第19話:琥珀色の湯気
宿屋の小さな一室には、夜明け前の静寂と、微かに爆ぜる薪の音だけが満ちていた。
卓上の小さな鉄瓶から、しゅんしゅんと白い湯気が立ち上る。
リーネは細い指先で丁寧に陶器のカップを温めると、乾燥させたハーブの葉を器に躍らせた。
熱湯が注がれた瞬間、部屋の中に、深く、どこか心を落ち着かせる清涼な香りがふわりと広がる。
「どうぞ、ブラッドさん。熱いですから気をつけてくださいね」
物腰柔らかに差し出されたカップを、ブラッドは無言のまま受け取った。
彼はベッドの端に腰掛け、背中の『血喰双刃』を傍らの壁に立てかけたまま、立ち上る琥珀色の湯気を見つめている。
温かい器から伝わる熱が、過酷な夜の隠密戦で冷え切った彼の指先を、じわじわと解かしていった。
リーネもまた、自分のカップを両手で包み込み、小さく息を吹きかけながら、窓の外の白み始めた東の空を見つめていた。
「……先ほど、私は自分のことを『不完全な聖女』とお話ししましたね」
静かな、しかし覚悟を決めたような声だった。
ブラッドは何も答えない。だが、その冷徹な碧眼は、確実に彼女の横顔を捉えていた。リーネはぽつりぽつりと、自らの胸の奥に刻まれた理不尽な過去を、静かに打ち明け始めた。
「神聖教国ルクスリアにおいて、神官が扱うべきは、神の奇跡を体現する『光の魔法』だけです。ですが……私はかつて、目の前で苦しむどうしても救いたかった人のために、教国で禁忌とされている【闇魔法】を使ってしまいました。」
リーネの独白は続く
「光の信仰を掲げるあの国において、闇の術理に触れる者は、それだけで神を汚す『異端』とされるのです」
リーネは胸元の銀の聖印を、きつく白むほどに握りしめた。
「私が使ったのは、『ペイン・イーター』……ただ、相手の『痛みを取り除くだけ』の魔法と説明しましたが、実際は『相手の痛みを少しだけ肩代わりする』魔法です。傷そのものを瞬時に癒やす光の奇跡とは違い、ただ苦痛だけを吸い上げるその術理は、教国では『神が与えた試練を誤魔化す、不浄な闇の技術』として扱われていました。」
リーネは、涙を堪えながら更に続けた。
「……私はただ、目の前で涙を流して苦しむ人の痛みを取り除いてあげたかった。それだけだったのです。ですが、その一度の選択で、私は『不完全な聖女』として排斥され、異端としてあの国を追われました」
部屋の空気が、静かに、重く沈み込んでいく。
光の聖地であるはずの教国から、ただ「痛みを消す優しさ」のために追放された少女。
リーネは深く息を吐き、静かにブラッドを見た。
「これが、私の過去のすべてです。……ブラッドさん、神に背き、教国から異端として追われる身となった女でも、あなたはまだ、傍に置いてくださいますか?」
悲痛な問いかけが、琥珀色の湯気の向こうから投げかけられる。
ブラッドはしばらくの沈黙の後、ようやくカップを口元へ運び、冷めかけたハーブティーを静かに飲み干した。野草の苦味が喉を灼く。
彼は立ち上がると、壁に立てかけてあった『血喰双刃』を再び背中へと背負い、冷徹な声で言い放った。
「お前が聖女だろうが、異端だろうが、俺には関係のないことだ」
ブラッドは扉へと歩きながら、振り返ることなく続けた。
「俺の内に流れる『血気術』も、お前がいた神聖教国ルクスリアの基準からすれば、魔族の血を取り入れた絶対に許されざる『禁忌の異端』のはずだ。お前なら、それがどういう意味か分かっているだろう」
その言葉に、リーネは小さく目を見開いた。
元神官である彼女は、教国が「血気術」をどれほど忌むべき悪魔の業として激しく排斥しているか、誰よりも理解している。だが、彼女は怯むことなく、ただ静かに微笑んだ。
「ええ……分かっています、ブラッドさん。でも、今の私にとっても、あの国の教条など何の意味も持ちません。私を救ってくれたのは、あの国の光ではなく、あなたのその刃ですから」
「なら、お前がどんな過去を背負っていようと、俺の死角を埋める盾として機能する限り、俺はお前を切り捨てはしない。……それだけだ」
冷淡で、慈悲のない言葉。しかしそれは、同じく教国に「異端」のレッテルを貼られた者同士の、亡霊なりの絶対の肯定だった。
扉が閉まり、ブラッドが部屋を出ていく。
残されたリーネは、ぽつり、と温かい涙をカップの底へと落とした。その顔には、出会ってから初めての、心からの救われたような笑みが浮かんでいた。




