第26話:痛みを喰らう聖女
万事休す。その絶望の淵で、倒れ込んだリーネが、血に濡れた手で強引にブラッドの足首を掴んだ。
彼女の物腰柔らかい瞳から、普段の柔和な光がすっと消え、底深い「闇」の光彩が宿る。
「……私の後ろを預かると、約束してくださいましたよね、ブラッドさん」
リーネは、教国を追われる原因となった歪な呪文を、静かに紡いだ。
「――『ペイン・イーター(痛みを喰らう)』」
ゾクリと、ブラッドの背筋を冷たい蛇が這い上がったような感覚が走った。
次の瞬間、彼の全身を苛んでいた、心臓が焼き切れるような、血管が引き裂かれるような**「一切の劇痛」が、嘘のように完全に消え去った。**
痛みが、ない。
だが、傷が治ったわけでは決してない。破裂した血管からは今も血が流れ続け、心臓は死に向かって悲鳴を上げている。
ただ、脳がその「危険信号」を受け取ることを、リーネの魔法が強引に遮断したのだ。
「……っ、ふ、あぐ……っ!!」
ブラッドが痛みを失った瞬間、今度はリーネの鼻腔から、たらりと生々しい一筋の血が伝って水面へと落ちた。
ブラッドの負うべきだった激痛のすべてが、今、彼女の華奢な肉体へとダイレクトに流れ込み、彼女の内臓を裏側から灼いているのだ。
全身を襲う凄絶な痛みに、リーネは小さく身を震わせ、苦しげに睫毛を揺らす。
「お前、この魔法まさか………」
「はい、『ペイン・イーター』は、痛みをこの身に受け入れる魔法なんです。」
――それでも、彼女の唇は、いつもの穏やかな笑みの形を崩さなかった。
「さあ……行ってください。私の『盾』が壊れる前に、終わらせて」
痛みを失ったブラッドの肉体が、機械のように冷酷に駆動する。
感覚が麻痺した身体で、彼は水底に沈んでいた『血喰双刃』を掴み、泥臭く立ち上がった。
「言われなくても……動くさ、クソ聖女が」
ブラッドの碧眼に、冷徹な殺意が戻る。
ひび割れた『プリズム・シェル』が砕け散ると同時に、ボスの巨腕が迫る。だが、痛みを失ったブラッドは、自分の肉体が壊れることすら躊躇わない。
バキバキと、限界を超えた太ももの筋肉が断裂する音を生身で響かせながら、ブラッドはボスの懐へと弾丸のように突っ込んだ。
「――死ね」
『血刃生成』すら行わない。ただの生身の、しかし全体重と執念を乗せた、最速の交差。
ザシュウゥゥッ!!!
硬質な鱗を強引に叩き割り、ブラッドの双刃が古代の主の太い首筋を深く、深く駆け抜けた。
一瞬の静寂の後、ボスの結晶質の巨頭が、生々しい肉色の血飛沫を噴き上げながら、ボトタプン、と冷たい水底へと転がっていった。
ドサリ、と同時に、巨躯が崩れ落ちる。
それを見届けると同時に、ブラッドの双剣が手から滑り落ち、彼もまた、糸の切れた人形のように水面へと倒れ込んだ。
「は、ぁ……、は……っ」
領域が解け、ボスの息の根が止まっても、神殿の底には、ただ二人の荒い呼吸音と、水滴の落ちる音だけが、ひたすら鉄臭く響き渡っていた。




