第23話:深淵の引き鉄(ひがね)
「――何事ですか……!?」
宿の安価な部屋で、ようやく泥汚れを落とし終えたリーネが、濡れた髪を拭いながら窓の外を見やった。
グランポートの街に、突如として激しい鐘の音が鳴り響いたのだ。
それも、一回や二回ではない。乱打されるその硬質な金属音は、冒険者ギルドが街の危機を知らせる『緊急非常鐘』だった。
「チッ……、安眠の邪魔をしやがる」
壁に寄りかかり、目を閉じていたブラッドが、億劫そうに碧眼を開く。彼はすでに双剣の柄に手をかけていた。
二人が息を切らせてギルドのロビーに駆け込んだ時、そこはすでに「戦場」と化していた。
床には生々しい血溜まりが広がり、急ごしらえの包帯を巻かれた高ランクの冒険者たちが、苦しげな呻き声を上げている。
受付の奥では、ミレイアが声を枯らして動ける冒険者たちへ指示を飛ばしていた。
「ミレイアさん! 一体何があったのですか!?」
「リーネさん、ブラッドさん……! 潮騒の洞窟のさらに奥、大潮の夜にしか現れないはずの『海底神殿』の封印が、何者かによって無理やり抉り開けられたみたいなんです……! そこから、さっきお二人が間引いてくれたのとは比較にならない規模の魔獣が、地上へ向けて溢れ出してきて……!」
ミレイアの顔は、恐怖と焦燥で完全に血の気が引いていた。
先遣隊として向かったベテランパーティが初戦で壊滅し、今や街の防衛線が崩壊しかけているという。
「ギルドは、今この場にいるすべての動ける冒険者に総動員令を発令します……! お願い、みんなの力を貸して……!」
ロビーにいた冒険者たちが、武器を握り直して一斉に怒号を上げる。
だが、ブラッドだけは、その熱狂から完全に孤立した冷徹な目で、カウンターに大銀貨の袋を投げ置いた。
「おい、受付。これは別件の特注だ。報酬は弾めよ」
「え……? あ、はい……! 特別手当として、大銀貨50枚を約束します!」
「出来高次第でさらに上乗せしろ。行くぞ、リーネ。道具の慣らし運転にはちょうどいい」
「はい、ブラッドさん」
お互いに視線を交わす。
大勢の冒険者が入り乱れる混戦だ。ブラッドの一族の『血気術』を、衆目の前で晒すわけにはいかない。
生身の剣技で凌ぎつつ、誰の目も届かない「死角」でのみ、最速で敵を屠る――それが、この大乱戦における二人の裏のルールだった。
潮騒の洞窟は、文字通りの地獄と化していた。
「前衛が保たない! 盾は何をやってるんだ!」
「うわあああッ! どけ、後ろからさらにデカいのが来るぞ!!」
入り口付近の防衛線はすでに崩壊しかけていた。松明の赤黒い炎が、乱戦の風圧で激しく揺らめく。
地元の高ランクパーティの戦士が、異形の水棲魔獣――ぬめり気のある皮膚に無数の這い回る眼球を持つ『深淵の落とし子』の巨腕に叩きつけられ、岩肌に生々しい血飛沫をブチまけて転がった。
怒号、悲鳴、そして飛び散る鮮血と生臭い海水の匂いが、狭い洞内に充満して視界を濁らせる。
「騒ぐな、雑魚ども。邪魔だ」
その混沌の最中に、漆黒の外套を翻したブラッドが、音もなく滑り込んだ。
他の冒険者たちが重い鋼の鎧を軋ませて後退する中、ブラッドはまるで朝の散歩でもするかのように、重力を感じさせない軽い足取りで濡れた岩場を駆ける。
背中から引き抜かれた『血喰双刃』が、暗がりのなかで一筋の冷たい軌跡を描いた。
キィン、と、硬質な肉声を残し、魔獣の強靭な外皮が容易く裂ける。
ブラッドは魔族の血(血気術)をまだ滾らせていない。詠唱もなければ、魔力の残光もない。ただの生身の剣技。
しかし、300年前に滅ぼされた緋の国の戦場で培われたその踏み込みは、並の戦士の「残像」すら置き去りにするほどに速かった。
魔獣の巨腕が振り下ろされる軌道を、半歩の身のこなしだけで紙一重でかわし、そのすれ違いざまに首の付け根の柔らかい肉を狂いなく刎ね飛ばす。
流れるようなその無駄のない殺戮劇に、周囲の冒険者たちが「な、何だあいつの速さは……!?」と戦慄混じりの声を上げた。
だが、魔獣の数は尋常ではなかった。
一体の首を落としたブラッドの死角、岩陰の完全な暗闇から、さらに巨大な個体が三本の爪を突き出して肉薄する。
背後の冒険者たちからは、位置的にその奇襲が見えていない。
「ブラッドさん、右後方! 視線、遮ります!」
後方で聖印を掲げたリーネの鋭い声が、波の音を割って響いた。
次の瞬間、ブラッドの右側面に、手のひらほどの幾何学的な光の平面――『プリズム・シェル』が、まるで空間に突き刺さるように出現した。
ガギィィィンッ!!!
魔獣の鋭利な爪が光の結晶に衝突し、激しい火花を散らす。
リーネの障壁は、ブラッドの死角にピンポイントで展開され、衝撃の『点』を完璧に堰き止めていた。さらに、彼女は呪文を途切れさせない。
「――光よ、満ちて壁となれ」
パシィィン! とガラスがひび割れるような硬質な音が連続して響く。
リーネが展開した幾つもの光の平面が、瞬時に噛み合い、ブラッドの周囲を囲むようにして巨大な「光の檻」を形成した。それは魔獣の追撃を防ぐと同時に、背後にいる他の冒険者たちの視線を物理的に完全に覆い隠す、文字通りの『目隠し』だ。
光の壁の内側。周囲の喧騒から切り離された、わずか数秒間の、誰の目も届かない絶対の死角。
「――ふぅ」
ブラッドが小さく息を吐く。その碧眼が、不気味な赤黒い魔力の光を帯びて歪んだ。
彼の手のひらから溢れ出た不浄な血の魔力が、双刃の刀身へと悍ましく収束し、ジチジチと空気を焦がすような音を立てる。
ドシュッ!!!
肉が内側から爆発するような重い音が、光の壁の向こうで響いた。
一瞬の後、リーネが障壁を解いたときには、ブラッドの前にいた巨大な魔獣は、赤黒い肉片となって地面に転がっていた。
ブラッド自身は、すでに血の魔力を完全に体内に抑え込み、何食わぬ顔で刃の粘液を振り払っている。
周囲の冒険者たちの目には、ただ「光の壁の向こうで、あの凄腕の双剣使いが魔獣を瞬殺した」としか映っていない。
「及第点だ、リーネ。視線の遮断があと半瞬遅ければ、後ろの雑魚どもに魔力の残光を見られていた」
「ふふ、厳しすぎます、ブラッドさん。でも、これで前線は押し戻せそうですね」
飛び散る海水を浴びて濡れた髪を耳にかけながら、リーネは物腰柔らかに微笑んだ。
大混戦のドサクサに紛れ、誰にも知られることなく禁忌の力を振るいながら、二人は街を飲み込もうとする深淵の群れを、冷酷に、確実に切り刻んで進むのだった。




