第34話:白銀の資格、昏き首都へ
AA級魔獣『潮汐の暴君』が光の塵となって消え去り、静寂が戻った洞窟。
リーネは、自分の胸元で鈍い白銀の光を放つ胸当てにそっと手を置いた。
体内の魔力はほとんど底を突きかけており、全身に酷い疲労感がまとわりついている。
だが、昨日までのように内側から肉体が焼き切れるような狂暴な熱はない。オルセンの仕立てた『聖闇の法衣』は、彼女の消耗を最小限に抑え、その身を完璧に守り抜いていた。
「はぁ、はぁ……」
荒い息を吐きながら、リーネは数歩先で双刃を収めたブラッドを見つめた。
彼の身体からも、新技『血鎖』によるダメージ共有の反動と、『血界展開』による出血の疲弊が伝わってくる。言葉が聞こえるわけではない。
けれど、彼が今、どれほど身体の奥で痛みに耐え、同時に、この初陣の勝利に冷ややかな満足感を覚えているのかが、血契の繋がりを通して心地よい微熱のように伝わってきた。
「歩けるか、クソ聖女」
ブラッドは振り返りもせず、いつも通りのぶっきらぼうな声で言った。ポケットに手を突っ込み、先に歩き出そうとするその後ろ姿。
「はい……。少し、びっくりしましたが、大丈夫です」
リーネは小さく微笑み、彼の不器用な気遣いを魂で受け止めながら、その背中を追って歩き出した。二人の歩調は、朝霧が晴れ始めたグランポートの街並みへと戻っていく。
昼下がりの冒険者ギルド・グランポート支部は、いつも通りの騒がしさに包まれていた。
だが、二人が重い鉄扉を押し開けて中に入った瞬間、その喧騒がぴたりと止んだ。
「おい、あれ……」
「今朝、ミレイアの姉御からAA級の緊急依頼をひったくっていった奴らだろ?」
「まさか、もう帰ってきたのか? 荷物もまとめずに命からがら逃げ帰ってきたんじゃねえのかよ」
並み居る冒険者たちの猜疑の視線が、二人へと突き刺さる。
しかし、その視線はすぐに、リーネの纏う白銀と漆黒の法衣、そして二人の全身から漂う、圧倒的な『死線を超えてきた者』特有の濃密な闘気に圧せられ、次々と逸らされていった。
「お疲れ様。……その様子だと、無事に片付いたみたいね」
受付の奥で書類をめくっていたミレイアが、顔を上げて二人を迎え入れた。その丸い瞳には、驚きと、どこか深い安朵の色が混ざり合っている。
「手こずらせやがって。ボスの余り物の分際でな」
ブラッドは懐から、暴君の討伐証明部位である『青銀の不壊鱗』を机の上に無造作に放り出した。
その鱗が放つ強大な魔力の残滓に、周囲の冒険者たちが「嘘だろ……本当にAA級を……」と息を呑むのが分かった。
「確かに、潮汐の暴君の討伐を確認したわ。これでグランポートの交易路の安全は確保された。……はい、これ、あなたたちのギルドプレートを出して」
ミレイアが真剣な表情で手を差し出す。ブラッドとリーネがそれぞれのプレートを差し出すと、ミレイアはそれを受け取り、受付の奥にある魔導刻印機へとセットした。
ガシャリ、と重い金属音が響き、プレートに新たなる魔力の光が刻まれる。
「古代の主(海王種)の討伐、そして今回のAA級魔獣の迅速な処理。本来なら本部の厳重な審査が必要なレベルだけど、グランポート支部長の特権として、今ここであなたたちのランク更新を執行します」
ミレイアから返されたプレートは、鈍い、けれど確かな風格を持つ『青銅から銀鉄』の色へと変貌を遂げていた。
「――おめでとう。二人は今日から、正式な**『Bランク冒険者』**よ。この地方の支部が出せる、最高の上位ランクね」
周囲の冒険者たちから、どよめきどころではない、地鳴りのような驚愕の声が上がった。
つい先日登録したばかりの、素性も知れない流れ者が、一気に中堅以上の証であるBランクへ上り詰めたのだ。
だが、ブラッドは自分のBランクプレートを指先で弄びながら、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
「報酬の話はここまで。ブラッド、リーネ。ちょっと奥の部屋へ来て。ギルド長が待ってるわ」
ミレイアは金を渡した手を離さず、声を一段と低くした。その真剣な眼差しに、ブラッドは僅かに眉を寄せた。
彼の胸の奥で、警戒の心音が跳ね上がる。それに同期するように、リーネの胸の奥にも「ただ事ではない」という緊張の波長が伝わってきた。
ギルドの最奥にある、重厚なオークの扉で仕切られたギルド長室。
部屋の中には、パイプの煙を燻らせた初老の男――グランポート支部を統括するギルド長が、難しい顔をして机の上の書類を睨みつけていた。ミレイアが二人を室内に招き入れ、静かに扉を閉める。
「座れ、と言いたいところだが、お前たちにその時間はないかもしれんな」
ギルド長はパイプを灰皿に叩きつけ、濁った、けれど鋭い眼光をブラッドへと向けた。
「単刀直入に言おう。お前たち、上に目を付けられた」
「上、だと?」
ブラッドは腕を組み、不機嫌そうに声を低めた。
「自由都市連合アルカディアの『商人評議会』、実質的な国のトップどもと、アルノヴァにある冒険者同盟の本部だ。……ブラッド、お前が海底神殿で海王種を討伐した件、すでに首都にまで情報が跳ね上がっている。国家を脅かすレベルの化け物が、名もない流れ者に討たれたんだ。上が動かないはずがないだろう」
ギルド長の言葉に、リーネは小さく息を呑んだ。
この国は、商人ギルド、貴族、裏社会が複雑に絡み合う権力の巣窟だ。
「神話級の魔獣が遺す素材、そして『魔核』。それがどれほどの利権を生むか、お前なら分かるはずだ。すでにアルノヴァの強欲な貴族どもや、大商人ギルドの息がかかった高ランク冒険者たちが、その利権をお前たちから毟り取ろうと、動き始めている。このままここにいれば、遠からず裏社会の暗殺者がお前たちの寝首を掻きにくるぞ」
ブラッドの胸の奥から、リーネを守ろうとするような、酷く鋭利で攻撃的な闘気の波長が立ち上る。
言葉には出さずとも、ブラッドの「指一本触れさせてたまるか」という剥き出しの意思が、血契を通じて彼女の心を強く叩いた。
「じゃあ、どうする。この街を出て、野垂れ死ねとでも言うつもりか」
ブラッドの冷徹な問いに、これまで沈黙を守っていたミレイアが一歩前に出た。
「だから、これをあなたたちに託したいの。今、Bランクになったばかりのあなたたちにしか、受ける資格がない依頼よ」
ミレイアが机の上に置いたのは、最高警戒を示す赤い極印が押された、厳重に魔導封印が施された金属製の小さな箱だった。
箱の隙間から、海底神殿で感じたあの圧倒的な海の魔力が、微かに漏れ出ている。
「これは、海底神殿の主から採取された『海王種の魔核』の一部。これを、アルノヴァの冒険者同盟本部へ直接届ける、Bランク以上限定の特級護送依頼を受けてほしいの」
「護送だと? 狙われていると分かっていて、わざわざその火種を持って、敵の本拠地であるアルノヴァへ行けと言うのか」
「逆よ、ブラッド」
ミレイアは真っ直ぐにブラッドの黒い瞳を見つめ返した。
「ここにいれば、あなたたちは公的な保護を受けられないまま、私的な権力者に潰される。でも、ギルド本部の最高公式依頼として『魔核』を護送している間は、連合の法律上、いかなる貴族も大商人もの手出しはできない。ギルドの正当な『盾』のなかに隠れるのよ。それに、アルノヴァの本部へ行けば、良くも悪くも全ての勢力の目があなたたちに集まる。誰もコソコソと暗殺なんてできなくなるわ」
「つまり、堂々と表舞台にしゃしゃり出て、全ての弾除けになれってことだな」
「そう。そして、本部できっちりとあなたたちの実力を認めさせて、正式な高ランク冒険者としての地位を確立するの。そうなれば、誰もあなたたちを無下に扱えなくなる。……あなたたちが、この理不尽な国で自由に生きるための、これが唯一の切符よ」
ミレイアの言葉には、確かな打算と、それ以上に、二人をこの街で死なせたくないという、彼女なりの強い情と配慮が詰まっていた。
部屋のなかに、重苦しい沈黙が流れる。
ブラッドは腕を組んだまま、じっと金属の箱を見つめていた。
その脳裏で、これからの面倒な旅路への苛立ちと、しかしリーネの安全を確保するためにはこれ以上の選択肢がないという冷徹な計算が、複雑に交錯している。
言葉は聞こえない。けれど、リーネには分かった。ブラッドが今、自分のために、その危険な火種を引き受けようとしていることが。
「……ブラッドさん」
リーネはそっと口を開き、彼の横顔を見上げた。
「私は、どこへでもついて行きます。アルノヴァへ行って、その依頼を果たしましょう。今の私なら……あなたの『盾』として、その火種を一緒に守れます」
白銀の胸当てに手を当て、真っ直ぐな瞳で告げるリーネ。
その光の波長が血契を伝って流れ込み、ブラッドの心音を静かに落ち着かせた。
ブラッドは小さく溜息をつき、ポケットから手を抜くと、机の上の金属箱を乱暴にひったくった。
「チッ……本当に、押し付けがましいギルドだ。いいだろう、その依頼、引き受けてやる」
ブラッドは不敵に唇を歪め、ミレイアを睨みつけた。
「海王種の魔核だろうが何だろうが、アルノヴァの本部まで無傷で届けてやるよ。その代わり、報酬は色をつけてもらうからな」
「ええ、もちろんよ。期待してるわ、私たちの街を救ってくれた、新しい『Bランク』の亡霊さんたち」
ミレイアはそう言って、ようやくいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
始まりの港町グランポートを離れ、十の都市国家が陰謀を巡らせるアルカディアの中心、首都アルノヴァへ。二人の新たなる、そしてさらに過酷な旅路の歯車が、静かに回り始めるのだった。




