第33話:潮汐の暴君(タイダル・レイジ)
グランポートの北方にそびえ立つ『霧鳴りの断崖』は、その名の通り、絶え間なく打ち寄せる激浪と、濃密な潮霧が牙のように絡み合う険所だった。
かつて海底神殿を支配していた『古代の主』が倒れたことで、海の魔力循環は完全に崩壊し、行き場を失った莫大なエネルギーがこの断崖の洞窟へと流れ込んでいる。
「……いたぞ。あれがミレイアの言っていた、おこぼれの化け物か」
洞窟の奥、暗い横穴を抜けた先には、広大な地下空洞が広がっていた。波飛沫が激しく吹き荒れるその中心で、それは傲然と鎌首をもたげていた。
深海の青をそのまま結晶化させたような、硬質な鱗。大蛇のようでありながら、無数の触手と鋭利なヒレを持つ巨体。
AA級魔獣『潮汐の暴君』。
海底神殿の異変から逃れ、暴走した魔力を喰らい尽くしたその怪物は、二人の侵入を察知した瞬間、洞窟全体を震わせるほどの咆哮をあげた。
「ブラッドさん、来ます……!」
リーネの鋭い警告の声と同時に、暴君の周囲に浮かぶ無数の水の塊が、鋭利な槍となって一斉に射出された。
常人であれば一瞬で肉片に変える水の濁流。だが、リーネの動きに迷いはなかった。オルセンの仕立てた白銀の胸当てが、彼女の意思に呼応して眩い光を放つ。
「『プリズム・シェル』――っ!」
展開されたのは、これまでとは比較にならないほどに分厚く、強固な多面体の結界。
白銀の装甲と魔導シルクの法衣が、リーネの暴走寸前だった聖闇の魔力を完全に制御し、一点の淀みもない絶対の盾へと昇華させていた。
轟音を立てて弾け飛ぶ水の槍。その硝子のような破片が飛び散る中を、黒い影がすでに地を蹴って疾走していた。
「ふん、上等だ……!」
ブラッドは地を這うような低姿勢から、一気に距離を詰める。手の甲の『血契の紋章』が、戦いへの昂ぶりによってドクドクと熱を帯びていく。
その熱は、血契の繋がりを通じてリーネの胸の奥へと流れ込んだ。
(あ……ブラッドさん、行く気だ!)
言葉はなくとも、彼が今、どのタイミングで、どの角度から踏み込もうとしているのかが、魂の波長となってリーネの頭へ滑り込んでくる。
予測ではない。魂が直感している。だからこそ、リーネのサポートは神速だった。
暴君がその巨躯を唸らせ、ブラッドを叩き潰そうと凶悪な尾を振り下ろす。その軌道上へ、リーネは詠唱すら挟まずに『トワイライト・シールド』を先回りして展開した。
ズゥンッ! と重い衝撃音が響き、暴君の尾が闇の盾に阻まれて強烈に鈍化する。
「ナイスだ、リーネ!」
ブラッドの双刃が、変質した自身の血を纏って赤黒く膨れ上がる。
『血刃生成』。跳ね上がった切断力が、無防備に晒された暴君の横腹を深く切り裂いた。青い魔獣の血が激しく飛び散る。
だが、相手はAA級の化け物だ。肉を断たれた痛みへの怒りから、暴君の周囲の海水が逆巻き、洞窟全体を飲み込むような大津波となって二人へ襲いかかった。距離がある。避ける隙はない。
「逃がさねえよ。――『血鎖』!」
ブラッドが叫ぶと同時に、切り裂いたボスの傷口から、彼の血で編まれた赤黒い「鎖」が飛び出し、暴君の肉体へと強固に接続された。
一瞬の後、ブラッドの身体が津波の範囲から逃れるように、鎖に引かれて暴君の懐へと弾丸のように飛び込んでいく。
「が、はっ……!?」
しかし、同時にブラッドの口から鮮血が吐き出された。『血鎖』の代償――接続している間、敵に与えた、あるいは敵が受けたダメージの一部が、術者であるブラッド自身の肉体にも跳ね返ってくる。
内臓を直接殴られたような激痛に、ブラッドの魂の波長が激しく乱れ、悲鳴をあげる。
(しまっ――)
その激しい苦痛の波形は、血契の鎖を伝って瞬時にリーネへ届いた。
驚きで目を見開いたリーネだったが、その身体は思考より先に動いていた。
「『ペイン・イーター』……!」
リーネの影が伸び、ブラッドの身体にまとわりつく。次の瞬間、ブラッドの肉体を苛んでいた激痛の半分が、リーネの身体へと移譲された。
「くっ……!」
小さな身体を襲う、焼けるような痛み。けれど、新装備に守られた今のリーネは、その程度の痛みで膝を折るほど弱くはない。むしろ、彼と痛みを分かち合っているという事実が、彼女の覚悟をよりいっそう強固なものにしていた。
「……チッ、余計な真似を……!」
痛みが劇的に和らいだブラッドは、悪態をつきながらも、その瞳に狂暴な歓喜の光を宿した。
背後を振り返る必要はない。自分の痛みを払い、背中を預けられる『盾』がそこにいる。その絶対的な確信が、彼に限界を超えた無茶を許していた。
「だったら、一気に畳み込むぞ! 『血界展開』!!」
ブラッドの口から、さらに自身の血が霧状になって吹き出され、瞬く間に暴君の周囲一帯を赤黒い霧で満たしていく。
領域内において、ブラッドの感知能力と速度は爆発的に跳ね上がる。だが、それだけではAA級の機動力を完全に圧倒するには至らない。
だからこそ、彼はここで、新境地の技を覚醒させる。
「――『血影歩』」
霧の中に点在する、自らの血痕。それを「足場」として、ブラッドの身体が質量を無視したかのように掻き消えた。
直後、暴君の視界の外――真上、真後ろ、死角という死角から、赤黒い斬撃が連続して炸裂する。シュパパパンッ! と肉を削ぐ不気味な音が洞窟内に木霊した。
暴君は悲鳴をあげ、自身の周囲に狂ったように水の嵐を巻き起こしてブラッドを振り払おうとする。
超高速のステップを踏みながら、ブラッドの心臓が限界を訴えて激しく脈打つ。
ドクン! ドクン! ドクン! ドクン!
限界に近いその心音は、リーネの胸の奥でも全く同じリズムで鳴り響いていた。
彼が今、どこに移動し、何をしようとしているのか。言葉の会話など必要ない。二人の魂は、戦場という極限状態の中で、完全に一つの歯車として噛み合っていた。
(ブラッドさんが、敵の動きを止める……。なら、私のすべきことは――!)
リーネは白銀の胸当てに両手を当て、体内の聖闇の魔力を極限まで練り上げた。
今まで、彼女は守るだけだった。彼が傷つくのを見ていることしかできなかった。けれど、今の自分には、彼と共に敵を穿つための、新たなる光がある。
「ブラッドさん、そこを動かないで……!!」
届いたのは言葉ではない。リーネの「今から最大火力を叩き込む」という強烈な意思の波長だった。
残像を残して動いていたブラッドは、その波長を鋭く察知すると、ニィッと凶悪に唇を歪めた。
「言われなくても、お膳立てしてやるよ……ッ!」
ブラッドは空中での『血影歩』から、暴君の脳頭めがけて急降下。両手の双刃を力任せに突き立て、未だ繋がっていた『血鎖』の出力を最大まで高めた。
「オオオオオッ!! 止まれぇ!!」
強引に鎖を引き絞り、己の肉体が軋むのも構わず、暴君の巨体を地面へと叩きつける。
ドゴォォォン!! という凄まじい地響きとともに、AA級魔獣の動きが、ほんの数秒間、完全に停止した。無防備な急所が、まっすぐにリーネの方へと晒される。
「いけ、リーネ!!」
ブラッドの咆哮に応じるように、リーネの前に、目も眩むような巨大な魔方陣が展開された。
白銀の輝きと、漆黒の闇が混ざり合う、混沌の光。彼女が展開し続けていた強固な防御結界が、その密度を極限まで増しながら、一本の巨大な、禍々しいほどの美しさを持つ「槍」へと形を変えていく。
「これで……貫きます! 『ジャッジメント・ランス』――ッ!!」
リーネの手が前方に突き出されると同時に、光と闇の混色を纏った槍が、轟音と共に放たれた。
それは空気を引き裂き、暴君が咄嗟に張った水の障壁をも紙切れのように容易く貫通した。凄まじい魔力の光条が、暴君の巨大な胸元へと一直線に突き刺さる。
一瞬の静寂。
次の瞬間、暴君の体内から、圧倒的な光と闇のエネルギーが爆発的に溢れ出た。
「ガ、アアアアアアアアアアアッ……!?」
断末魔の悲鳴をあげながら、AA級魔獣の巨体が、内側から消滅するように光の塵へと変わっていく。巻き起こっていた水の嵐が嘘のように引き、洞窟にはただ、激しい戦闘の余韻を告げる波飛沫だけが残された。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
魔力を使い果たし、その場にへたり込みそうになるリーネ。
そんな彼女の前に、足元をふらつかせながらも、ブラッドがゆっくりと歩み寄ってきた。彼の身体もまた、新技の反動とダメージの共有で満身創痍のはずだった。
けれど、二人の手の甲にある『血契の紋章』は、未だに心地よい熱を保ったまま、互いの無事を確かめ合うように脈打っている。
「……ふん。大口を叩くだけのことはある。見事な『盾』、いや……今の攻撃は、完全に『矛』だったな」
ブラッドはいつも通りの不機嫌そうな声を装いながらも、その切れ上がった瞳には、確かな信頼と、隠しきれない気恥ずかしさが混ざり合っていた。
言葉が届かないからこそ、彼のその「ぶっきらぼうな歓喜」が、ダイレクトにリーネの胸を弾ませる。
「はい……。ブラッドさんが、信じて止めてくれたからです」
リーネは白銀の胸当てに手を当て、少しだけ誇らしそうに、そして耳まで真っ赤にしながら微笑んだ。
言葉はなくとも、通じ合う心音。
二人の本当の初陣は、これ以上ない完全な勝利によって幕を閉じたのだった。




