第16話:鼠たちの通い路
スラムの夜は、ただ暗いだけではない。
それは、都市のあらゆる排泄物と、行き場を失った命の澱みが腐敗していく、湿った粘り気を持つ闇だった。
頭上を覆う歪な木造のひさしが星空を完全に遮り、細い路地はまるで巨大な怪物の臓物の内部を歩いているかのような錯覚を抱かせる。
足元を流れる不衛生な溝水からは、饐えた酸っぱい臭気が立ち上り、時折、ゴミ溜めの奥で大きなドブネズミがカサカサと這い回る音が響いた。
壁の向こうからは、重い病に喘ぐ者の乾いた咳や、絶望に身を委ねた者の虚ろな笑い声が、夜霧に溶けて絶え間なく鼓膜を震わせる。
「……この先です、ブラッドさん」
リーネは神官服の裾が汚れるのも厭わず、声のトーンを限界まで落として囁いた。
彼女の足取りには迷いがない。このおぞましい不条理の街で孤児たちと生きてきた彼女にとって、この闇の構造は身体の一部のようなものだった。
二人は、崩れかけたレンガ造りの古い貯水池跡の影に身を潜めた。
十数歩先、傾いた木扉の隙間から、一本の貧弱な蝋燭の光が漏れている。そこに、ミレイアの言っていた闇商人たちの姿があった。
「おい、明日の分の『紫露』の希釈は終わったんだろうな」
「へへ、抜かりねえよ。スラムの馬鹿どもは、これで一時の痛みが消えるなら、全財産を叩いてでも群がってくる。教国の旦那様々だぜ」
粗末な衣服に身を包んだ男たちが、紫色の液体を小瓶に小分けにしている。その手元にある木箱には、確かに「神聖教国ルクスリア」の歪な紋章が焼き付けられていた。
ブラッドの瞳が、獣のように鋭く細められる。彼の背中で、双剣が静かに、しかし飢えたように鳴いた。
「手下は三。奥に元締めが一人。……リーネ、合図と同時に奥の退路を塞げ」
「……分かりました。お気をつけて」
ブラッドの身体が、音もなく闇の中に溶ける。
彼は気配のすべてを消し去っていた。呼吸の音はおろか、衣服が擦れる摩擦音すら立てず、ただの一筋の冷たい風となって路地を滑る。
――ガタッ。
「あ? なんだ、ネズミか――」
木箱の陰で作業をしていた最初の一人が、違和感を覚えて顔を上げた瞬間には、すべてが終わっていた。
暗闇から伸びたブラッドの左手が男の口を完璧に塞ぎ、右手のリバースグリップで握られた『血喰双刃』が、その喉笛を正確に、深く、一切の抵抗を許さずに横一文字に裂く。
シュル、と不気味な血の鳴る音が夜気に消える。男は白目を剥き、声を出すこともできずにブラッドの腕の中で泥人形のように崩れ落ちた。
「おい、どうした?」
不審に思ったもう一人が振り返ろうとした瞬間、ブラッドは既にその背後に肉薄していた。生身の双剣が、まるで最初からそこにあったかのように自然な軌道で、男のうなじの関節へと突き立てられる。肉を断ち、骨の隙間を滑り抜ける確かな手応え。
二人目もまた、悲鳴を上げることすら許されず、絶命して床に伏した。
「な、なんだてめえッ!?」
最後に残った大柄な男が、ようやく異変に気づき、腰の鉈を引き抜こうとした。その口が、仲間に危機を知らせるために大きく開かれる。
「――『プリズム・シェル』」
暗闇の奥から、リーネの囁くような、しかし凛とした詠唱が響いた。
男の背後の空間に、突如として結晶のような幾何学的な光の障壁が展開される。それは防御の盾ではなく、逃げ道を完全に遮断する「壁」として機能していた。
さらに、リーネは障壁の魔力を歪ませ、その一画の音波を完全に遮断する結界へと応用する。
男が放とうとした怒号は、光の壁の内側で虚しく押し潰され、外部の闇へと漏れることはなかった。
声も、退路も失った男の目の前に、死神の如きブラッドの冷徹な貌が迫る。
「が、あ――」
男が鉈を振り下ろすよりも早く、ブラッドの双刃が交差した。
ザシュッ、という鈍い肉声とともに、男の胸元が深く斜めに切り裂かれ、鮮血が飛び散る。
光の結界にベトリと赤い破片が張り付き、男はそのまま力なく膝から崩れ落ちた。
わずか数十秒の出来事。静寂が支配する路地裏で、ブラッドは刃に付着した血を冷酷に振り払い、光の壁の向こう――闇商人の元締めが潜む、木扉の奥をじっと見つめた。
生身の隠密剣技と、攻撃を持たない聖女の、音をも置き去りにする冷徹な連携。
二人は互いに視線を交わすこともなく、ただ一つの意思のもとに、さらに深い闇の奥へと足を踏み入れていく。




