第18話:深更のハーブ、少女の涙
深夜の冒険者ギルドは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
閉門された重い木扉の隙間から漏れるのは、消えかけた蝋燭の頼りない橙色の光だけ。誰もいない薄暗いホールの奥、調理場の片隅を借りて、リーネは静かに作業を続けていた。
卓上には、スラムの隠れ家から回収した例の紫色の原液と、いくつかのガラス小瓶が並んでいる。
リーネは胸元の銀の聖印にそっと手をかざし、祈るように囁いた。
「――『リライト・ヒール』」
彼女の掌から溢れ出た柔らかな金色の光の糸が、澱んだ紫色の液体へと吸い込まれていく。
元神官としての知識を総動員し、傷を縫合する回復魔法の術理を応用して、液体の中に残る教国の不気味な魔力の燃え滓を一つずつ丁寧に「書き換え」、無害な成分へと分解していく繊細な作業。
やがて、禍々しい紫色だった液体は、静かに透き通った琥珀色へと姿を変えた。スラムの被害者たちを救うための中和剤の完成だった。
「……お待たせいたしました、ミレイアさん」
リーネが汗の浮かんだ額を拭いながら微笑むと、調理場の入り口で落ち着かない様子で指を絡めていたミレイアが、弾かれたように駆け寄ってきた。
「リーネさん……! これ、本当にあの子たちを救えるのね……?」
「はい。これを少しずつ飲ませれば、体内に残った毒の過活性は抑えられます。明日、教会の孤児院を通じて、騙されてしまった人たちに配りましょう」
琥珀色の小瓶を見つめるミレイアの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。彼女は胸元できつく拳を握りしめ、言葉にならない安堵の吐息を漏らす。
「よかった……本当に、よかった……っ。私、ギルドの受付嬢なのに、規則だって分かってるのに、何もできなくて悔しくて……。二人が無茶して、もし怪我でもしたらって、ずっと生きた心地がしなかったの……ありがとう、本当にありがとう……!」
ミレイアは感情を堪えきれず、リーネの華奢な身体にすがりつくようにして泣きじゃくった。
ギルドの顔として普段は毅然と振る舞う彼女も、その本質はスラムの子供たちを心から憂う、等身大の優しい少女に過ぎない。
リーネは物腰柔らかに微笑み、その細い腕でミレイアの背中を優しく、包み込むように撫でた。
「泣かないでください、ミレイアさん。あなたのその優しい祈りが、私を動かし、あの子たちの命を繋いだのですから。あなたは立派に彼らを救いました」
二人の少女が温かい絆を確かめ合うその光景を、ブラッドは調理場の影、月光も届かない暗がりに背を預けたまま、黙って見つめていた。
彼の懐には、先ほどリーネが読み解いた「下級巡察官の取引メモ」が仕舞われている。そこに魔族の名はなくとも、教国の歪んだ悪意の匂いは確かに残っている。
(道具としての感傷など、俺には不要だ)
心の中でそう吐き捨てながらも、ブラッドは双剣の柄からそっと手を離した。
泣き崩れる受付嬢と、それを宥める聖女の姿は、血塗られた彼の復讐の旅路において、ひどく場違いで、ひどく眩しいものに映っていた。
やがて涙を拭ったミレイアを裏口から見送り、ギルドを後にした頃には、夜空の端が微かに白み始めていた。
宿へと続く静まり返った朝の路地を歩きながら、リーネは並走するブラッドをそっと見上げる。
「ブラッドさん。……今夜は、私の我儘に付き合ってくださって、本当にありがとうございました」
「勘違いするなと言ったはずだ。お前の拠点が荒らされれば、俺の死角を補う道具が鈍る。それだけだ」
相変わらずの冷淡な拒絶。だが、リーネはもう怯まない。その不器用な言葉の裏にある、彼なりの一歩を知っているからだ。
「ふふ、そうでしたね。では、宿に戻ったら、お約束通り特製のハーブティーを淹れますね。少し長めの遠征が続きましたから……心安らぐ、とても深い香りのものを」
朝霧が立ち込めるグランポートの街並みの中、二人の亡霊と聖女の影は、静かに、しかし確かに重なり合いながら、次の戦いへと歩みを進めるのだった。




