第32話:白銀の殻、黒の法衣(後編)
翌朝、グランポートを包む朝霧は、海からの冷たい風に吹かれて白く揺れていた。
宿の一室で身支度を整えたリーネは、姿見の鏡の前に立ち、オルセンの工房から今朝早くに届けられたばかりの防具に、そっと手を触れた。
「これが……ブラッドさんの、おっしゃっていた……」
思わず、感嘆の吐息が漏れる。
鏡に映っていたのは、彼女が教国を追われて以来、ずっと身に纏い続けてきた「黒い法衣」――その胸元に、新たなる輝きを戴いた自身の姿だった。
深海に棲む魔獣の殻を削り出したという胸当ては、磨き上げられた大理石のような白銀の輝きを放ち、リーネがこれまで着込んでいた漆黒の布地の上で、鮮烈なコントラストを描いて主張している。
驚くほど軽いくせに、触れれば鋼をも弾き返さんとする絶対的な硬度が指先から伝わってきた。
前衛で暴れるブラッドの後ろを支え、その身を守るための『魔法の防壁(盾)』の役割を果たす彼女にとって、これ以上ないほど頼もしい防具だ。
さらにオルセンの手によって、リーネ自身の黒い法衣にも魔導シルクによる補強が施されており、袖を通しただけで、体内で渦巻いていたあの狂暴な魔力の奔流が、驚くほど滑らかに、かつ強固に肉体内へ収められていくのが分かる。
彼女自身が抱える深い闇の黒と、彼が買い与えてくれた絶対的な白銀の盾。
まるで、二人の魂の契約がそのまま形を成したかのような装いだった。
トクン――。
胸の奥で、静かな心音が一つ、微かに跳ね上がった。
部屋の扉の外、廊下で待っているブラッドの気配が、わずかに強くなったような気がする。言葉が聞こえるわけではない。ただ、彼の魂の波長がふっと変化したのが、血契の繋がりを通して、なんとなく伝わってきたのだ。
「……待たせてしまいましたね」
リーネは小さく深呼吸をし、意を決して扉を開けた。
廊下の壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じていたブラッドは、扉が開く音とともに、気怠げに視線を向け――物言わぬ黒い法衣に白銀の殻を乗せたリーネの姿に、その動きを完全に止めた。
「…………」
いつもなら「遅い」と吐き捨てるはずの男が、一言も発しない。
ただ、その切れ上がった黒い瞳が、自分の差し出した白銀に守られたリーネの姿を、じっと見つめていた。
「どう……でしょうか。あまり、似合っていませんか?」
リーネは少し不安になり、手の甲の紋章を隠すように黒い袖口を弄びながら、上目遣いにブラッドを見上げた。
彼女のその小さな緊張が、血契の境界線を越えてブラッドの胸の奥へ流れ込む。と同時に、ブラッドの胸の奥からも、ドクン、と大きく一度だけ、強い心音が響いてきた。
(あ……)
何を考えているかまでは分からない。けれど、ブラッドの魂の波長が今、言葉を失うほどに激しく揺れ動いたことだけは分かってしまう。
ブラッドは慌てたように腕を組み直し、ふいっと顔を背けた。
「……ふん。悪くない。ただの小汚い黒法衣から、少しは前線に立つ俺の盾らしい面構えになったな。オルセンの爺も、注文通りに仕上げたらしい」
言葉では酷く淡白に突き放す。けれど、その裏にある「なんとなくの動揺」が伝わってくるせいで、リーネの頬も一瞬で朱に染まった。
黒い法衣と白銀の胸当てだからこそ、彼女の肌の赤みがよりいっそう際立っていた。お互いにそれ以上は何も言えず、視線を逸らす。
「はい。とても軽くて、魔力も扱いやすいです。……行きましょう、ブラッドさん。ミレイアさんが待っています」
「ああ、さっさと終わらせるぞ」
二人は並んで宿を出て、朝霧の立ち込めるグランポートのギルドへと向かった。
朝のギルドは静まり返っていた。受付の奥、書類の山に囲まれていたミレイアは、二人が入ってきたことに気づくと、すぐに顔を上げて丸い目を見開いた。
「わあ……! リーネ、それ、オルセンさんのところの装備!? 凄く……雰囲気が変わったね。いつもの黒い法衣に、その白銀の胸当てが合わさって、なんていうか……凄くカッコいい。白と黒が、今のリーネにぴったり」
「ありがとうございます、ミレイアさん。本当に素晴らしい仕上がりです」
リーネが微笑むと、ミレイアはすぐに視線を隣のブラッドへと移し、いつものジト目を向けた。
「ふーん。やっぱり全額注ぎ込んだだけのことはあるわね。で? 隣のがめつい前衛さんは、その綺麗な『盾』に見惚れて依頼を忘れたりしてないでしょうね?」
「くだらん軽口を叩くな。約束通り、この街での最後の仕事を寄こせ。さっさと片付けて、次の目的地へ行く」
ブラッドは机に手を突き、冷酷な冒険者の顔に戻ってミレイアを睨みつけた。
ミレイアは「はいはい、相変わらず可愛げがないわね」と溜息をつきながら、引き出しから一枚の重厚な羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。その紙には、ギルドの最高警戒を示す赤い極印が押されている。
「茶化すのはここまで。……これ、あなたたちとの約束通り、グランポートで一番厄介な『残務』よ」
ミレイアの指が、羊皮紙に描かれた地図の一点――グランポートの北方に位置する『霧鳴りの断崖』を指し示した。
「あなたたちが海底神殿で『古代の主』を倒したでしょう? その影響で、海の魔力のバランスが急激に崩れたの。その結果、神殿の余波から逃れ出た上位の魔獣――『潮汐の暴君』が、崖の洞窟に逃げ込んで暴れ始めてるわ。放っておけば、グランポートの交易船が全滅する」
「ランクは」
「文句なしのAA級。本来なら高位のクランが束になって挑む案件よ。……でも、今のあなたたちなら、やれるでしょ?」
「ふん、上位の魔獣か。ボスの余り物の分際で、随分と大きな面をしてくれる」
ブラッドは不敵に唇を歪め、羊皮紙を乱暴にひったくった。
手の甲の包帯の下、隠された『血契の紋章』が、戦いの予感に反応して熱を帯びる。それに引っ張られるように、リーネの胸の奥でも「ブラッドがこれから戦おうとしている」という明確な戦闘の意思が、朧気なニュアンスとして伝わり、彼女の心拍も自然と高鳴っていった。
「いいだろう、その依頼、俺たちが引き受ける」
黒い法衣に、新たな白銀の殻を纏ったリーネと、その手を引くブラッド。
二人の本当の初陣が、ここから幕を開ける。




