第28話:初めての血契
深い闇の底、ブラッドの精神は苛立ちのなかにあった。
海底神殿の「古代の主」を討ち倒し、グランポートへ帰還するまでの記憶は朧気だ。
限界を超えた血気術の使用により、心臓は侵食され、全身の血管はズタズタに引き裂かれている。
だが、ブラッドに諦めの色は微塵もなかった。これまでも、これくらいの地獄は生身の執念だけで潜り抜けてきた。
死を恐れたことなどない。ただ、思うように動かない肉体と、血の編み直しの遅さに、闇の中でひたすら牙を剥いていた。
(……動け。さっさと繋がれ、俺の血よ)
彼は冷酷に、己の命の残滓を統御しようともがいていた。
かつて緋ノ国の書物で目にした、失われた秘術――『血契』。
相手と心身を深く結びつけることで、血気術を安定させ、枯渇した命を補完する絶対の契約。だが、それには『互いの同意』と『強い精神的絆(愛)』が必要だと記されていた。
(そんな綺麗事が、俺たちに通用するかよ……)
ブラッドは思考の隅で、それを冷笑する。
自分は魔族の血を宿した亡霊であり、隣にいるのは教国を追われた歪な聖女だ。
そんな二人に、魂の合意などあろうはずがない。だから最初からそんな手段には頼らない。生身の執念だけで、この底から這い上がる。それだけだ。
しかし、ブラッドが自力で抗っていたまさにその時、現実の側では、静寂が医務室を支配していた。
窓から差し込む淡い月光が、白いシーツを青白く照らしている。
漂うのは、気休めの回復薬草の苦い匂い。ギルドの医師による応急処置は終わっていたが、ブラッドの肉体は不浄ゆえに神聖な治療魔法を拒絶し、その呼吸は未だに浅く、冷たかった。
「……っ……、ブラッド、さん……」
隣のベッドで先に目を覚ましたリーネは、自身の魔力が枯渇し、体中が痛むのも忘れて、シーツを跳ね除けた。
頼りない足取りで彼のベッドへと歩み寄り、その痛々しい姿を見つめる。
教国で「無私慈悲」を叩き込まれ、他人のために祈ることを義務づけられてきたリーネ。
だが、目の前で横たわる男の命は、彼女のこれまでの生を根底から狂わせていた。
冷酷で、がめつくて、自分を道具のように扱う男。なのに、彼は自分のためにあの絶望的な激痛を買い受け、自分のために化物に刃を振るった。
トクン……、トクン……と、今にも消え入りそうなブラッドの心音。
それを耳にした瞬間、リーネの胸の奥で、激しい濁流が沸騰した。
(嫌……です。この人が消えるなんて、絶対に)
それは、聖女としての「救済の義務」などでは決してなかった。
もっと泥臭く、独善的で、おぞましいほどの執着。彼を失いたくない。この男の隣に、まだいたい。教国が「悪徳」と切り捨てるであろう、激しい個人的な欲求―
―『エゴ(愛)』。
理屈も、術式も、彼女は何も知らない。ただ、この男の命を自分の側に繋ぎ止めるための本能が、彼女の身体を突発的に突き動かした。
リーネは静かにブラッドの体に覆いかぶさるようにして、彼の、冷え切った唇へと、自らの唇を重ねた。
――っ
誰もいない医務室に、衣服の擦れる音と、静かな音が響く。
それはロマンチックな愛の告白などではない。言葉にできない強い想いを、ただ真っ直ぐにぶつけるための、聖女の皮を被った「強欲」だった。
その瞬間、ブラッドの昏い精神世界に、強烈な閃光が走った。
触れ合った唇を通して――否、触れ合った**『心』と『心』の境界**を通して。
リーネの魂の奥底にある、剥き出しの「生への執着」が、ブラッドの魂へとダイレクトに流れ込んできたのだ。
偽りのない、まっさらなリーネの心。
それを突きつけられたブラッドの魂が、一瞬の拒絶ののち、無意識のうちにそれを強烈に受け入れ、求めていた。
ドクン――!!!
二人の心が、深いところで完全に噛み合い、同意した。
魂の底で、カチリと音を立てて『血契』の頑丈な錠前が破壊される。物理的な血のやり取りなどではない。心が通じ合った、その『事実』に反応して、ブラッドの体内の血が、爆発的な生命力を伴って覚醒した。
心臓の侵食が急激に凪いでいく。暴走が抑えられ、回復力が上昇していく。
(ばかな……ッ! 『同意』だと……!? これが、あの女の『心』だというのか……!?)
ブラッドの目が、カッと見開かれた。
月光のなか、視界に飛び込んできたのは、驚いたように、けれどどこか呆然とした表情で唇を離す、リーネの濡れた瞳だった。
二人の袖の下、手の甲に、仄白い『紋章』がふわりと浮かび上がる。
そして――トクン、トクン、と。
二人の心拍が、静まり返った医務室の中で、完全に同じリズムで同期し始めた。
医務室を照らす青白い月光のなか、重なり合う心音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。
「あ……」
唇を離したリーネは、ベッドの上のブラッドを見つめたまま、自身の胸元を小さく押さえた。
驚きに目を見開いているのは、彼女も同じだった。
理屈も術式も知らず、ただ本能のままに重ねた唇。その瞬間から、枯渇して干からびかけていた彼女の魔力回路に、見たこともないほどの膨大な魔力が脈打ち、内側から溢れかえっていくのを感じていた。
魂の奥底が満たされるような、奇妙な心理的安心感。それと同時に、お互いの服の袖の隙間から、仄白い『紋章』が鮮やかに浮かび上がり、対となって怪しく発光している。
流石に、一瞬で全ての傷が消え去るような都合の良い奇跡は起きていない。
ブラッドの皮膚は未だ赤黒く鬱血しており、リーネの身体にも鉛のような重苦しい疲労が残っている。完全回復には程遠い。
だが、確実に、二人はあの絶対的な死の淵から、力強く引き戻されていた。
「お前……、今、何を……」
ブラッドの、地を這うような低い声が静寂を破る。
彼の脳裏には、緋ノ国の書物にあった一節が、警告のように大音量で鳴り響いていた。
『――血契。双方の同意、強い精神的絆、そして愛。それらが重なった時、第一段階の契約は成立する』
(ふざけるな……。あり得ん)
ブラッドは内心で、激しく毒づいた。
口ではどれだけ綺麗事だと否定しようとも、魂のシステムは嘘をつかない。
あの死線の最中、リーネの「失いたくない」という剥き出しの心に、自分自身の魂が確かに共鳴し、同意してしまった。
その決定的な事実が、ブラッドの冷徹さを激しく揺るがしていた。
「私は、ただ……」
リーネは掴まれた顎の熱を、そして自分の胸の奥でブラッドと同じリズムを刻む心音を意識した瞬間、急激に顔が熱くなるのを感じた。
教国で聖女としての教育しか受けてこなかった彼女にとって、これほど生々しく、他者と「心と心」が深く噛み合ってしまう経験など、あるはずがなかった。
言葉ではいくらでも言い訳ができる。盾の義務だ、勝手に死なれては困る、と。
けれど、この重なり合う心音と手の甲の紋章は、自分たちが魂の底で『合意』してしまった動かぬ証拠として、あまりにも雄弁に鳴り響いている。
自分の仕出かした事の、そしてこの契約の重さと気恥ずかしさに、リーネはたまらずブラッドから視線を逸らした。
「…………」
「…………」
怪異を打ち倒した英雄たちの部屋とは思えない、致命的で、居心地の悪い『気まずさ』が、医務室の空気の中にじっとりと広がっていく。
お互いに、絶対に目を合わせようとしない。
ブラッドは苦々しい顔で寝返りを打ち、リーネもまた、赤くなった耳を隠すようにして、逃げるように自分のベッドへと戻り、シーツを頭から被るのだった。




