当てが、ブラッドの硬い肩に軽くぶつかる。
それと同時に、リーネの手が無意識のうちにブラッドの腕を掴み、彼もまた、リーネを支えようと、その腰へ手を回していた。
トクン、と鳴った心音は、果たしてどちらのものだったか。
「……っ!」
「……っ!」
具体的な言葉は聞こえない。
けれど、その触れ合った瞬間、二人の胸の奥で、爆発的な感情の波長がシンクロした。
ブラッドの魂からは、「無防備に近づかれた気恥ずかしさと、それを隠そうとする苛立ち、あるいは……ほんの少しの、予期せぬ心地よさ」のような、酷く混沌とした波長。
リーネの魂からは、「申し訳なさと、触れられた部分への、初々しい、爆発的な胸の高鳴り」という、真っ赤に染まった波長。
言葉の会話など、必要なかった。
お互いの考えている「焦れったい本音」が、血契を通じて、あまりにも鮮烈に、ダイレクトに伝わってしまったのだから。
二人は慌てて、弾かれたように身を引き、お互いの座席へと戻った。
幌馬車の暗闇。リーネは顔を真っ赤に染め、黒い袖口で顔を隠すように俯いた。ブラッドも慌てたように腕を組み直し、ふいっと顔を背けたが、その心音は、いつもの冷静さからは程遠いほどに、激しく、不自然に脈打っている。
「……ふん。警戒を怠るなと言ったはずだ、クソ聖女」
ブラッドは冷酷な声を絞り出したが、その声は微かに震えていた。
「す、すみませんっ……! 段差が……」
リーネの声も、完全に上ずっている。
お互いの心音が、密室の中で、トクン、トクン、トクン、トクンと、不器用に、けれど完璧な同期を保ったまま、鳴り響き続けていた。
「……チッ、本当に、鬱陶しいな」
ブラッドは心の中でそう毒づき、手の甲の紋章を包帯越しに強く握りしめた。だが、その苛立ちさえも、リーネには心地よい甘酸っぱさとして伝わってしまい、彼女は俯いたまま、さらに赤くなった耳を隠そうとする。
そんな焦れったい、言葉のない境界線が溶け合うような空気のまま。
馬車はガタゴトと、揺れる旅路を、アルカディア連合の中心、首都アルノヴァへと向かって、進み続けるのだった。
港町グランポート編はこちらで終わりになります。




