第20話:等身大の信頼
朝霧がまだ白く立ち込める時間、冒険者ギルドの空気はひんやりと冷たかった。
毒薬騒動の一件から一夜明け、朝の喧騒が始まる前の静かなロビーの受付には、少し目の周りを赤くしたミレイアが、いつもの制服姿で佇んでいた。
「あ……ブラッドさん、リーネさん。おはようございます」
二人の姿を認めると、ミレイアの顔にぱっと灯りがともるような、心からの安堵の微笑みが浮かんだ。
スラムの子供たちのために中和剤を作ってくれた二人への感謝と、言葉にできない信頼が、その一言に深く籠もっている。
「おはようございます、ミレイアさん。昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまで……。あの子たちも、リーネさんの中和剤を飲んで、今朝にはすっかり熱が引いたって、孤児院の先生から連絡がありました。本当に……なんとお礼を言っていいか」
ミレイアは何度も深く頭を下げた。
だが、すぐに少し言いにくそうに視線を彷徨わせ、手元にあった一枚の、少し湿った質感の依頼書を差し出してきた。
「それで……その、本当に心苦しいのですが……お二人の腕を見込んで、どうしてもお願いしたい公式の依頼があるんです」
「依頼、ですか?」
リーネが首を傾げると、ミレイアは小さく頷き、真剣な表情で説明を始めた。
「グランポートの北にある『潮騒の洞窟』という場所で、最近、水棲の魔獣が異常繁殖して、地元の漁師さんたちが漁に出られなくなっているんです。本来ならベテランのパーティに回す案件なのですが、今は他の遠征で手薄で……。毒薬の一件で、お二人の生身の隠密技と、リーネさんの高度な障壁魔法の連携を知っている私だからこそ、これをお任せできるのはお二人しかいないと思って……」
ミレイアの言葉には、ギルドの受付嬢としての冷徹な人選だけでなく、二人なら確実に生きて戻ってくるという、等身大の強い信頼が宿っていた。
ブラッドは無言で依頼書をひったくるように受け取ると、その碧眼で一通り目を通した。
「報酬と、魔獣の規模は」
「報酬は銀貨大20枚、規模は『深淵の落とし子』と呼ばれる個体が数体、洞窟の奥に巣食っていると見られます」
「……いいだろう。この街に滞在するための路銀としては悪くない。受けるぞ、リーネ」
相変わらずの冷淡な実利主義。だが、リーネはその言葉の裏にある「ミレイアの頼みなら無下にしない」というブラッドなりの不器用なスタンスを察し、物腰柔らかに微笑んだ。
「はい、分かりました。ミレイアさん、お任せください。必ず解決して戻りますね」
「ありがとうございます……! どうか、お気をつけて」
ミレイアの温かい見送りを受け、二人はギルドを後にした。
――数刻後。
グランポートの北に位置する『潮騒の洞窟』は、大自然の容赦のない暴力が数百年をかけて岩肌を穿ち、削り上げた、陰惨な海の墓標だった。
一歩足を踏み入れれば、そこは耳を聾するほどの轟音の世界。
外海から押し寄せる荒波が入り組んだ岩礁に衝突し、不気味な反響音となって洞内を激しく揺るがしている。
空気は冷たく、肌を刺すように塩辛い。波頭が砕けるたびに容赦なく吹き付ける白濁した潮飛沫が、暗い洞内を濡らしていた。
「――来ます、ブラッドさん! 上です!」
岩陰に身を潜めたリーネの鋭い声が、波の音を割って響く。
湿った天井から、粘液に塗れた魚類の皮と、無数の不規則な眼球を持つ異形の水棲魔獣が、猛然と落下してきた。
ブラッドは碧眼を細め、濡れた地面を強く蹴り上げた。
魔獣が口から放った、大砲の弾丸のような高圧の水流が迫る。
「『プリズム・シェル』――ッ!」
ブラッドの直前に、結晶めいた幾何学的な光の障壁が展開され、激突する水流を完璧に堰き止めた。
リーネは神官服の裾を激しく濡らしながらも、その細い両腕で聖印を掲げ、ブラッドの進路を完全に保障してみせる。
「……上出来だ」
障壁の向こう側から弾丸のように飛び出したブラッドの双剣が、暗がりのなかで一筋の冷たい閃光を描いた。
彼の手のひらから不浄な赤黒い魔力が溢れ出し、双刃へと収束していく。
(使うほどに、俺の理性を狂わせ、暴走へと誘う禁忌の力――)
ブラッドは自らの内に脈打つ血の魔力を双刃に滾らせ、猛然と魔獣の肉を十文字に切り裂いた。
ザシュッ、という重い肉声を残し、交差した双刃は魔獣の強靭な外皮を容易く引き裂く。赤黒い血飛沫が、海水と混ざり合って泡立った。
静寂が、再び激しい波の音によって塗り潰されていく。
ブラッドは刃の粘液を冷酷に振り払い、それを静かに鞘へと収めた。彼の呼吸は、これほどの激戦の後だというのに、恐ろしいほどに整っている。
「お怪我はありませんか、ブラッドさん」
「……お前の障壁の展開速度が、僅かに上がったな。死角を任せる道具としては、及第点だ」
「ふふ、ありがとうございます。ミレイアさんの信頼にも、これで応えられますね」
潮風に濡れた髪を耳にかけながら、リーネは物腰柔らかに微笑んだ。
自分たちを信じてくれた受付嬢の祈りと、それに応えた二人の禁忌の力。
昏い潮の底で、彼らの絆は、誰に知られることもなく、より冷徹に、より強固に研ぎ澄まされつつあった。




